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人間の「生命観」が変わりつつある件

▼最近、「生命」のとらえ方にまつわるニュースが多い。

それらの幾つかをまとめたコラムを、2019年3月17日付東京新聞に政治学者の山口二郎氏が書いていた。

▼このコラムが書かれた直接のきっかけは、2019年3月7日付の毎日新聞1面トップで報道された斎藤義彦記者のスクープだ。

〈医師、「死」の選択肢提示/透析中止 患者死亡/公立福生病院/指針逸脱 都、立ち入り〉

〈東京都福生市と羽村市、瑞穂町で構成される福生病院組合が運営する「公立福生病院」(松山健院長)で昨年8月、外科医(50)が都内の腎臓病患者の女性(当時44歳)に対して人工透析治療をやめる選択肢を示し、透析治療中止を選んだ女性が1週間後に死亡した。毎日新聞の取材で判明した。

病院によると、他に30代と55歳の男性患者が治療を中止し、男性(55)の死亡が確認された。患者の状態が極めて不良の時などに限って治療中止を容認する日本透析医学会のガイドラインから逸脱し、病院を監督する都は6日、医療法に基づき立ち入り検査した。〉

▼このニュースは続報が相次ぎ、他紙も追いかけた。山口氏はこのニュースから書き出して、次のように展開する。

〈ある雑誌の新年号で、若手の評論家が、死の一カ月前に医療をやめれば医療費が大幅に削減できると発言し、物議をかもした。少し前には、あるテレビキャスターが、人工透析患者は自業自得なので、費用は全額自己負担にせよと発言し、批判を浴びた。

 前者は無知、後者は確信犯という違いがあるように思えるが、支払い能力によって命の長さに差ができることを当然と考えていることは共通している。〉

すでにこの社会には〈支払い能力によって命の長さに差ができることを当然と考えている〉人間が増えているのかもしれない。そうだとすれば、この考えを積極的には認めていないとしても、なんとなく「しょうがない」と感じている人も多いだろう。

「それはありえない」「理屈としてはわかるが、それは、ない」と拒否する人が減っているのだとすれば、それは要するに、人間の「生命観」が変化しつつある、ということだ。

▼さらにコラムでは〈今月初め、日本産科婦人科学会は、新出生前診断の手続きを簡易化する方針を打ち出した〉件を問題視する。

もしこれが普及すれば、障害がある子供が生まれたことは親の自己責任という感覚が一般化する恐れがある。そうなると社会福祉は大きく後退する〉という山口氏の指摘は鋭い。

「親の自己責任」なんて、想像力ゼロの下衆(げす)たちが、いかにも吊るし上げたがりそうなテーマだ。そこから「福祉」の破壊に至るまで、たしかにそれほど遠い距離ではないと感じる。

▼さらに山口氏は〈救うべき命と救わなくてもよい命が区別できるという議論を始めたら、個人の尊厳、平等という近代社会の根本原理は崩壊する。生きるに値する人と値しない人をどう識別するのか。それが可能だと言い出せば、生きるに値しない人間を大量にガス室で抹殺したナチスの思想に限りなく近づいていく。〉と危惧する。

筆者は決して大げさではないと思う。たぶん小学生でもわかるとても単純な話で、「差別の基準」が、かつてのドイツでは「アーリア人かユダヤ人か」だったが、今の日本ではその基準が「金持ちか貧乏人か」になっていくだけだ。

▼これらの一つ一つが、一本のコラムの手に負えない大問題ばかりだが、このコラムの価値は、最近の生命観の変化にまつわる話を列挙したところにある。

▼これらに付け加えるべき事件として、すぐに思いつくのは「ゲノム編集された双子の赤ちゃんの誕生」だ。「ゲノム編集」がいいのなら、「出生前診断で堕胎する」のもいいだろう、と、論理的には、つながりうる。これも、お金がからんでくるだろう。

▼山口氏は、これらの「生命」問題を考える土台として、「近代社会の根本原理」としての「個人の尊厳」と「平等」を挙げている。いかにも山口氏らしい正論だ。

ここが、考えどころだと思う。

▼かつて「個人の尊厳」や「平等」が謳われ始めた社会で、どういうことが行われていたのかを露わにした調査報道について考えてみたい。これも毎日新聞が率先して報道したのだが、「旧優生保護法を問う」キャンペーンだ。

このキャンペーンによって、「優生思想」は戦時だけでなく平時にも猛威を振るうという事実が、誰も目を背けられないかたちで露わにされた。

▼同キャンペーンの「新聞協会賞」受賞を報じる、毎日新聞2018年9月5日配信の記事から。

〈「旧優生保護法を問う」取材班(代表、遠藤大志・仙台支局記者)は、「不良な子孫の出生防止」を目的に障害者らに不妊手術を強いた旧優生保護法(1948~96年)に基づき、15歳の時に手術を強制された宮城県の60代女性が全国で初めて国を相手に損害賠償請求訴訟を仙台地裁に起こす方針であることを昨年12月3日朝刊で特報した。〉

▼同キャンペーンのトップページから。

〈旧優生保護法下で不妊手術を強制された障害者らの記録に関する毎日新聞の全国調査で、強制手術を受けた人の約8割に当たる1万2879人の資料が確認できなくなっていることが判明した〉という、悲惨な事件だ。

▼一言で要約すると、「目も当てられない惨状」である。

被害者の、記録が、存在しないのだ。

毎日新聞の「旧優生保護法を問う」キャンペーンは、この社会が悲惨な差別を「黙認する社会」から、「糾弾する社会」に変容したことを示している。

そのいっぽうでこの優れた調査報道は、「個人の尊厳」や「平等」という観念が、どうすれば社会に息づくのか、重い問いを発し続けている。この国家規模の差別政策は、太平洋戦争の前からの話ではなく、戦争後の話、日本国憲法下で行われた話なのだ。

▼「個人の尊厳」や「平等」は、間違いなく「近代社会の根本原理」なのだが、そもそも、【それら(個人の尊厳とか、平等とか、近代社会とか)を成り立たせている何か】を扱う論考が、マスメディア業界にはじつに少ないと感じる。

突きつけられている問いは、「どうすれば生命を尊重できるのか」とか、「どうすれば人間の尊厳を守れるのか」とかよりも、「誰が人間なのか」という問いではないだろうか。

たとえば、出生前診断によってダウン症が判明した胎児を殺す時、その胎児は「人間」なのか、という問いだ。

たとえば、支払い能力の上限がどこまでなら「人間」で、どこまでなら「人間」ではないのか、という問いだ。

これらの問いには、「個人の尊厳」や「平等」の理念だけでは、十全に答えきれない何かが含まれているように感じる。

(2019年3月26日)

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