黒影紳士 ZERO 01:00 〜双炎の陣〜第二章 青空のリフレクション
第二章 青空のリフレクション
その日、夏らしい通り雨がザッと降って消え去った。
黒影は其れを確認するなり、
「ゲストルームを片付けて来るよ」
そう行って、隣の隣にある社宅のタワマンへ独り、赴いた。
綺麗に管理しているとは言え、久々に人が来て使うのだ。
一応に必要な物は無いか等、管理人の滝田さんにも知らせなくてはと出掛けたのであろう。
他の皆んなもそう思い、誰も止めはしなかった。
「滝田さん、今日……一人、ゲストルームを使います。来たら、網膜キーを登録したいので、僕が先に入って管理人室に入らせて貰いますが、良いですか?」
と、黒影は一応オーナーだが断りを入れる。
「ええ、勿論構いませんよ。とても住み心地の良い管理人室です。有難い……。ああ、暑いから冷たいお茶でも飲んで行って下さいよ」
と、滝田さんは言うのだ。
黒影は暫し考え、其れも良いかとお呼ばれする事にした。
冷茶の氷が溶けて、崩れるとカランと音を立てて、黒影はウィスキーでも飲みたいな……と、ぼんやり窓の外の深い青を見詰めた。
「二回目の夏ですね。此処に来てから。向日葵が咲いていますよ」
窓の下から、黄色い向日葵が覗いている。
去年の花火を見た、夏の事件を思い出していた。
何時も記憶の景色には事件がある。普通の思い出を探しても……遥か遠くの夢なのだろう。
今日、滝田さんとのんびり冷茶を飲んだ。此の窓から見える景色を、僕の僅かな普通の思い出に入れておこう……。
「これ……炬燵ですか?」
思わず黒影が聞いた。
テーブルは何年物の磨いた木で出来ているが、冬に見た時の炬燵とサイズが変わらなかった。
「知恵と言う絡繰があるんですよ。下をご覧下さいな」
と、滝田さんが言う。
黒影は
「じゃあ、ちょっと失礼して……」
と、テーブルの下を見た。
「あっ……」
滝田さんはちゃっかり後付けの炬燵ヒーターを裏に設置していたらしい。
「今は随分、薄型なんですね。膝に当たらないから便利だ」
と、黒影は笑った。
「上に布団を掛けて、天板だけ作ったんですよ。だからピッタリ」
滝田さんは満足そうに、胡麻煎餅をお茶受けに出した。
「滝田さん……」
「はい」
「鳳凰が元気になるには、綺麗な水と何が必要なんですかね?」
と、黒影は聞いてみた。
「そうですねぇ〜。自由な夢……じゃないですかね」
滝田さんはそんな事を言う。
「何故?」
思わず黒影はそう聞いた。
滝田さんは、
「ほら……良く、神社の屋根の上で遊んでいらっしゃる。自由に色を変え、果てしない空を眺めて、皆んなを守って下さり乍ら、夢でも描いていらっしゃる様に見えるものですからね」
と、言うのだ。
「自由に……夢を空に描く……ですか……」
黒影は何を想うでも無いが、そんな風に見えるならば、其れは平和と平等が成せるものだから、良い事だと安堵し冷茶を口にした。
此のタワマンをすっかり和室にしてしまった滝田さんだが、話しているだけで少し落ち着く。
風柳が兄と知ってから、父親らしい存在は消えた。
けれどもし、未だ生きていたら……もう一度やり直せるならば、こんな平和な時間と……滝田がくれる安らぎの様な物が欲しいと、つい思ってしまう。
事件を忘れて……ずっとのんびり話したくなる。
「……おっと、根っこが生えてしまう。……滝田さん、ご馳走様でした。ゲストは夜に来る予定なので、宜しくお願いします」
黒影は大事な事を伝え、部屋を出ようとする。
夜は滝田の神社の仕事も融通が効くので問題ない。
「黒田さん……」
「はい?」
何か不都合でもあるのかと、ドアに手を掛けた黒影が止まり振り向く。
「以前、綺麗に周りが輝く赤い羽根が一枚落ちていたんです。黒田さんの通った後に。其れで声を掛けようとしたら、不思議と真っ赤な翼が見えた気がしましてね。……鳳凰様……自由に……空は描いて飛ぶ物で御座いますよ」
と、滝田が言うのだ。
黒影は少し考え……。
「滝田さん……良く覚えておきます。……だが、「様」は遠慮しておこうかな」
黒影は後ろ髪を掻いて照れ笑う。
「一応にうちの神社の御神体様ですから。……其れに……元気が無いのなら、うちの神社にも霊水は御座います。そうだ、後で神社に寄って下さいな。鳳凰様に捧げる経ならば、少しは元気が出るかも知れません」
と、滝田が提案するのだ。
バレバレ……の様だが、滝田の記憶だけは消したくは無かった。
そう思った時だ。
そうだ……「記憶」と言えば。
黒影は昔に実際に海外であった事件を思い出した。
「やはり滝田さんの所へ来ると、良い事があるみたいだ。今度……是非に」
そう言って黒影はその場を去って行った。
ーーー
ゲストルームは三部屋用意してある。
並んだ部屋となっている。
直ぐに黒影は空室に入ると思いきや、廊下から一番手前の「勲さん」……つまり、別の人生を生きる己の過去がいる部屋をノックした。
本人が出てくる間、気不味い空気を黒影は感じていた。
息が詰まりそうな…そんな気分だ。
己に猜疑心等無いと信じたかった。
けれど……確かに在るんだ。
「黒影紳士」の世界に始めに入ったのは勲さんだ。
「真実」は目を逸らすなと、鼓動を早める。
黒影とサダノブは相変わらずの一悶着をしていて、風柳と白雪はその後を呆れて話し乍ら着いて来た筈なのだ。
もし、毒をウォーターサーバに混入出来たとしたら、勲さんしかいないと、状況証拠は言っている。
特段、問い詰める気も無い。
問い詰めたところで過去の自分……易々と口を開くとは思えない。
普通の会話をして違和感を探せば良い。
真実は自ずと……洞察力と観察力により、導かれるものだ。
普通だ……そう、普通で良い。
黒影は一呼吸、長くゆっくり吸って吐いた。
すると丁度扉が開く……。
――――――――
「ああ、黒影か。如何したんです?何かありましたか?」
勲は黒影が態々内線も使わずに来たので、事件でもあったのかと直ぐに思った様だ。
「まぁ……在るには在ったかな。動くのは夜です。関係者がゲストルームを使うので、隣の部屋を使います。急に物音がすると驚くかと思って……。其れに、寄子さんの事も心配だろうなって……。僕も考えてはいますが、未だ丁度良い一手が見付からなくて」
と、黒影なりに色々と気にして訪れたと伝える。
「そうでしたか。態々有難う。……そうだ、此処で立ち話しも何だ。中に入って、ウィスキーでも引っ掛けないか?今、丁度飲み始めたところだ。ロック専用の氷が入ったウィスキーは最高だよ」
勲はそんな風に酒を飲まないかと勧める。
確かに僅かな距離とは言え、外は暑かったし滝田の部屋には扇風機があるだけで、団扇を使っていた。
エアコンで涼しい部屋で冷たいウィスキー……最高じゃないか。
黒影は想像しただけでも、居てもたってもいられず、承諾し中へ入った。
一杯だけなら……。
此の後はエアコンも効いていない隣の誰もいないゲストルームの備品チェックや監視カメラの取り付けまである。
エアコンが効くまで汗を掻く作業だと思っていたが、勲の部屋を出入りして涼めば、これ程有難い事は無い。
と、黒影は頼んでみようかと画策し、ゴブラン織りカリモクのソファーに座り、勲がウィスキーを持ってくるのを楽しみに待った。
内通者に毒物を飲み物に混入されたばかり。
気にしないでは無かったが、怯え暮らしても結果は変わらない。
何時もコートのヒラの裏には何種類もの解毒剤を入れた隠しポケットがある。
勲は其れを既に知っているのだ。
即死に至る毒物の量を飲まなければ、そう容易く毒殺出来ぬ相手だとは分かっている筈。
よって、何も心配等要らない。
勲は過去の自分だ。
己を信じずして、今がある訳ではない。
此処は、喉の渇きに素直になって一つ、酔いにでも身を任せた方が、良い案も浮かぶと言うものだ。
「変わらなければ……これで良かったですかね?」
と、勲が黒影の前にロックグラスを置く。
「変わらない物を好む……。昔からね」
其れを見た黒影は頷くとそう言った。
氷が二つにシングルの琥珀色のウイスキー。
昔から変わらず、これを軽く飲むのが楽しみだった。
勲と言う、もう一人の自分と離れる前から、ずっと……変わらない。
黒影は一応に、一度猫の様に……舌先でペロッと酒を舐めた。
猛毒となれば少量でも危険だ。
これだけでも、痺れや麻痺を感じて来る可能性がある。
「今だに人から出された物は、易々と口に入れられませんか……」
と、悲しそうに長い睫毛を下ろし、下を向き勲が言う。
睫毛から見える深海の瞳孔、回りはまるでサファイアブルーの瞳……。
黒影は昔の自分が鏡に映っている様な、不思議な気持ちでいた。
「ああ……それだけは今も改善する事は出来ない。事件がある限り、僕等が狙われる事は必然だ。能力者犯罪者が登場してから、自分を守るだけで精一杯だよ」
黒影はほんの少し疲れた声で、リラックスして座り直すと、首を背凭れに寛がせ天井を見上げ答えた。
そんな黒影を見て、勲は何も話さない。
きっと、自分はあんな将来には成りたくはないと思っているだろう事は黒影にも分かった。
……せめて、反面教師になってくれ。
あんな男には成りたくはないと。
新しい道を切り拓いてくれないか……。
黒影は目を閉じ、勲に思った。
「……其れより、寄子さんの事……心配だな。周囲数メートルを過去にしてしまうなんて、何か打開策があれば良いのだが……。技を掛けた犯人は刑務所。恐らく終身刑だろう。鸞が話しをしたみたいだが、寄子さんの技を解く気は無いらしい。彼は未だ待っているんだ。寄子さんの事を。勲さんは如何思うのかね?……僕は寄子さんはあまりメンタル的に強いとは思えないのだよ。待ったところで彼は死ぬ。彼は来て欲しいから技を解かないだろう。悲劇しか待ってはいない恋でも、側に居られるだけで良いと言う事もあるが、技を解かない時点で、本当の愛だとは些か思えん。勲さんが寄子さんを大切に想うのは……仲間が欲しいなんて理由でも、寄子さんを助けようと思った訳でも無いと、僕は思っている。約20年もの時間……か。色々と策は考えているのだが、中々に難しい物だな」
黒影は寄子の事を、心から心配して気に掛けていた様だ。
「それならもう……大丈夫なんですよ。黒影……」
勲が泣きそうな声で言った。
黒影はふと如何したのかと、目を開けようとする。
だが、如何した事か……瞼が重く、薄っすらと勲の姿を確認するので精一杯だ。
「何の……毒だ……?」
黒影は薄れそうな意識に耐え、やっとの思いで聞いた。
「……毒では無い、安心したまえ。睡眠薬だ。如何やら黒影は少々お疲れの様だ。私し(※勲さんは舞台が明治・大正時代であった為男性ではあるが、己を丁寧に私(わたくし)と呼ぶ。然し、「私」表記であると、「わたくし」か「わたし」の見分けが付かない為、独自に著者が「私し」と言う表記を採用している)が代わりになるので、暫く安心して良い夢を見ていてくれれば良い…」
そう勲は言うでは無いか。
勲は自分の臙脂のタイを緩め外すと、黒影の青いフリルタイをするりと外し首から抜く。
「……一体……何……を……?!」
黒影は薄れ行く意識の中、見ていた。
鏡に向かい、勲は黒影のタイを結ぶと、カラーコンタクトを付けている様だった。
振り向いた其の顔……姿は……。
「真実の目」と「鳳凰」の魂で変わってしまった、透き通った紫水晶の様な瞳。
漆黒のロングコート。そして……黒影がずっと何よりも大切にして来たシルクハットを被っている。
……元々、君の物でもあった。
似合わない訳が無い……。
まるで、其処に振り返り立っていたのは、もう一人の僕……黒影であった。
ーーー
勲は黒影をベッドに寝かせると、己のコートを横の椅子に掛ける。そして、ワイシャツの衿裏の無線機、鞄から黒影の予備のタブレット、スマホを鞄ごと奪い、己の鞄を置いた。
更には入念に、酔っ払って引っ掛けた様に、ベッド脇のハンガーに適当に臙脂のタイをぶら下げた。
これで暫く……予知夢ともさよなら出来たら……君はどんなに幸せだろう。せめて、幸せな夢を見れる様に、祈る事しか出来ない私しを許して欲しい。
私しは未来を……変えたかった。
さらばだ……我が……もう一人の己……。
――――――――
勲は隣のゲストルームに辿り着く。
既に網膜キーは登録しているので、此のタワマンの中や外には自由に出入り出来る。
黒影の鞄の中には、やはり最新式のシリンダーキーがマスターキーの予備として入っていた。
「サダノブ、さっきの依頼の調査依頼書は出来上がったか?一応、こちらで確認する。データを僕の予備タブレットに送って置いてくれ」
勲は黒影の喋りを真似して、これからの予定を知る為に、そう小型無線機で伝えた。
「あぁ、はい……分かりました。其れより……夕飯何にします?勲さんにも聞いておいて下さいよ」
と、サダノブが言うのだ。
……そうだ、夕飯か。
勲は暫し考え、
「僕は何でも構わないよ。勲さんは多分、和食が良いんじゃないか?何時もは寺で和食みたいだから。白雪に、和食を頼んで貰っても良いか?」
と、黒影に扮した勲は言った。
「ええ……私、洋食の方が得意よ」
そんな白雪の声を無線が拾う。
「……そうだったな。ああ、それならスーパーで魚を捌いて貰うと良い。後は僕が焼くから」
と、勲はサダノブを通して、白雪に言いたい様だ。
サダノブはそれもそうかと納得したのか、白雪に伝えているみたいだ。
何て平和なんだ。未来の私しが夢見た物は。
何故に、同じ者であるのに、私しには其れが欠けたままなのだろうか……。
勲はゲストルームに不備は無いかチェックし、マンションを後にした。
――――――――
「只今」
黒影は何時もの様に微笑んだ。白雪も、サダノブも安心している。
勲の事を二人共心配していたのだろう。
「先輩、遅いからまた襲撃にでも合っているんじゃないかって、心配したんすよー。データ送ってそのまま返事も無いんですから」
と、サダノブは言った。
「ああ……すまん。勲さんが心配でね。少し寄ろうとは思っていたのだが、ウイスキーを勧められてね。余りに暑いから、一杯引っ掛かけて来たよ。勲さん……寄子さんが心配なんだ。すっかり酔って寝ているよ」
黒影はそう、返事が出来なかった理由を述べた。
「そうよね……。寄子さんも勲さんだけが頼りだったんだもの。今頃不安に決まってるわ。…………あら?」
そこで白雪はある疑問に辿り着き、ロイヤルミルクティーのカップをソーサーに置いた。
「ん?如何した?」
黒影も気に掛かった様だ。
「何故、勲さんだけ鎮魂歌(レクイエム)から出て来たのかしらん?確かにメインキャストに近いと言えば近いけれど、創世神さんは創造が創造したものはまた別と言っていたわ。あくまでも、「黒影紳士の書」は、勲さんのいる数十年前の「season1黒影紳士」を、「別の本で、別の世界」だと、記録しているみたいだったわ。其れが……もしも「黒影紳士」であり「他世界では無い」と認識されて勲さんも私達の様に目覚めたのならば、周囲を20年前に変えてしまったとしても、ヒロインに当たる寄子さんがいない何て……」
白雪は、「黒影紳士の書」にとって、勲と寄子がどんな立ち位置になっているのかが、気に掛かった様なのだ。
……それならば、私しも気に掛かっている。
……だから、此処にいるのだ。
「僕は寄子さんを呼ぶのでは無く、寄子さんに其の技を掛けた、高梨 光輝(たかなし こうき)を「season1黒影紳士」の世界に送り混んだから如何かと思っているんだ。勲さんも其れに気付いて、直す気の無い高梨 光輝(たかなし こうき)を説得しに来た様だ。創世神に随分と無理を言って困らせたらしいよ」
と、黒影は勲が共に登場した真の理由を言い、過去の我ながら……困った物だと笑った。
「先輩、そんな前から我儘だったんだ」
サダノブはボソッと、黒影に聞こえない様に言って納得し、小さくうんうんと頷くのだ。
地獄耳の梟でもある白雪には其れが聞こえ、クスッと笑う。
「何だ?二人共……」
黒影だけが何も知らない、珍しい夕暮れであった。
――――――――
「白雪……のんびりしているが、そろそろ依頼人が来てもおかしくはない。勲さんには、未だ寝ているだろうから僕が持って行くよ。和食は……大丈夫か?僕も手伝うけど、下処理や煮物は時間が掛かる」
と、のんびりしている白雪を不思議に思った黒影が聞いた。
「そう言うと思ったわ。ねぇ、サダノブ」
白雪がそう言うとサダノブも、
「ねぇ〜」
などと、口裏を合わせたかの様に答えるのだ。
「何だ……何をした?」
黒影は二人が組んで碌な事でも仕出かしはしないかと、気が気では無い。
「そんなに慎重にならなくても大丈夫ですよ。ちょっと外注させて貰っただけです」
と、サダノブは答えたのだが、此の時……妙な違和感を感じた。
俺……今、先輩に慎重にならなくても良いと言った……よな?
色んな能力を持った能力者犯罪者と戦い続けた先輩が、こんな事で慎重な顔をするだろうか?
ましてや、何時もと逆だ。
先輩が大丈夫だと言ってくれるのに……。何だが今日は、頼れる何かを感じられない。
おっかしいなぁ〜。疲れているんだろうか?
サダノブはそう思い、思考をこっそり読んでみた。
だが、表も裏も無い。
何も考えずにあの態度をとった様だった。
……やっぱり疲れているのか。また過労で倒れられない様に、良く見ておかなきゃな。
サダノブはそう思った。
「和食が得意な人が……近くにいるじゃないですか」
サダノブは、そう言って笑う。
「偶には良いでしょう?」
と、白雪も猫撫で声で言うのだ。
「ああ……そうか。涼子さんか、穂さんに頼んだんだね。外注に和食でピンときたよ。勿論構わないよ。何時も作って貰っているんだ。偶にはのんびりすると良い」
そう黒影は言ってくれたが、白雪は何かを忘れていた事に気付く。
……あら……。お帰りなさいのハグとキスを忘れたわ。
珈琲だって未だなのに……。
何で早く言ってくれないのか知らん?
遠慮も過ぎるのよ……。
そう思い、白雪は慌てて珈琲を作り始める。
「もう……黒影がお強請りしてくれないから、すっかり後回しになってしまったわ。私達、夫婦になったのよ。今更、遠慮なんてらしく無いわ」
と、白雪は黒影に言った。
「ああ……すまん。ウィスキーを飲んで来たからすっかり……。そうだ……脱水症状になるといけないから、チェイサーを一杯貰えないかな」
黒影はそう白雪に頼む。
「チェイサー?未だ、バーにでもいる気分なのね?お水でしょう?今……甘水を出して上げるから、安心して座っていて」
と、白雪は答えた。
……あら?……何時も安心させてくれるのは黒影の方なのに。
私……今、変な事を言ったかしらん?
でも……何時も通りだわ……。偶には、甘えたかったのかな。
そう思い直して、白雪は珈琲を丁寧に淹れるのであった。
――――――
「如何もお久しぶりです。お待ちしていましたよ。さぁ、上がって。ゲストルームへは、後でご案内致します」
黒影は笑顔で、黒塗りの車から出て来た葵を迎えた。
「こんな事に巻き込まれるなんて……。ご面倒をお掛けしますが、宜しくお願いします」
と、葵は面目無さそうに、深く頭を下げた。
事が事なだけに、気を揉んでいるに違いない。
「此方なら構いませんよ。秘密厳守ですし、毛頭葵さんは関与していないと思っています。小さな探偵社ですが、総力を上げて早期解決させて貰いますよ」
黒影がそう言うと、少し安堵したのか葵はやっと僅かばかりの笑顔を見せ、素直に案内に応じて風柳邸兼探偵社へと入って行く。
リビングルームのダイニングセットの椅子に、葵が腰掛けた直後にインターホンが鳴った。
葵は警戒して玄関からの廊下を睨む様に見詰める。
「たすかーる便で〜す♪」
と、穂の明るい声が聞こえて来た。
「大丈夫だ。知り合いだよ」
黒影は葵の為にそう言うと、玄関へ行きドアを開ける。
まるで寿司樽の様に平たく丸い何かを風呂敷に包んだ物を持って、穂は立っていた。
「もしかして…それ……?」
黒影は外注していた和食だとは思ったが凄い量だ。
「「たすかーる」でしょう、黒影さん。……涼子さんがゲストさんの分もと、張り切って作ったんですよ」
と、穂は誇らし気に言った。
「あっ……ああ、有難う。中に入って」
ーーー
風呂敷を広げると、寿司樽の中に和御膳が美しく並び、贅を尽くしたとはまさに此の事ではないかと思える。
それが、何と三段も全て違う物が入っているではないか。
「じゃあ、僕は何種類か取り分けて、勲さんに持っていくよ……。あぁ……せめて、白米とお味噌汁は作らないと……」
と、黒影が忘れていた事に気付き言うと穂が、
「黒影さん……「たすかーる」ですよ?中途半端な仕事はしません」
そう穂は自慢気に言い、バイクへ何かを取りに行ったかと思うと、大きな水筒から味噌汁と、お櫃に入ったおこわまで出して来て、思わず黒影はこう言った。
「助かるなぁ〜」
と。
「……それが一番の褒め言葉です。毎度有難う御座います!」
と、穫は笑顔で言うのであった。
黒影は日本一のセキュリティ専門店「たすかーる」は、何時から万事屋になったのかと、苦笑した。
……笑顔だって必死で覚えたんだ。
たった一つの目的の為に……。
先ずは依頼を解決させるのが先が……。
そう思い乍らも、黒影は小エビとホタルイカに千切り玉ねぎを和えた、創作和食料理を摘んで食べた。
…………………………
「黒影……?」
黒影に扮していた勲は、料理を持って行き、黒影がそろそろ起きるのではないかと、声を掛けた。
だが、如何やら睡眠薬の効きが良かった様で、未だ熟睡している。
「……此処に置いておくから、起きたら食べて下さいね」
勲は優しくそう言うと、儚気な目で黒影を一瞥し、去って行く。
黒影が狸寝入りしている事も知らずに……。
――――――――
其の晩、黒影に扮した勲が言った。
「サダノブ……今夜は警邏を先に頼んで良いか?僕は他の営業先からお呼ばれされてしまったから、少し外に出てくる。帰って来たら、変わるよ」
と、黒影は言うのだ。
「ええ……いざとなれば此方には白雪さんに風柳さんもいますから大丈夫ですけど……。先輩こそ、夜に独りで大丈夫なんですか?奇襲に遭ったら大変ですよ」
サダノブは黒影の方が一人だからと心配な様だ。
「大丈夫だ。何年、裏社会から追われていると思う。そんな物が怖くて夜を嫌いになる理由にはならない。案外、夜の散歩が大好きでね」
などと黒影は言う。確かに大の男独りで夜の街も歩けないなんて、過保護にも過ぎるとはサダノブも思う。
「まあ、先輩なら大丈夫ですよね。相手の心配をした方が良さそうだ」
と、笑った。
「勲さんは?皆んなで食べれば良かったのに……」
白雪が黒影に聞く。
「それが、未だ寝ていたんだよ。きっと、見知らぬ未来だ……色々疲れたんだろう?一応、起きてお腹が空かない様に、夕飯は置いて来たよ」
と、黒影はにっこりとして答えた。
……黒影の喋り方だって、笑うタイミングだって……
全部完璧にコピーした。
「あの」データを盗んで……。
黒影が主人公であるのにやらないのであれば、此の僕がやる!
――――――――
蒼き炎…この中にあり。
何も伝えられちゃあいないんだ。
冷静に静かに、この曲を聴いてずっと書いていた。
其れ以外に何も無い。
誰が訪れても、この曲が迎えた。
今と真逆の青い薔薇が。
高貴で気高く、冷静な其の薔薇は否定された。
あんなにも、美しく気高く君臨していたと言うのに。
彼は何れ黒影となる。
然し、彼こそが、本当の紳士だったのかも知れない。
己が傷ついても、誰かに冷たいと思われようとも、ただ早く事件を解決し、被害者遺族を想い、手段すら厭わなかった彼こそ、孤高なのだ。
黒影は軈て頭脳を使い、観察力、洞察力、仲間と言う力の分散で解決効率を上げたに過ぎない。
良い人ぶっていても、営業ですら上手く笑えないではないか。
乾いた笑いの下に思っているよ。
下らない…下らない…何かが…足りない。
其れは己が置いて来た過去。
振り向きもしようとしなかった過ち。
人は…
立ち止まり、振り向いて、また前を向くのだ。
それさえ弱さだと捨てた黒影には分かるまい。
振り返った時…己の築いて来た道が…
一歩…真後ろが断崖絶壁かも知れぬのだ。
だから今は…夢でも見ているが良い。
私しは「事実」を統べる者。
私しの帽子だ…返して貰おうか…。
――――――――
私しは黒田 勲。
黒影の本名だ。
過去は進み、能力者犯罪がちらほらと出て来た。
それでも私しは此の影一つで戦い犯人逮捕に協力している。
この影は私しの命其の者。
影がある限り、私しは何処へ行っても何も恐れはしない。
己の影を信じて己を委ねる。
私しこそ「黒影紳士」と言う名に相応しい人物だと言う事を、皆んな忘れている。
現代の黒影は余りにも、鳳凰を使い慣れ……影を忘れてしまっている。
生きるのに大事な物だった筈なのに。
もう少し……忘れないでいたならば、きっと影は嘆かずにいられただろう。
私しが今、この胸に突き刺さる痛みを感じるのは、忘れ消え去る影の悲しみなのだろう。
犯人を一度捉えたら決して逃がさない。
探偵が後からゆっくり調査し捕まえるのとは違うんだ。
此の影自体が、悪を欲しているのだよ。
必要悪とは、そんな者の為にあるのかも知れない。
「黒影紳士の書」が読者様や登場人物を探して、他の物語や現実世界の人間を吞み込んで喰らう記憶媒体であるならば、此の影はそう……悪を吞み込み続け喰らう本来、現代の黒影が持つべきだった、犯人への憎悪や怒りなのだよ。
だから其れを扱う私しは、常に冷静でいたいと思い心掛けた。
此の蒼く心に静かに灯る炎は
地獄の炎などではない。
悲しみと、冷静の「蒼」だ。
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