season7-2 黒影紳士 〜「東洋薔薇の血痕」〜🎩第三章 落下
3 落下
「どうせ調べるのでしょうから、此方からお話しします。庭に面して、丁度椿の直ぐ隣にハンバーガーショップありますでしょう?」
と、時藤 浩史は確認する。
「ええ、在りますね。あのハンバーガーショップの店の景観も落ち着いた色に抑えているのは、此方の建物に十分配慮されている様に窺えましたが……」
黒影は良くあるご近所トラブルからの行き過ぎた犯行の線を消そうとしている。
「景観「は」問題ないのです。だから、初めは近くで喫茶店以外にも軽食も摂れる様になって喜んで歓迎しました」
黒影は時藤 浩史の言い方に注視し乍ら、聞いていた。
「景観「は」と、言うからには、他に何かトラブルでもあったと言う事ですね」
黒影は確信して言った。時藤 浩史の妻、時藤 美江が死亡する程のご近所トラブルとなると、想定範疇には無い。
其れを無線で聞いていたサダノブから、黒影が書いていた調書の上に何かメールがあった通知がある。
黒影がメールを開くと「告訴状」と言うタイトルの添付ファイルだった。
「……やるじゃないか」
黒影はその添付ファイルをスキャンし問題ないと分かると、網膜認証で開き観て呟く。
このウィルススキャンもたすかーると共同開発し、更に黒影が趣味で改造を加えた、夢探偵社独自の物である。
情報が全ての探偵業だからこそ、漏洩は許されない。セキュリティ面でパートナーシップ契約を組んでいる「たすかーる」さえ、信用しない。技術は提供しても食われない……黒影の技術開発の意地がこんなところにも垣間見れた。
「……えっ?」
時藤 浩史が其れを聞いて、黒影の観ている画面が観えないので不思議そうな顔をして、覗き込もうとする。
黒影はサッと何気無く引き、出されたお茶を一口飲む。
「ああ、こっちの話です。すみません。今、お聞きした事を忘れない様に、調書化しているだけですから、如何ぞお気になさらず、話しを続けて下さい。……確か、隣のハンバーガーショップとのご近所トラブルでしたね?……トラブルが起きたのは、やはり店主さんと?」
と、相手の大事な話しが途切れない様、微笑んで繋ぐ。
サダノブが何が起きたかは調べてくれたが、告訴状を出した本人が目の前にいるのだ。
残っている記録には、感情論もその後等も無い。探偵になってから思うのはその後経過の大事さである。
其れは加害者、被害者共に言えた。近所トラブルとは言え、其の何らかが今回の落下を招いたかも知れない。
全ての線を並べて、消していく。
其れは警察の手伝い時代から変わらない。ただ、今は民間だから出来る事がある。
もっとより近くで聞き込みが出来るし、殺害事件を未然に防ぐのに早く動ける様になった。
如何せ最後には警察に渡す情報でも、夢探偵社だけに残る全ての関係者記録は、今もなお静かに日々更新され、黒影の手にある。
だが、告訴だけと言うと話しが違う。……尚且つ棄却された小さな……否、時藤 浩史にとっては大きな恨みになったに違いないのだから。
妻を死亡させるに至った原因と考えた……
「看板です」
「看板って?」
黒影は手の内に告訴状があるので知ってはいたが、その後時藤 浩史は如何思っているのか、または肝心な事を証言し忘れていないか、再確認の為何も知らないふりをして聞き返した。
「ハンバーガーショップの店の看板は、今はしっかりと固定された立派なものですが、隣に来た当時は黒板の置き看板2階にも目立つ様に、何種類かの小さな手作りの様な陳腐な看板を沢山置いていたのですよ。
其れが突然来た台風の日、横殴りの雨も強く……妻は慌てて干していた洗濯物を取り込みにバルコニーに出たのです。あんな事になるのならば、僕が変わってやれば良かったと、今も思う。……「あっ!」と、妻の驚いた様な声が部屋の中にいた僕にも聞こえました。窓の下側は簾で隠していましたから、僕はふと立ち上がり妻の姿を探しました。
すると妻の近くをあのハンバーガーショップの看板が飛んでいるのが見えたのです。妻は其れを避ける様に洗濯物を持ったまま彼方此方、フラフラとしていました。僕は慌てて、洗濯物等良いから戻ってくる様に言おうと、窓を開けようとした時です。妻の視界がシーツで覆われて其れでも看板を避けようとし、バルコニーから落下したのです。悲しい事に、其れもまたあの椿の上でした。
事故と言えば事故なんでしょうけれど、僕はハンバーガーショップの店主がもっときちんと看板を固定していれば、回避出来たのでは無いか。そう思い、店主を業務上過失致死で訴えたのです。……けれど、看板が飛んだのは事実ですが、妻に当たった訳ではない。その上、僕では夫ですから、家族は証人に成れないと言う。結局、棄却されました」
そう、きっとその愚痴さえ誰にも言えずに今迄いたのだろう。
時藤 浩史は一気にそう話すと、証人にも成れなかった悔しさからか、膝に軽く置いていた筈の手を、ギュッと握り締め僅かに震わせた。
残った後悔……無力さ……悔しさ。
一年経ったところで薄れもしない感情なのだろう。
一生添い遂げると約束した人が、一瞬で消えたのだ。約束を叶える筈だった一生に比べたら、一年は何と短い慰めにもならぬ時間だろうか。
「……其れはお辛かったでしょうに。ありきたりな言葉で申し訳ありませんが……。今も、ハンバーガーショップの店主を恨んでも、当然の話しですよ。確かに証拠は無い。検察の判断は妥当だったでしょう。其の新しく変えた看板だって、検察のせめての厳重注意だったのではありませんか?……新しい看板……観るのも嫌ですね、僕ならば」
黒影は自分の感想を素直に言った。
「ええ、未だ正直……観るのも辛い。バルコニーも出なくなってしまった。洗濯物は部屋干しですよ。下の通りから中がま丸見えにならない様立て掛けた簾も、変えられずに夏のままボロになったのに、捨てに出るのも気が引けるのです。其れに隣のハンバーガーショップの店主と来たら……恨むも何も無いのです。僕が訴えを起こしたものだから、それを逆恨みして今まで気にも留めなかった敷地に入ったあの椿を切ろと……。顔を合わせる度に怒鳴るのです。だから僕は仕方なく敷地に入ってしまった部分だけ剪定をしました。なのに、そんな木、とっとと根っこから抜いちまえなんて、あの椿に八つ当たりし出したのです」
時藤 浩史か酷い話しでしょうと、同情を欲しがって悲しい顔をして見せる。
妻が亡くなった場所……。大事にするべきか、辛いなら其れこそ根っこから抜いてしまうべきか、悩むところだ。
然し如何だろう……この時藤 浩史は其れを切るのを惜しんでいる。
恐らく、其処に未だ妻が居る様な……墓に似た感覚を持っているのかも知れない。
「……まぁ、あんなに綺麗なお花が咲くのに、切るだなんて可哀想だわ」
聞いていた白雪が思わず言った。
黒影はそう言って眉を吊り上げた白雪を見て気付く。
……そうか……その残留思念を白雪は感じているんだと。
つまり……その亡くなった妻は、未練があったり、ハンバーガーショップの店主を恨んでいるかも知れないのか。
……黒影はそう理解する。
「本当に酷い話しですよ。少しは謝罪するなら未だしも、あんな横柄な態度に出るなんて。あの椿には罪は無いのです。……何一つ。妻の出身地から態々持って来た椿でしてね。遠いから偶には故郷を思い出したいからと、庭に植えました。……此処を建築し、住む様になって直ぐの話です。確かに僕は忙しく、なかなか妻の田舎にも帰らせてやる事が出来なかった。けれど、その代わりに、縁側で二人……少し時間があればあの椿を冬に眺め、茶で一服して安らいでいたのです。ほんの細やかな幸せでした。何でも無いその時間に、大した事も無い語らいが……妻がいなくなった今は、尚更特別な幸せだったと思えます」
時藤 浩史はそう、あの椿への想いを話した。
唯の椿等ではなかった。特別な椿。……きっと、本人は気付いていないが、その椿に溜まった残留思念の中に、店主への怒りや不満も加わってしまったのかも知れない。
事件にならなかった。だが、悲しみも恨みも深い事実が其処にはあった。
「戸部 凛花さんが今回亡くなられた事についても聞かねばなりません。先程は、身元確認にご協力頂いて有難う御座います。お陰で戸部 凛花さんの事は大体調べが既についていますし、今警察もご家族に話を聞いている筈です。椿を撮るだけに通っただけ。なのに何故亡くなられたのか……。時藤さんとは親しく、未だ出逢って数ヶ月……お付き合いして揉めるにしても早過ぎる。現実的では無いですね。……他に殺害されるまで恨まれる様な人物も、大学にもいない。……あの……時藤さんは戸部 凛花さんに、さっきのハンバーガーショップの店主とのトラブルを話しましたか?」
と、黒影は淡々と聞いた。
「ええ、軽く何があったかは。……其れで、妻が亡くなった椿だけど良いのかい?って、不気味がると思って聞きましたが、気にしませんと。他の草木もあったからかも知れませんが」
時藤 浩史はそう答える。
「そうですか。色々お話を有難う御座いました。あの……少し僕も庭を拝見したいのですが、宜しいですか?椿も是非近くで見てみたいですし」
と、黒影はタブレットPCを閉じて、もうそろそろ終わりだと言いたい素振りをした。
「ええ、勿論構いません。妻も沢山の人に見て頂いた方が喜びます。あの椿は本当に手入れが大変でしてね。毎年、虫と格闘する訳ですよ。ずっと妻が頑張っていましたが、今年は僕ですから、上手く出来ていないかも知れませんが……」
そう言い乍ら、時藤 浩史も席を立ち、白雪と黒影を庭に案内した。
黒影は先ず縁側に立ち、全体を眺めた。
何と出来た庭だろうか。……春夏秋冬……全ての季節に何かしら花が彩る様に植物が配置されている。
それだけ毎日、きっと妻の時藤 美江はこの庭を愛していた。否、夫の時藤 浩史と安らぐ、ほんの僅かな幸せの春夏秋冬(ひととき)を愛していたのだ。
寒空に鶺鴒が跳ねる様に遊んでいる。小鳥が来る程、穏やかだったに違いない。
こんなに、落下死さえ続かなければ……。
平穏と平和が此処にはあった。……其れは鳳凰として感じているのかも知れない。
……取り戻さなければ……そう、突き動かされ鼓動が早まるのを黒影は感じていた。
落下死の真実を……知りたい。
その時、「真実の目」が黒影の瞳の奥から産まれ出でる。
真っ赤なその瞳は「真実」に飢え始めていた。
……そうだ、「真実」の本体は今も未だ、一人正義再生域で闘っている。
早く……助けに行きたい……。もうとっくに父になり、成長など止まったと思っていた。
だけど、違った。……ゼロポイントからまた始まったんだ。
黒影は沈黙し、静かに縁側を降り椿の前へ行く。
警察が散々葉っぱ等を付着した血痕と共に、採取して持って行ってしまった様だ。未だ幹に染み込む様に血液が多少見える。
其れでもその大きさに、此れからまだ成長するのだと見受けられた。
「綺麗な花だ……」
黒影は其れだけ言い残すと、帽子を軽く下げ会釈をする。
「また、どうぞ何時でも見に来て下さい。もう、誰も見なくなった庭を手入れするのも、味気ないですから」
そう、時藤 浩史は別れ際に言った。
――――――――――
黒影はマンションのロビーに帰ると、サダノブにこんな事を言った。
「なぁ、庭の景色を衛星画像で見たいんだ」
と。FBIを通じて黒影がちゃっかり独自に持っている衛星の事である。
民間で所持する探偵社は他に無いだろう。
「庭……ですか?」
サダノブは不思議そうに聞いた。
「そうだ、庭の椿を拡大して欲しい」
サダノブは後生大事に懐に仕舞っているタブレットPCを取り出して調べる。
「僕は違う事を調べているから、出来たら言ってくれ」
何故か今日は事務所では無く、ロビーで寛ぎ調べ物をしている形になる。
「幾ら居心地が良くなったからってもう……」
白雪はそう言い乍らもサダノブには緑茶、黒影には珈琲を出す。
「ああ、暖炉が暖かいからつい……。でも、快適で眠くなってしまうな。頭が回らなくなる」
黒影はそう言って笑うなり、ゆったりとしたソファ席で、パソコンを開いたまま作業中に居眠りしてしまった、住人を見て朗らかに笑った。
――良かった、居心地良くなって。
黒影はそう思いホッとすると、ロビーにクリーニングされたての真新しいブランケットを肩に掛けてやる。
そしてサダノブの前の席に座り、調べ物を始めるのだ。
マンションの管理業者の一覧である。
「……見つかりました」
サダノブはくるりとタブレットPCを回し、黒影に見せた。
「有難う。……やっぱり、不自然だよなぁ……」
黒影はあの椿を見て呟く。
「不自然って、庭が?」
と、サダノブは何の変哲もない綺麗な庭が如何かしたのかと、黒影の方に回り込みちゃっかり隣の席に座る。
「近いよっ!気が散る。少し離れろっ!」
黒影は明から様に片方だけ眉を上げ、不機嫌そうに手の甲をひらつらせ、シッシッと遇らう。
「先輩はねぇ……前から言おうと思っていましたけど、自分で思っているより縄張り範囲が広いんですよ。調べ物中に後ろにいるだけで肘鉄とか、普通無いですからねっ!」
サダノブは、素っ気ない黒影の態度に今日こそはと言ってやった!……つもりであったが、
「はぁ?其れに気付いて分かったんなら、僕のパーソナルスペースを侵害して来なければ良い話した。サダノブが悪い」
黒影は椿を拡大し、ある確信に辿り着くと椿の拡大画像を切り抜き、マンション管理業者一覧から造園会社に、其の画像を添付したメールを送る。
サダノブは仕方無く憤(むつく)れ乍らも席を横にずらした。
「今のが殺害現場の?」
サダノブは現場に行かなかったので、添付ファイルにした椿の動画の元動画を観て聞く。
「ああ、此れが気になるんだ。ほら……ハンバーガーショップの店主に言われて、仕方無く無理矢理剪定をした後がある。此処が可怪しいんだよ」
と、黒影は剪定箇所を更に拡大して、サダノブに見せた。
白雪は黒影を挟み、サダノブの反対に座ると黒影の肘を取りウトウトとし始めた。
「えっ?……あっ!……白雪、眠るのかミルクティーを飲むのか何方かにしなさい」
こくんこくんと揺れる頭の額を片手で抑えて、黒影は慌ててもう片手でミルクティーのカップ&ソーサーを離す。
「先輩?」
「何だ、今両手が忙しいんだよ!」
と、呼ぶサダノブに黒影はヒヤヒヤしながら返したが、何で呼ばれたか気付いて困惑している。
……造園会社から折り返しの電話だ。
「良いから、サダノブ出ろよ!」
黒影が苛々してロングコートのポケットをチラッと見た。
「ええ?さっきパーソナルスペースが如何のって言っていたじゃないですかぁ〜?流石の俺でも、社長のパーソナルなスペースには立ち入れないですよぉ〜」
と、サダノブはさっきの仕返しと言わんばかりに、ニヤニヤして嫌味を言うのだ。
「ゴタゴタ言うなっ!社長命令だっ!事件に重要な情報になるんだ、早くしろ!」
そう言って黒影はサダノブを急かすだけ急かして、やっとの思いで白雪を起こし、上体を背凭れに寄り掛らせた。
サダノブが黒影にスマホを渡そうとすると、
「ハンズフリーにしてくれ」
そう黒影は言うなりまたタブレットの画像を隈なく観ている。
サダノブは、
「あの、情報漏洩は気にしないんですか?」
と、事件の重要な情報だと言うのに、黒影にしては珍しい事を言うもので不思議に思う。
「聞かれても構わない情報だ」
黒影はこれからする遣り取りをそんな風に説明した。
「其れですがねぇ……やっぱりおかしいって言っちゃあ何ですが、きっと塀を超えない様に切ったんですよね?」
嗄れ声の高年の男の声。造園会社の庭師の棟梁である。
「ええ、確かにそうだった様です」
黒影は答えた。
「剪定を随分と繰り返してこぶが出来ちまってる。黒田の若旦那が言う様に、時期外れ、何節か残さなくてはいけない筈が少ないかも……その通り。ご名答でしたよ。然しね、こんなこぶだらけにしちゃあ、花咲が良過ぎる」
と、棟梁は話すのだ。
「……そうですよね。……瘤がこれだけあるのは所謂、木の病気だ。瘤病でしたね。特に剪定時に雑菌や虫によりやられたり、折れればカルスにもなる。その先に見事な枝に花……。一年前から切り出したとして、こんなに再生する物ですか?」
黒影は如何やら椿自体の話しをしている様だ。
サダノブは興味薄に白雪の幸せそうな寝顔と、暖炉の暖かさにうっつらうっつらと夢心地に、目をとろんとさせ暖炉の火を眺めていた。
「一年で?……それは無茶な話しですよ。我々が修復させようったって、悪い所を切って、薬を塗って、雑菌や虫が入らない様にしてやって、翌年は未だちらほらでも咲くだけマシな方ですよ。こんな大輪咲きやしない。そんな腕っぷしの花咲か爺さんでも居たら、今からでも弟子入りしたい気分ですわ」
と、棟梁はガハハッと何を冗談をと、笑う。
「……そうですよね!……そう、其れが聞きたかったのですよ!自然には自然のルールや時間がある。この瘤病が人間で言う、瘡蓋の様に。木も身体も、一度病気に掛かれば治るには其れ相応の時間がいるって事なんですよ!有難う御座います。助かりました。夜分に態々折り返して頂いてすみません。此方からお掛けしようと思っていたところでしたよ。……ああ、そうですね。……ええ、ではまた次は……はい。夕飯?……あぁ未だこっちは仕事でしてね。……ええ……はい……」
その後軽い世間話と棟梁の孫娘さんの話しを黒影はしっかりと聞いて……
いる訳もなく。タブレットに、
――時藤 浩史に今からアポイントを取ってくれ。
椿の剪定時期について聞きそびれてしまった。
椿に入ったクレーム回数や頻度等を詳しく話しをしたいと伝えてくれ。
この電話の後、直ぐに行く。――
と、打って司令を出していた。
其れを見たサダノブはスッと立ち上がり、黒影と棟梁の話しの邪魔にならない様、ロビーの隅に行き時藤 浩史にアポイントを取る。
黒影はサダノブをずっと見乍ら会話し、サダノブが手でオッケーサインを出したので、頷く。
黒影にサインが通じたと分かると、サダノブは外に出る。
フルヘルメットでバイクでも外からの音に邪魔されない無線機のスイッチを入れ、エンジンを先に温めた。
風柳や白雪がいる時は、専ら社用車とは名ばかりの黒影の漆黒のスポーツカーを転がすのだが、黒影と調査に二人で出掛ける分には大概バイクで十分である。
黒影が来た時点でエンジンを温めていないと、直ぐに出発出来ない理由ではあるが、何よりもサダノブが直ぐにエンジンを掛けたのは、黒影が後ろに座った時にこの寒さで金属部分が冷たいと、温まり切るまでずっと文句を言われるからだ。
「……神経質だからなぁ、先輩。これで良し!」
サダノブはエンジンが温まると満足そうに言った。
「行くぞ!」
暫くすると、棟梁との電話から上手い具合いに逃げ出した黒影は、調査用バックを持ち、シルクハットが飛ばされぬ様押さえ、漆黒のロングコートを闇夜に羽ばたく蝙蝠の様に、大きく広げバサバサと鳴らし、全速力で走って来た。
サダノブには黒影の考えが計り知れないが、兎に角あの椿と時藤 浩史が何か事件に深い関係がある事ぐらいは分かる。
「準備はバッチリですよ」
サダノブはバイクの椅子を開き、そう言う。
黒影は当然だと言わんばかりに、椅子の下の収納からヘルメットを出すと、空いたスペースに鞄を入れた。
辺りは暗い。
夜中、一台のバイクが小さな林にも満たない並木道に野生の木が多少生い茂る、人気のない一本道を通っていく。
少し寒さで靄が発生して来た。
早く現場に到着したい所だ。
一応バイク用チェーンも搭載していたが、路上が凍るとバイクには些か道が悪くなる。
「おい、サダノブ!僕にはあまり前の景色が靄で見えないのだが、路面は大丈夫か?さっきから車体がぐらつき過ぎだ」
黒影はそうは言ったが、先にサダノブの名にイントネーションを強く付けたのは、先程まで暖かな暖炉の前に居て、身体が急に冷え込んだ所為で眠気でも起こしているのではないかと言う懸念を持ったからである。
「いいえ、まだ路面凍結はしていないですよ。何かハンドルがさっきから少し引っ張られて……」
と、サダノブにも此れと言った原因が分からない様だ。
「お前、眠いのではないだろうなぁ。証拠を掴みに行くんだぞ、シャキッとしないか。ハンドル線が一本切れたんじゃないか?」
黒影は何か他の能力者から奇襲でも受けたのではないかと警戒し乍らも、可能性を言った。
サダノブは通常のドライビンググローブを脱ぎ、ポケットに入れた。
手元を明るくする、グローブに小さなライトが付いているナイトライトグローブを下に嵌めいたからだ。
この商品は実際に販売されており、薄手で軽量にも関わらず、暗闇での細かい作業に手元を明るくし便利である。
この時期は明け方も暗いので朝採れ野菜を収穫する農家の人にも便利なグローブである。(著者はこのグローブの制作会社の回し者では無い。此れもしや探偵道具に大活躍ではないかと気に入ったものだ。なので、当然激押しして、「夢探偵社」にも早速導入した次第である。前章のサダノブのイラストでサダノブが装備している。by著者)
サダノブは視界の悪い中、
「先輩、一回降りて下さい。バイク点検してみます。一応、涼子さんも僕等の会話を聞いているでしょうから、他のバイクの用意をしている筈です」
と、黒影に提案して座ったままバイクを少し傾け、一度片足を路面に付け、降りて貰おうとした時だ。
「二人共大丈夫かい?こっちはもう準備してるから安心しなっ!」
心強い涼子の粋の良い声が二人のヘルメットの無線に届く。
「流石、仕事が早くて助かりますよ。こっちで動けるか様子見るので、駄目そうならお願いします」
と、黒影は涼子に言ってバイクを降りようとした瞬間だ。
「先輩、何ですかこりゃ?」
サダノブがまた肝心な時に馬鹿っぽい質問をしてきたが、サダノブは狛犬の習性からか、如何も野生の勘……つまり、鼻が効く事もあるので、黒影は動きを止め詳細を聞く。
サダノブは未だバイクに跨がっており、完全に降りた訳では無い。
サダノブがグローブで照らす先を黒影が見てみると、タイヤに蔦が何処からか飛んで来たのか絡まっているのが見える。
「サダノブ、その蔦の所為じゃないか?一応取り除いた方が良いよ」
黒影はこんな所に蔦かと思ったが、風の強い日であったのでそう提案した。
「あー、本当ですね。バイクの風で飛ばないなんて、こんな細いのに強情だぁ。まるで誰かさんみたい」
と、笑って言う。無論、其の誰かさんと言うのは黒影の事だ。
「言ったなーっ!」
黒影はサダノブの脇腹を擽ぐってやろうと思った。
其れとほぼ同時に異変が起きた。
バイクの車体が路面に氷も無ければ、走ってもいないのに勢い良く横滑りし、横転し回る。
大型の黒とシルバーのボディがガシャンと大きな音を立てて、そのスピードにまるで車と衝突したかの様な火花を散らせた。
「ぐはっ……」
黒影は道に放り出され、背中を落下の際に強打し、そのまま背中を滑らせてしまい、激痛に口から溢す。
……何だ?何があったんだ?
……そうだ!サダノブ、サダノブは?!
黒影は痛む背に蹌踉めき乍らも、足に力を入れて食いしばり立ち上がった。
瞳に映ったサダノブの姿に、黒影は思わず己の背を庇う事も忘れ走りだす。
サダノブの前に滑り込み膝を付いた瞬間、漆黒のコートが時を止めたかの様にふんわりと空気を優しく呑み込んで行った。
「サダノブ!サダノブッ!!おいっ!おいって!大丈夫だと言えっ!何時もの様にヘラヘラ顔でーーっ!……何をしているんだ?……行くぞ。ほら、僕が行くと言っている!!」
黒影はサダノブの肩を軽く叩き、何度も何度も話し書ける。
サダノブの額から一筋の鮮血が流れていた。
頭部を切ったのならば、出血量も多くて当たり前だ。
然し……もし、これが当たりどころが悪かった結果であるかも知れない限り、早く病院へ連れて行きたい。
身体を投げ出されたサダノブは、ガードレール方向へ突っ込んだ。
運悪く、大型バイクの車体と共に。
バイクに押し潰される様に隠れて見えず、始め身体も探すのに時間が掛かった。
息はしている。脈もある。だが、意識が無い。
「……此れからだろうがっ!!穂(みのる)さんと幸せに成るんだろう!?……なぁ……何を諦めても構わない。でも……でもなぁ!今はっ……今だけは諦めるなっ!!」
泣きたくなる……急に一人で戦わなくてはならないのかと不安になった
一人で戦っているつもりの時は感じなかった感情だ
信じたからこそ、不安になっている
其れでも僕は
何度出逢ってもきっとサダノブを信じる
何て無力だ……此れが人間的な感情とでも言うのか。
ならば僕はこの不安さえ、強さに変えるのみだ!
「十方位鳳凰連斬(じゅっほういほうおうれんざん)……解陣っ!」
此の鳳凰の略経で少しは鳳凰を守護する狛犬のサダノブならば、回復する筈だ。
だが、脳を打ったとすれば、そんなにのんびりと治療など待っていられない!
今…連れて行ってやるからな…。
お前を連れて行って良いのは、僕だけだと決まっている。
強く気を保つ為にサダノブにそう誓い、鳳凰の真っ赤な炎の翼で舞い上がろうとした刹那である。
🔸次の「黒影紳士」season7-2 第四章へ↓
お賽銭箱と言う名の実は骸骨の手が出てくるびっくり箱。 著者の執筆の酒代か当てになる。若しくは珈琲代。 なんてなぁ〜要らないよ。大事なお金なんだ。自分の為に投資しなね。 今を良くする為、未来を良くする為に…てな。 如何してもなら、薔薇買って写メって皆で癒されるかな。