season7-2 黒影紳士 〜「東洋薔薇の血痕」〜🎩第四章 蔦
「なっ!……何だ!?」
黒影は足を引っ張られる感覚に、驚いて声に出す。強い力で足が引き摺られ、地上に手を付いた。
何が起きたのかとサダノブを見ても異変は無い。
着いた掌に不気味な感覚があった。
ミミズの様に冷たい何かが一瞬通ったかと思うと、手の甲に其れは姿をやっと現す。
シュルッと黒影の指に絡まり、蔦は其の身体毎引き摺り、サダノブから離そうとするのだ。
まるで意思を持っているかの様に、黒影が成すべき事総てを邪魔しているかの様にも窺える。
バイクの前輪に絡まった蔦を見た時、辺りでは無く蔦其の物を注視すれば良かった。
もうサダノブの身体は路上へと残り、黒影から離れてしまう。
身体を巻く蔦の力は強く、道路に網の様にへばりつき、黒影を引っ張る先は、ガードレールも無い、立ち入り禁止の大きな工事中で出来た崖らしい。
「サダノブ!」
意識の無いサダノブはぐったりとし、蔦に争う事なく巻き付かれ、最早片目が見える程度だ。
僕があの瞬間、もっと早く警戒する様に言っていれば!…否、分かってる、分かっているんだ。
こんな時の後悔なんて、何の役にも立たない。
今を少しでも、改善させる事のみに脳は使うべきだ。
「ううっ……!」
黒影は次の瞬間、顔を顰めた。
とうとう蔦が鳳凰の翼までも締め始めたからだ。
何故……燃えないのだ?!
背の翼は鳳凰の炎の翼……其れが燃えないだなんて。
きっと此れは誰かの持つ能力で出来た蔦。
たかが蔦だが、この能力を持つ能力者の力が桁違いに強い。
黒影の首を巻く蔦が徐々に絞まって行く。
まるで蛇の生殺しにされた気分な。
薄れ行く意識の中、サダノブに手を伸ばす。
「なぁ……お前、僕の守護なんだろう?今助けないで、何時助けてくれるんだよ」
……何で己がこんな時に、お前を守れなかった事に後悔なんか感じなくてはならないんだ。
僕の終活予定には、後悔なんて無いんだよ……。
酸素が薄れ脳はぼやけて、何も考えられなくなる。ずっと考え眉間に皺を寄せ乍ら、人生の大半を過ごしていたのだ。
こんな終わり方も案外有りではないか。
そんな風に死を受け入れつつある時だった。
「旦那っ!黒影の旦那っ!……何道端でみっともなく転げているんだい、みっともない!黒影の死に顔なんて未だあたいは見る気、ないからね!パートナーシップ契約だって施行してやるもんかい!……黒影の旦那迄「ろくでなし」になんか、この涼子が意地でもさせないよっ!!」
きっと既にサダノブのバイクから位置を特定、この近辺の監視カメラをジャックしているんだ。
黒影の横に転がったフルヘルメットの無線から、怒りに震えた涼子の声がした。
怒りに震えたと書くには語弊があるな。黒影が死ぬかも知れない今……そんな現実を許しはしないと、震えていたのだろう。
黒影が自分に何かあった時、「夢探偵社」の未来を唯一託した女。
真っ赤な着物が似合う、強かな……其れでも、過去に逮捕された黒影だけは信じる、口は盗っ人のままだが、義理堅い律儀な女だ。
今も亡くなった夫を「ろくでなし」と呼び、愛し続ける一途な女。
「今、穂と其方に向かっているから!良いね、黒影の旦那!サダノブも!」
「有難う……涼子さん。すみません……穂さん」
黒影は最後だと思い、薄い声でそう言った。
……何かあったら何時も駆け付けてくれた。其れだけで、僕はどんなに心強かった事か。
サダノブに合わせてやりたい……。馬鹿面下げて犬歯をニカッと見せて笑うあの笑顔……穂さんから奪いたくなんかない。
……何故にこの指先一本……近付けないんだ。
「なぁ……サダノブ……ほら、事件だ。行くぞ……」
息も絶え絶えに言った言葉。
蔦の締め付けで指先が紫に変色し、冷たく揺れる。
何時もの様にひょいひょい着いてきて、文句の一つや二つ、言うんじゃ無かったのかよ……。
バキッ……バキッ……と、翼の細い骨が次第に折られて行く音がする。
余りの痛みにも動く事も、声を出す事も出来ず息を上げ、歯を食い縛る事しか出来ない。
鳳凰が……殺される。
ならば、きっと此れが創世神の言う、「翼を持つ強い力の能力者」の仕業なのだろう。
僕が及ばない……遠い存在……。
待てよ。……ならば何故創世神は助けに来ないのだ。この僕を守ると言っておきながら。
まさか……こんな状況下でさえ、打開策が未だあると言うのか?
……そうか、斬る物があるかも知れない。
僕には不可能だとしても。
黒影の頭の中には息子の鸞(らん)とフィアンセのブルーローズ(シャンソン歌手の源氏名)がおのれの無事を祈り、作り上げた新たな朱雀剣の形態、「紅蓮マグダリア」の景色を浮かべた。
世界が二週目の時を刻み始めた事で歪み始めたこの世界で、必要性を持って産まれた共鳴と言う力だ。
確かに共鳴ならば、己がピンチな時程出現し得る。
今、此れをピンチと呼ばすに何と呼ぼう。
如何なるかなんて僕すら分からない。
其れでも何もしないよりかはマシだと思えたのさ。
死ぬ一秒前迄、僕は生きる事を諦めたくは無い。
例え朱雀剣をこの手に出現させたとて、蔦だらけで指一本動かせなくなった今は、振り回す事も叶わない。
今となっては無駄な力を使い、余計に己を死に近付けるかも知れない、鳳凰の上位朱雀の力。
其れでもさ、何もしないでこのまま死ぬよりかは、何かをやったが結局死んだ。
その方が僕は……僕らしい人生だと感じたんだ。
今、目前にある僕の動けない指先は、サダノブへと向いている。
だから如何と言う訳では無いが、サダノブが息絶えるまで僕の守護だと言うならば、偶には信じてやっても良い気がしただけだよ。
目の前にお前が居るのに、何も無い訳が無い。……そう笑って終わる人生ならば、悪く無いと思えたのさ。
「黒影の旦那が諦めても、あたいは諦めないよ。助けても未だろくに言えやしない旦那だから、仕事の機密だって共有して話してきたんだっ!この涼子を、本気で悲しませるなんて、もうこの世界で黒影の旦那だけじゃあないかい!諦めるなんて……お月様が許したって、涼子が許さないからねっ!」
……涼子さん……。声……僅かだったけど、震えてる。
助けて欲しいとも思わない。
救って欲しいとも思わない。
況してや、守って欲しいとも思わない。
だけどこの時、涙が止まらなくなった理由だけは鮮明に分かる。
皆んなに……会いたい。
仲間と呼べた。家族と呼べた。
そんな皆んなと、また……下らない事で笑いたい。
泣け無しの声で呟いた言葉。瞼に浮かべた、真っ赤な太陽……。
「朱雀剣……」
其の言葉を最後に、僕は息苦しさに意識を失った。
パチッ……パチッ……。
小さな火が弾く音がする。
此処は……
嗚呼、また暖炉の前で眠ってしまっていたのか。
始めはそう思ったが、ゆっくり瞼を開くと再び残酷な現実に戻された。
意識を取り戻して直ぐに、締め付けられていた首が苦しく何度か咽せる。
僕が死んだと思ったのだろうか……。
最悪な事に、サダノブに巻いた蔦がギリギリと音を立て締め上げている。
辺りを見渡しても、能力者らしき者は居ない。
もう、動く事も出来ないのに、目の前で親友が死ぬ様を見ていかなければならないのならば、なんてこの世は無慈悲な事だろうか。
誰かの命を背負って、司令を出す僕は間違えたのだ。
きっと己の責務に負けたのだ。僕には過ぎた荷物だったのかも知れない。
そう思えた時、黒影がサダノブを見る視線の間に、一枚の赤い花弁が流れて飛んだ。
赤……と言うよりは、丹色(たんいろ。神社の鳥居等に用いる朱色にも似合た赤)
窮地に幻覚でも見たのかと思ったが違う。
其れは左手辺りから、次から次へと流れ飛んで来る。
黒影は動かない筈の左手を気にした。
「何でもかんでも一人で背負ってあの世なんか行かせてたまるかい!黒影の旦那が背負っている中に、あたいが信じた物もあるって事、忘れんじゃないよ!」
未だ到着出来ない涼子が、黒影の無線に言い放つ。
……涼子さんの信じたもの……。
「ろくでなし」の様な、誰かを守ろうとセキュリティ技師になった者が、殺されない世の中だろうか。
其れとも……復讐に燃えた真っ赤な「赤」が再び笑顔になる様な、そんな日々だろうか。
そうか……何方も、僕無しでは出来なかったんだ。
確かにそうだな、涼子さん。
僕の背負っている物は、案外……悪く無い。
始めは己の血が散る様に見えたこの赤い花弁も、今は何故か……優しさに見える。
視線だけ動かして見下ろせば、左手に火の粉が散っていた。
黒影の利き手である。
意識が飛ぶ寸前に呼んだ朱雀剣が有った。
其れを押さえつける様に、蔦は幾重にも集中して朱雀剣に巻き付くが、このパチッと鳴る様な音は、内側から少しずつ焼き切っているに違いなかった。
其れが分かっても、黒影自体は動ける訳では無い。
「黒影の旦那ーーっ!」
涼子が如何にもならない黒影の姿を、バイクのミニモニターから確認し、間に合いそうに無い…何も出来ない悔しさに、悲鳴を上げる様に叫んだ。
見たく無い……「ろくでなし」に似た綺麗な瞳の人が死ぬところなんて!
二度ともう……その瞳が消えるのを見たくは無い。
あたいの物になんかならないで良い。自由に生きていて欲しいだけなのにっ。
「ろくでなし」に甘えて、何も知らずに死なせちまったあたいが、誰よりも「ろくでなし」。
ねぇ……「ろくでなし」
せめてあたいが、あの旦那を守りたいと思うなら、あたいはもっと「ろくでなし」かい?
「昼顔の涼子」と嘗て呼ばれた赤がトレードマークカラーの大泥棒は、その後恥じる生き方を捨て、今も変わらぬ強さに赤いライダーススーツに、真っ赤なボディのバイクに跨ぐ。
フルヘルメットから長い黒髪だけを靡かせ、その時落とした涙を知っているのは、「ろくでなし」ともう一人……真っ赤な瞳の紳士だけ。
一体この美しき花弁が見えたところで何が出来ようものか。
誰かと共鳴したならば、きっとさっきの無線の声と言い、この赤い花弁と言い、涼子さんには違いないのだ。
……涼子さん……大丈夫かな。
己の心配をするべき時に、僕と言ったら……。
そう思い、視線を戻しサダノブを見た。
あれからお互いに、守るべき者が増えた。サダノブにも、僕にも。
それでも不思議と、其れには苦を感じた事が無い。己の作戦や指示に重みは感じても、一度もだ。
誰も救われたいだなんて思っちゃいなかったからだって気付いたんだ。
皆んな……助けたい。守りたい。そんな人ばかり、僕の周りにはいるみたいだ。
サダノブを助けたい。だから、自分を守りたい。
そう、素直に今は思える。
守り守られる意味を分かり始めた頃、一枚の花弁が黒影の頬を掠めた。
「痛っ……」
紙が擦れた様な痛みに、顔を顰める。
……この花弁……切れるのか。
黒影はぽたりと地面に落ちた小さな己の鮮血を見て再確認する。
そうか……最強のセキュリティ……か。
黒影は其の時、涼子の願いに気付いた。
「……後は、僕が守られる覚悟があるかの問題の様だ」
黒影はそう言って息を整えた。
最後の力の使い方は……
諦めの悪い己が良く知っている。
「うぉおおおーーー!!」
何とも珍しく勇ましい雄叫びを上げ、黒影が先ず地面から剥がしたのは、朱雀剣を持つ左腕であった。
やはり小さな音がしていただけあって、内部の蔦は焼き切れており、問題無く剥がせる。
だが、更に追って新しい蔦が飛んで来ては、その動きを止めようとした。
黒影は今度は己を闇夜の中、何と影の中にすっぽり落としてしまうのだ。
影の中に姿が転がり落ちると慌てて閉じた。
追ってきた蔦も流石に影には入れず、千切れる。
然し、千切れた先はと言うと、まるで生き物の様にバタバタと動いているのだから、不気味だ。
その不気味な途切れた蔦を見遣り乍ら、黒影は朱雀剣で己に巻き付いた蔦を焼き切る。
元から鳳凰から派生する朱雀の剣なので切れ味が良いものでも無く、通常は熱風の竜巻で飛ばす技しか出せない。
黒影は足元に少しずつ落ちた、生き物の様な蔦を見下ろし、思わず片方の眉だけ上げた。
切った箇所から、また伸びているではないか。
其の異様な景色と言ったら不死身の何かで、見るも気分が悪い。
何とか其れ等が再生を果たす前に動ける程には、蔦が焼き切れた。
黒影だけならば、其処にさえいれば十分安心ではあったがそうはしない。
直ぐ様、影の天井を開けて、地上へ繋ぐ。
サダノブが待っているからだ。
勿論、影の出入り口が開かれると瞬時に、蔦が大量に流れ込んで来た。
まるで何かを自動感知している様にも思える。
黒影は朱雀剣を振り回し、焼き切り乍ら、大きな朱雀の翼を回転させ、飛び出した。
敵も見えない。誰からの攻撃かも分からない。
交わすだけで精一杯。
然し、止めなければ……。
サダノブが死んでしまう。
何時も護られてばかりなんて、もう嫌だ!
守るの意味も、言葉そのままの意味ぐらいにしか理解出来ないが、それでも!
出来る出来ないじゃない!
僕は今、此奴を守りたいんだ。
その時……朱雀剣の形が変わった。
まるで叩き上げられた直後の様に、真紅に艶めいて光る、一筋の日本刀となったのだ」
と、黒影は変化した朱雀剣を見て、暫し困り果てる。
が、サダノブが数回乾いた咳を上げた。
気道が押しつぶされて来ているのだ。
黒影は日本刀を軽く横にし眺めた。
椿の花弁が手元から産まれては先へ流れて行く。
……流れがあるのか……。
黒影は其の動きに、この刀の使い方にふと気付いた。
然し、黒影は日本刀の使い方が分かる筈も無く、椿が集まる瞬間を待った。まっ直ぐ、心に思った様に、柄から先へと椿が流れ咲いた。
此の花弁が僅かながらでも切る事が出来るならば、そう……当てたいところで、風圧を止め、錯散させれば良いだけの事。
熱風を飛ばすなら慣れている。
ただ、問題なのはこの新しい日本刀の形状。
然し、これが変わらぬ朱雀剣だと言うのならば、その風圧は力なのだから、変わらない筈。
日本刀と言う形で、普段は分散される熱風がもっと絞られる。
例えるならばそう…。
「一刀東洋薔薇破炎斬!(いっとうつばきはえんざん)」
この一刀に、我が友の命を託すしかない。ただ真っ直ぐに何の迷いも無く、月を突き刺し光を受けると、一気に振り下ろした。
真っ直ぐに伸びる椿の橋が、夜空に掛かる。
サダノブの手前でやはり花はふわっと散り散りになり花弁となり、シュ……と小さな音を立てて、蔦を切っていく。
其れはまるで小さな鎌鼬(カマイタチ)の様でもある。
此れ等は、深くサダノブを傷付ける事も無い。
サダノブの首や手先の蔦が切れた。
掠れた声で、
「先輩……せっ……」
と、黒影を呼ぶのだ。
「馬鹿。後で涼子さんにお礼しないとな。なぁ、僕の炎も効かぬ。きっとサダノブの氷だけでも効かない。二人合わせて、何とかなるかどうか……。サダノブ、こう言う時は如何するんだっけ?」
黒影はそんな復習クイズを出し、サダノブが起き上がれる様、手を貸す。
二人を包む椿の花弁に
もう刃は存在しなかった
其処に残った物は
ただ美しいだけの優しさであった
黒影は答えを待ってニヤッと笑う。
サダノブは犬歯を見せ笑う。
まるで二人、悪巧みを考えているかの様に。
二人の耳には、安心出来るだけの信頼の音がする。
「そりゃあ、先輩直伝の……」
サダノブは久々で、さっき迄の痛みや苦しさを忘れてしまいそうな程だ。
だって、また黒影先輩と……こうして下らない話しで笑える。
そして耳に届く音は……俺の愛した人の音。
地獄からだって、天国に這い上がれる。たった一瞬でさ。だから、この人に……黒影と言う男に付いて来て良かった……。
(黒影)「さっさとズラかるぞ」
(サダノブ)「とんずらっすね!」
と、多少言葉は違うものの、大体同じ事を言って、二人は音のする方へと痛みも全てを忘れ、振り切って走り出した。
途中、何方らかがふらついても態勢を整える様に、乱雑に度付いたり、引っ張ったり……兎も角、真っ直ぐ最短距離で向かう。
「黒影の旦那っ!」
涼子がライトを霧の時用に上げて光らせた。
「サダノブさんっ!」
穂も黒影の隣のサダノブを見て涙ぐむ。
「ほら、意地張って帰ってきたんだ。笑顔で迎えてやんな」
そう、涼子は穂の肩にポンと手を置き、微笑む。
「……そうですね。生きて帰ってきた!約束は果たしてくれました。後は……私、誰にもサダノブさんを傷付けさせる気はないです」
穂は決心を露わに、エンジンを空噴かし始める。
涼子は其れを聞いて、
「まぁまぁ……勇ましい、新妻だ事」
と、言う。
「えっ?駄目ですかね?」
穂はもう少しお淑やかにしなければいけないのかと、涼子に尋ねた。
「上等だよ。サダノブには其のくらいが調度良いのさ」
涼子はそう言うと、バイクを一度降り、黒に丹色の裾へのグラデーション。見事な金糸が囲む東洋薔薇(椿)が咲き誇る着物を夜空にバッと回して、揺蕩わせた。
赤を羽織る姿は……まるで、黒影に捕まったあの日と同じ。
「ろくでなし」が死んだ、あの日とも同じ。
涼子に取っての其れが、鎧の様な物だ。
「何だい、あの化け物は!……黒影の旦那、また要らないもんに好かれちまったみたいだね!」
涼子は二人を追いかけて来る大量の蔦を見て、大笑いしてエンジンを唸らせた。
「もうっ、僕の自慢の翼もお陰でボロボロだよ!早く!目的地はあの椿の家だ!時藤 浩史の家!ねぇ、霊水持ってる?!……羽根が散り始めた!」
蔦に捕まらない様に、走り乍ら黒影は涼子に息も絶え絶えになり聞いた。
「ああ、いると思って持って来たけれど、飲む余裕なんてあるのかい?」
と、涼子は扇子を広げてクスクス笑う。
「そんなの、涼子さんが作ってくれれば良いじゃないか。報酬は、次の新作特許権……これで如何?!
」
黒影は、涼子に物を頼むには、何よりも取り引きだと言う事は、長年に渡り心得ている。
尚且つ、涼子があの着物を羽織ったと言う事は、やる気十分……つまり、勝機が見えている証拠だ。
「あいよ。それで引き受けるよ。全くあたいは黒影の旦那だけには甘いんだから、仕方ない。上等な日本酒付けてくんなましよ」
黒影がやっとの思いで、涼子と穂のバイクに辿り着く。
「旦那、その刀貸しな。運転は頼んだよ。旦那にはこっち」
涼子はバイクの後ろに、後方を向き仁王立ちする。
真っ赤な日本刀が着物に映える。
黒影は、涼子から渡された霊水の入ったペットボトルを一気飲みした。
鳳凰が唯一飲む飲み物は、霊力が高く清められた甘水や、富士山等の霊峰で取れる、清い霊水のみである。
黒影は体力の落ちた、鳳凰や朱雀に与え、回復をしているのだ。
黒影は後ろに立つ涼子に配慮する事無く、霊水を飲み干すと、あの大量の蔦から逃げ、目的地に迎かう為に、ハンドルを回しバイクを走らせた。
「サダノブも穂さんと運転を変われ!早くっ!」
其れが黒影の指示だ。
何故かサダノブには分からなかったが、あれだけ負傷したからだろうかと思い乍ら、
「すみません。ああ、先輩も言っているのでお願いします」
と、穂に頼む。
相変わらずこの夫婦の会話は謙虚なままだが、其れが二人らしいと黒影は微笑んだ。
穂は涼子とは違い、後方を向いたが背中を伸ばし、猫の様に目をギラつかせて、向かって来る蔦を凝視している。
「女性陣だけで大丈夫っすか?」
サダノブが黒影にバイクを並走させ聞いた。
「僕がビジネスパートナー契約を結んだ会社を侮るなかれ。……業界No.1に君臨する守りのセキュリティは半端ないぞ♪」
と、黒影はご機嫌で答えた。
黒影はチラッとサイドミラーから後ろを確認し微笑んだ。
……ほら、始まった。
逃げ切るなら、僕やサダノブよりも、更にフットワークが軽い穂さんと涼子さんの方が良いんだ。
力は要らない……逃げ切るだけならば。
「黒影の旦那を捕まえるなんて、一億年早いんだよっ!」
そう涼子が言ったかと思うと、あの真っ赤な日本刀で、何と蔦の束を叩き落としたのだ。
蔦は黒影の思った通り、黒影とサダノブに照準が追跡弾の様に定められており、間に何があるのかまでは感知しない。
何で識別しているかは可能性が多く判断し兼ねるが、其れも時藤 浩史が知っているに違いない。
やはり、涼子の力で十分だと分かった黒影は、
「急ぎますよ」
と、軽く涼子にスピードを上げる事を知らせる。
「そうさね。黒影の旦那との夜のドライブなら、その方が楽しい」
涼子はそう色気たっぷりに言うが、相変わらず黒影は無視で、とっととスピードを上げた。
元大泥棒の涼子ならば、こんな事朝飯前なのだから。
「ちょっと、先輩こっちは穂さん乗せているんですから!」
と、サダノブが黒影のスピードに合わせるのに必死になり乍ら言った。
「だからなんだ。サダノブ…お前、後ろは見ない方が幸せだぞ」
黒影が何食わぬ顔で答える。
「えっ、何でです?自分の嫁さん心配するのが普通でしょう?」
と、サダノブが聞くと、黒影は気不味そうにこう答えるのであった。
「夫婦喧嘩……未だ無くて良かったと、僕は思っているよ。今、後ろで穂さん、プッツン来ているから見ない方が幸せだぞ、サダノブ」
黒影がサダノブ側のサイドミラーで、サダノブの後ろを確認する。
するとそこには、まるでサーカスの一員の様に椅子に両手を付き、長い足を回し乍ら強烈な蹴りで蔦を叩き落としている穂が見える訳だ。
唯一、何の能力も持ち合わせていなかったが、長い穂の足蹴りの攻撃だけは喰らいたくないと思う黒影なのであった。
もう少しがなんて長いのだろうか。
後は闘い、前はまるで逃亡劇だ。
本当に時藤 浩史のところへ行ったところでこの攻撃が収まるかも分からない。
……其れにしても、何故今襲撃されているんだ?
時藤 浩史はまた何時でも庭を見に来てくれと言った筈だ。
……そうか。時間……か。
事件発生時は既に夕暮れ過ぎた夜であった。
そして、話を窺い警察の調べが入り、一息ついた頃に、一度撤収した。
にも関わらず、その日の内に何らかの理由を付けて再びアポイントを取るなんて、疑っていますよと言っている様なものだ。
然し、変に断ってもバツが悪い。
だからって、こんな攻撃に出るなんて不自然過ぎる。
二人も疑っていた関係者を殺したら、もっと疑われるに決まっている。
僕ならばそんな事はせずに、一人一人日を置いて確実に仕留めるだろう。
こんなに便利な能力があるのならば。
時藤 浩史……。
話した感じではおっとりとしていて、然程感情的な発言も無い。人とあまり会わない割には、亡くなった戸部 凛花のお陰もあってか、気さくに話せる人間と見受けられた。
椿を見て欲しいから、また僕を庭に呼んでくれたのではないか?
何か根本的に僕は見落としている。
辻褄が合わないのだ。もし単純にあの椿を見て欲しいならば、白雪が言ったあの椿に溜まっている「残留思念」は一体、何だ?
白雪が間違える筈は無い。ならば、誰かの強い想いが何か残っている。
二人も亡くなったんだ。何方の残留思念か、はたまた両方か。
時藤 浩史にとって、あの椿は亡き妻の墓同然。そしてあの庭全体が墓地の様なものだ。
今になって入る事を拒絶する理由……。
僕があの庭や椿を調べ、壊すとでも思っているのか?
そんな事……僕はしやしないのに……。
……そうか。
僕は……しないんだ。
だが、僕が証明した時点で……。
「サダノブ!白雪を呼び出してくれ。時藤 浩史宅前で待ち合わせよう。未だ時藤 浩史と接触しないよう、よくよく伝えてくれ。人混みならば、攻撃して来ない筈だ。風柳さに喫茶店迄付いてもらって行くと良い。僕が後で喫茶店に迎えに行く」
黒影はサダノブに無線で夢探偵社側に連絡する様に言った。
「事件の真相は……声無き亡者のみが知る」
黒影はそんな言葉を呟いた。
追い掛けて来る大量の蔦を尻目に、姿勢を倒し風を突っ切る。
信頼に値する物達がいる。
真っ赤に燃えるのは、そんな彼等が迷わず進めと背中を押すからかも知れない。
僕の背中に重い荷物等一つも無い。
あるのは勇気……ただ一つ。
其れは僕が…作ったものでは無い。
大切な仲間が作ってくれた「安寧」と言ふ。
だから真実を…見に行こう。
君達に恥じない僕でいよう。
心に静かに咲く花よ
厳しい雪の白さにも負けず
熱く滾るその丹色の夢よ
暖かき春待つその健気さよ
君の強さをなんと喩えよう
優しさに似たその強さを
闇に浮かぶ何色にも染まらぬ紅よ
君が為
僕は今……前に進んでいる
如何に冷たい風も
向かい風すらも
今の僕を止める術を知らない
______
「白雪!大丈夫だったか?!」
黒影は人気の少なくなった喫茶店でぽつりとホット苺ミルクを飲んでいた白雪を見るなり、抱き締めて迎える。
「ちょっ、ちょっと溢れちゃうわ。大袈裟ね。待ち合わせぐらい出来るわよ」
と、白雪は心配性な黒影に言った。
「あれ?風柳さんは?!白雪を一人にして、なんて薄情な人なんだっ!」
黒影は辺りを見渡し、風柳がいない事を知り不機嫌そうに言う。
「あの後、ずっと帰ってきてないわよ。今夜は被害者さんの両親の確認や、調書を作ったり、遺体解剖の許可取りをしたり、何回立ち会っても慣れない嫌な仕事だって、嘆いていたわよ」
と、白雪は風柳も大変なのだから、そんな事を言っては可哀想だと肩を持つ。
「僕にとっては、失礼かも知れないが死んだ人より、生きている白雪が大切なんだっ!」
黒影は風柳の話しを聞いても、それが如何したと言わんばかりである。
相変わらずの、心配症っぷりだ。
「其れで?その心配症の黒影が、私を呼ぶぐらいだから、私にしか出来ないお仕事なのよね?」
と、白雪は黒影の顔を覗き込み聞く。
「ああ、勿論さ。他の誰でも無い。白雪しか解決出来ないヤマだ。「真実」を、僕に見せてくれ」
黒影はご機嫌そうに言うと、瞳を白雪に寄せて見せた。
真っ赤な「真実の瞳」だ。
「真実」を欲しがって飢えて赤くなる。
近くに「真実」があると、この瞳は言っているのだ。
「仕方ないわね。久々の出番だし、良いわよ♪私も夢探偵社の一員だって事、見せ付けて上げるわっ!」
と、白雪はやる気になって立ち上がると、パニエ入りのスカートをふわりふわりとさせ、時藤 浩史宅にテラスを突っ切り、堂々と向かうのであった。
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