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「学生が棄権する」理由から「失敗を認めない社会」の末路が見える件 後編

▼前号は、最近の大学生にとって、

「社会に有益な政治家を選ぶという「正しさ」より、自分が当選者(=多数派)に投票できるかどうかが重要な指針になっているように感じる。

少数派と見られるのを失敗と同義に捉え、極度に恐れている。

という工藤宏司氏の推測を紹介した。

▼その後半を読もう。

〈(若者にとって)失敗しないことが目的化し、身動きがとれなくなっているように見える。〉

〈若い世代が「間違うこと」や失敗を過度に恐れるのは、社会や学校が「間違うことの価値」を見いだす機会と経験を与えてこなかったからではないのか。「コストをかけてまで声を上げたくない」。それが若者の沈黙の理由だろう。〉と工藤氏は話す。

▼「コストをかけてまで声を上げたくない」という発想も衝撃的だ。「コスト」は大切なキーワードだ。

整理すると、多数派でいることはコストが低い。少数派になることはコストが高い。そして、少数派になるかもしれない判断を迫られることそのものも、すでにコストが高いわけだ。

この「コスト」が何を示しているのか、具体的にはわからないが、極めて内省的な次元でのコストのようだ。

そして、この発想は、もちろん自民党を利するだろう。

▼工藤氏は、学生ではなく、「失敗を認めない社会」、「迷うことを認めない社会」のほうが問われているのだ、と結論する。

「失敗を認めない社会」とは、言葉を変えれば、自己責任論が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する社会であり、「迷うことを認めない社会」とは、「論」のような顔をした「論理なき結果論」が、大きな顔をしている社会である。

これはとても筋の通っている話で、日本に住む大人たちが、他罰的な自己責任論に縛(しば)られているのだから、その姿を家庭でも学校でも地域社会でも四六時中眺めている子どもたちが、「失敗を極度に恐れる」ようになるのは、ごく自然なことだ。猛々(たけだけ)しい自己責任論による自縄自縛(じじょうじばく)の因果が、次の世代に現れているにすぎない。

▼工藤氏の推測をもとに考えると、「失敗を認めない社会」とは、「失敗しないことが生きる目的と化した人間」を育てる社会だ、ということだ。

「迷うことを認めない社会」は、「コスパ」(コストパフォーマンス)を考えて投票そのものから「降りる」人を育てる、ということだ。

結局、「自己責任論」という仮面をかぶった結果論が、ますます強化されていくのだとすれば、「自己責任論は、民主主義の土台を掘り崩す」という仮説を立てられるかもしれない。

これは、長期的に見れば異常に「コスパ」の悪い行動なのだが、「自分の周り」の関係を優先していると、たとえば数年先とか、そんな未来のことは見えないのかもしれない。

▼「コスパ優先」の思想を身につけてきた10代、20代の人々のことを、それより上の「自己責任論」世代が、やれ「内向きだ」とか、やれ「責任を持て」などと批判するのは、筋違いかもしれない。

「投票を棄権する」という選択は、日本社会に蔓延している「自己責任論」の論理的帰結なのであり、学生たちにとって、それ以外には政治的に「自己の尊厳を守る」手段がないのだから。

10代後半から20代の日本人は、相当不安で、相当追いつめられていることを示唆する識者談話だった。

(2019年7月20日)

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