黒影紳士 ZERO 02:00 〜閃光の樹氷〜第三章 蠍(さそり)
三章 蠍(さそり)
「ダーツの矢は警察に渡したので全部ですか?」
念の為、お茶を出しに来てくれた広瀬 美沙に黒影は聞いた。
「ええ、何時も並べている場所に七本3セット有りましたから、全部提出しました。他にも無いか、散々探して行かれたので、もう無いと思います」
と、言う。
「毒は……何の毒だったか聞きましたか?」
黒影が聞くと、
「蠍の猛毒です」
と、答えるではないか。
「蠍って……あの砂漠にいる奴ですよね?」
サダノブは驚いた様だ。
だが、黒影は何も驚きはしない。
「日本にだって、観賞用の蠍なんか沢山販売されているよ。毒を抜いて許可を取ればタランチュラ(毒蜘蛛の一種)だってペットてして飼育可能だ。……それより、先程利田さんと話していて気になった事があるんです」
と、黒影は広瀬 美沙を見た。
「気になった事?」
黒影があまりの赤く美しい目で真っ直ぐ見詰めるものだから、広瀬 美沙は恥ずかしそうに横髪を流し、視線を外した。
……この、天然マダムキラー……
と、其れを見ていたサダノブが思ったか否かは、読者様が決めると良い。
「……ああ、マジックの種と言うものは、僕は詳しくは無いが、高額で取引きされていると聞いた事がある。旦那様の孝治さんは、練習場で独自にも考案してはいたと推測出来ますが、弟子も三人いる。新しい種を次から次へと産むには大変なご苦労があったと想像出来る。もしかしたら其の種の売買で、何らかのトラブルがあったのでは無いかと思いましてね。如何です?何かその辺の話は聞いていませんか?」
人間関係で一番拗れ易いのは金絡み。
黒影が聞いたのも、当然の事である。
「……そう言えば、そろそろ新しい種でも買うか……なんて、言ってはいました」
黒影は其れを広瀬 美沙から聞くと、……良し!ビンゴだ!と、心で一つ賽を並べる気分だ。
此の賽が並ばなければ、違う。
並べば動き出す時だ。
「スマホはもう帰って来ていますよね?」
変死体だったが故に、ご遺体の返還は想像以上に遅れてはいるが、スマホならば直ぐに調べ終える。
「あっ、はい……仏壇に……。少々お待ち下さい」
と、態々広瀬 美沙は仏壇に小走りで取りに行ってくれた様だ。
「サダノブ、データのバックアップを取ろう、削除履歴もだ」
黒影がそう言ったので、サダノブは黒影と「たすかーる」が共同開発した、タブレットに搭載されている、特殊なバックアップソフトを使った。
サダノブは其れに各スマホキャリア端末対応のコードを繋いだ。
何時もライダーズジャンパーの沢山あるファスナーポケットに携帯している。
「……これです」
「……中身、確認しても?」
黒影が聞くと、広瀬 美沙は快く頷いてくれた。
「……あの……その代わりにと言っては何ですが、もし今更浮気していたかなんて分かっても、何とも思いません。……彼は楽しい夢の様な時間をくれました。……警察に押収されて戻って来た時、見てみたいとは思いましたが、ずっとお互いに見ないと決めたスマホですから、今更一人で見れなくて……。少しだけで良いんです。孝治さんとの思い出が入っているのなら、見てみたくて……」
と、広瀬 美沙は言う。
これがもしも広瀬 孝治からの依頼で調べているのならば、守秘義務が発生する。
然し、今回は広瀬 美沙の協力があって、黒影も見る事が出来るのだ。
黒影は暫し考えた後……、
「ご協力してくれたのだから構いませんが、一応……スマホの中身は通常、持ち主のプライバシーになります。口外なし、此れによって得た情報で誰を恨むも無し……其れが条件です」
と、念を押した。
これで浮気や隠し事なんかが出て来て、後に骨肉の争いの素となったらとんでもない。
「分かりました……」
広瀬 美沙は黒影の「真実の目」を見て、深く頷いた。
民間の探偵だからこそ、臨機応変に出来る。
本当は……個人情報に該当するので、内緒の内緒だ。
サダノブがバックアップを取る間、広瀬 美沙は短い時間だが、其のスマホの中にある、二人の思い出や、広瀬 孝治の写真を食い入る様に見詰め、目に焼き付けている様だった。
黒影は其方よりも、完全に復元されたメールの遣り取りに目をやる。
頻繁に行平 志信(ゆきひら しのぶ)と言う人物との遣り取りが生前にあった事が分かる。
恐らく、マジックの種の売買か何かで、証拠が残らない様にか、一度削除されていた。
「消されているな……」
一度削除され復元した物は、分かる様にマークが付くので、黒影は其の遣り取りを眺め呟く。
「そりゃあ、マジックの種を誰から買ったなんて、バレる訳にはいかないんでしょう?職業的に。ねぇ、美沙さん?」
と、サダノブは当然ですよね?と言う様に広瀬 美沙に振る。
「ええ……勿論。夢が壊れますからね。種がバレてしまえば魔法使いの様に見えなくなると、何時も主人は笑って言っていました。……此処だけの話しでお願いしたいのですが、「そろそろ一風変わったマジックでも仕入れないと、最近は多様性を求められるからなぁ〜」なんて、孝治さんが急に言い出したのです。何か新しいマジックに興味があるのだと、私は思いました。きっと其の新しいマジックのお話しじゃないかと……」
広瀬 美沙は言うのだ。
「新しいマジックに……。と、言う事は種の仕入れ先を変えようとしていたのですね?……以前から種を買い付けていた相手は如何でしょうか?客を取られたと不愉快には感じない物ですか?」
黒影も、流石にマジックの裏側の知識は少ないので、素直に聞いた。
「いいえ、これからも何時もお世話になっている方とは、縁を切る気も無かった様ですから……。普段は自分でも作る人なので、珍しいな……とは、思っていました」
と、広瀬 美沙は答えるのだ。
ならば、新しい種の仕入れ先、行平 志信との商談の絡れが、今回の件に絡んでいるのではないかと、黒影は考えた。
「……其の新しいマジックがどんな物か、チラッとでも聞いたりはしませんでしたか?ほんの些細な事でも良いのですが……」
と、黒影は何か此処から犯人に繋がるヒントは無いかと、やや難しい質問だと分かりつつも、聞くしか無いと腹を括る。
「……そう言えば……」
「……そう言えばぁ〜?」
サダノブも気になったのか、広瀬 美沙が言い掛けると、顔を覗き込む。
「おいっ!」
黒影は折角思い出そうとしているのに、邪魔をするなとサダノブの片肩を掴み引いた。
広瀬 美沙はサダノブが身を引くと、改めて少し考え、こう言った。
「蘇生術みたいな物だと言っていました」
「蘇生術?」
広瀬 美沙が続けた言葉に、黒影も拍子抜けした声を返した。
幾らマジックとは言え、蘇生なんか出来たら、世の中の葬儀屋が皆んな潰れちまう。……当然、馬鹿馬鹿しく思えたのも無理は無い。
……然し、考え直してみると……此れはマジックの話しなのだ。蘇生した様に見せ掛けた仕掛けのある何か、と言う事になる。
何も驚く程良いでも無い。種と仕掛け有りきで、マジックと云ふのだから。
「……其のマジックの事、詳しく知りたいのですが……。勿論、探偵にも守秘義務はありますから、口外しません」
と、黒影は興味を持った様なのだ。
「テーブルの上の金魚です。綺麗な金魚を買って来て、下準備に育てていました。……その金魚が一回指を鳴らしてバンッと、ピストルの様に言うと死んだ様に浮かび、金魚の名前をお客さんが呼ぶと、また蘇るんだそうです。……実際には未だ見た事は有りませんでしたが、きっと子供も喜ぶと……楽しみにしていた様です」
と、素直に包み隠さずマジックの全貌を教えてくれた。
「蘇生……ね……」
黒影は小声で言うと、下唇に軽く手を置き、天井を見上げた。
和風の障子で作られたモダンな牡丹柄の行燈が、外から入り込んだ幾許か冷えた北風に、微かに揺れる。
…………蘇生なんて能力者が出て来たら、僕等は一体此れから何と戦えば良いのだろうかと言う考えが、ふと脳裏を過ぎる。
有難いばかりの能力が、犯罪を侵してしまった時、其れでも捕まえ無くてはならなくなる。
捕まえなければ多くの命が助かるかも知れないとしたら、其れでも僕は躊躇無く、捕まえる事が出来るのだろうか。
何も考えず、依頼を熟せば良いと言う考えだけで、後に己を赦せるものだろうか。
こんな、瀬戸際の様な意思にさえ、今後己の息子の鸞は、白黒着けねばならないのだと思うと、些か心配にもなる。
信じる事しか出来ないものだ……親なんて言っても。
「先輩?」
サダノブは黒影が考えたまま沈黙していたので、如何したのかと聞きたい様だ。
「……ああ、少し脱線して考えてしまった。……そうだ。今は自分の目の前にある事から……だな。「蘇生」は不可能だとして、元気な金魚を袖裏から出して死んだ金魚とすり替えるぐらいなら、トランプでも似たマジックがあるのだから出来そうだ。」
黒影はそう言った。
「……確かに……それなら出来なくも無いと思います。僕ならばかなり鍛錬が要りますが、師匠なら容易い筈です」
黒影の意見に、利田 司は見解を述べた。
「でも……」
だが、何かが引っ掛かるらしい。
「でも……何ですか?」
黒影は詳しく話す様に促す。
「師匠は、動物や生き物が大好きなんです。幾らマジックで使うとしても殺したりする様な人では有りません」
其れを聞いた時、黒影の頭の仮説が、一本の糸に成った様に感じた。
「成る程……十分過ぎる情報を、お二人共……有難う御座います。近々犯人が捕まります。署長とは探偵社設立以来の知り合いでしてね。家宅捜査はもう限界だと言っていたので、限界なら止めておくよう、僕からも伝えておきます。後は此方にお任せ下さい。利田 司さんの種を明かしてしまった罪滅ぼしですから、依頼料も取りません。……何か困った事があったら、此方へ……」
と、黒影は二人に「夢探偵社」の名刺を渡す。
「黒田……勲さん?」
広瀬 美沙は書いてあった氏名を読み上げた。
「黒影で構いません。大概、そう呼ばれています」
と、微笑み言うと、黒影はまるで影の様に颯爽と其の場を跡にし、漆黒の姿をサダノブと共に消したのだった。
ーーー
「……先輩は、金魚のトリック、解ったんですか?」
サダノブは駐車場に向かう途中に黒影に聞いた。
「ああ、勿論さ。死ぬのが嫌なら普通は、浮かんでいる様に見せかければ良いだけだ。良くある、グラスの中に鏡なんかを仕掛けて消した様に見せ掛けるとか、方法はマジシャンなのだから様々だ。
けれど、今回はマジックの話しでは無い。重要なのは、其処に毒物が消えた事が最大の謎だ。これは種も仕掛けも無い現実の方だ。時系列を追えば多少見えて来る。時を戻して考えてみるんだ。先ずマジシャンが亡くなったところからでは無く、其のもっと前に勿論……殺されるに至った経緯があるものだ」
と、黒影は言うと、並べて考えてみるように掌を返し、サダノブに話させる。
「先ずは……今日分かった事で言えば。弟子間の仲は然程悪くはない。出来の悪かった利田 司さんも、師匠の広瀬さん夫婦には良く面倒を見て貰っていた。……此処までは、人間関係で順調だったからぁ〜……やっぱり、マジック売りの行平 志信が気になりますね。未だ遣り取りをし始めて浅いから、騙されるなんて事もあったかも知れない。……先輩も、其処が引っ掛かるんでしょう?」
サダノブは最後に黒影に振った。黒影は、
「あのなぁ〜。何時か知らんが立派な父親になるかも知れないんだろう?一々、自分の意見を言うのに確認していたら、誰が家庭の物事を決めるんだ?穂さんか?……まぁ、僕はお前なら尻に敷かれてる方が丁度良いとは思うがな」
と、言う。
「ええ〜っ……何か、格好付かないっすよぉ〜」
サダノブはヘナヘナ声で、黒影のコートの肘の辺りを両手で揺らすのだが、黒影は其れを埃でも払う様に、ピッと指先を弾き落とす。
「サダノブはそもそも、格好付けようだなんてした事も無いじゃないか。其れを今更急に変えたところで、穂さんが「黒影さぁ〜ん、最近サダノブが変なんですよぉ〜」と、言いに来るだけだ。それで二人の愛の巣も、また監視カメラ尽くしになるのが目に見えるよ」
と、下らないとさも言いた気に溜め息を吐く。
「先輩は?格好付けたいと思った事……無いんですか?」
ずっと出逢ってから憧れでもあり「先輩」として慕って来たサダノブにとっては何よりも聞きたいところではある。
黒影が社用車に乗り込み、エンジンを掛けた……。
「自然でいる事だ」
「えっ?自然ですか?」
エンジン音が大きいのでサダノブは聞き返した。
「ああ……。格好付けようとすると身の丈に合わず、不恰好に映るものだ。より自然に動く流れは美しく格好良い……。俺はそう思うがな」
そう言い乍ら、黒影は大切な帽子を今日はいない妻の席へ預ける。
助手席を見詰めた一瞬は、温かな人間の優しい目をしている。
其れは鳳凰の平和其の物の様で穏やかである。
サングラスを掛けて、前を見据えた時……ルームミラーでサダノブは黒影の目を見ていた。
事件に向かうと覚悟した刹那……瞳に赤い一閃を輝かせ、また何時もの瞳に色を戻して行く。
何に向かってアクセルの第一足を踏むのか……其の瞳の先が既に捉えているのだろう。
何時だって……解決する事に迷いは無く、問題点在らば一つずつ調べ潰して行く。
……自然に……真っ直ぐに……そんな風に生きる事は、容易くはないのだと思っていた。
恐怖心に弱さや、何もかもから勝てなければ出来ないのだと思っていた。
だけど、違っていたんだ。
弱さも恐怖も人は表には出したがらない。
けれど黒影は其れを人間ならば当然と恥じたりはしない。
己を恥じて偽った時、確かに滑稽さは表だって目立つものかも知れないと、サダノブは思った。
「……穂さんは、そのままのサダノブを愛してくれたのだろう?……だったら、信じれば良いだけだ!」
黒影はチラりとルームミラー越に後部座席のサダノブを見遣り、そう続けた。
「……そっか。……そうだった」
サダノブはキョトンとした目で、スピードを上げて行く黒影を見ていた。
そのうち、またちゃっかり署長に貰ったパトランプを使うに違いない。
行き先はもう分かっている。
行平 志信を調べに行くのだ。
「行平 志信との商談の記録を見るからに、如何も途中から様子が変だった。送金記録を炙り出せ!」
黒影は運転をし乍も平気で指示を飛ばしてくる。
サダノブは幾つ同時に物事が出来るのかと、不思議に思いながら行平 志信を調べ尽くす。
「……前科は無し。住所は奥さんが教えてくれた場所で現在も合ってます。IPアドレス追跡しましたが、今は自宅にはいない。店の方ですね」
「店?マジック売りでは無いのか?」
黒影は思わずルームミラーを見上げた。
「爬虫類専門のペットショップですよ」
「蠍は?」
気になった黒影が次々に聞いてくるので、
「待って。いっぺんに何個も出来ないって言っているじゃないですか!」
と、サダノブは頭がこんがらかりそうになり言った。
「……ああ、すまん……」
毎度乍らサダノブは黒影の頭には付いていけないが、黒影は其れを何時でも「思考読み」の能力を使う際に問題ない様、脳が休んでいるだけだと言ってくれた。
きっと俺は馬鹿だから、先輩が其れに気付いてくれなきゃ、自分の馬鹿さ具合いを、もっと嫌いになっていただろう。
そんな取り柄の無かった自分の価値を見出してくれた。
先輩にも、其の洞察力と観察力にも感謝している。
其れを言わずとも、既に信頼を置いているのは、伝わっていると言う証拠なのだろう……。
「……蠍は……販売していませんね。確かに、蛇や猛毒を持つペットは扱っているようですけど……」
サダノブは店の取り扱いペットを調べていた。
「其方じゃない。……許可証と、申請。最近の仕入れだ」
黒影はやはり画面一つ観ていないのに、まるで後ろにも目があって、タブレットPCを覗き込んでいるかの様に話す。
「ああっ……。ありますね、海外から買い付けてます」
其れを聞いた黒影は一瞬顔色を曇らせた。
「其の蠍の毒を如何やってあのダーツの弓に仕込んで消したかが問題だ。これがもし、液体や物質を消してしまう能力であれば厄介だ。もしも人体を消せるのであれば、師匠の広瀬 孝治毎消してしまえば良かった。だが、其れは難しかったと言う事は分かる。特にご遺体を早く発見されなくては拙い状況だったとも思えない。……それでは、金魚のマジックと照らし合わせてみようか。金魚は死んだか、若しくは仮死状態であったか?先ず、僕は「蘇生」なんて物が存在しても、頭から一度外す。犯人逮捕にはならないからだ。他の可能性で言うならば、毒を持ったペットを扱っているなら、毒の回りや痺れで仮死状態に見せるのは得意な筈だ。……其の形跡を跡形も無く消せる事が、この場合は条件となる。……ほら、入金のは方は?」
黒影は何時もの様に考えを口に出して整理し、口座に不審な動きは無かったか、再度聞いた。
サダノブは一度に言われ、忘れていた事に気付き、
「あっ、今……調べます」
と、だけ言った。
黒影はもたついている時は「さっさとしろ!」と、平気で言うが、忘れた時にはあまり注意もしない。
サダノブには良く分かっている。
口は悪いし、我儘なのだが、実は本当に馬鹿にされたら傷付きそうな場面では、馬鹿にした事がないのだ。
其れが無意識なのか、気を遣っているからかは分からないが、だから居心地良く、「夢探偵社」が危険な仕事もあるとは知っていても辞めないし、辞めようと思った事も……あっ……過去に二回程、喧嘩のノリでは在ったが、本気では無い。
「ありました。……ネット銀行ですね。ペットの価格帯より、高めの入金が広瀬 孝治からあります」
サダノブがそう伝えると、黒影は少し唸って再び考え始めた。
「う〜む……成る程ねぇ。……送金はされたが、肝心のマジックの種は教えなかった。……つ、ま、り……元から種なんかなかった。やはり、少量の毒物だ。然も猛毒のな。……見えたぞ!……消せる訳ではない。能力だ。毒を操る能力だ。身柄確保が厳しいな……。遠距離で、此方側からは気付かれたくは無い……。これは一旦引き返した方が良さそうだ。流石に相手を知るには時期早々だった様だな」
と、黒影は悔しいのか下唇を少し噛んだ。
「えっ?」
犯人迄もう少しで黒影が帰ろうなんて、未だ嘗て(そう、黒影紳士始まって以来)無かった事。
そんなに武が悪いのかと、サダノブは不安そうな顔をする。
「何、情けない顔をしているんだ。他にもマジシャン荒らしをしているかも知れない。安否を確認してからにすると言う意味だ」
と、黒影はルームミラー越しに笑った。
「臆病風にも吹かれたんじゃないかと思いましたよ」
サダノブは無いと思い、冗談を言って苦笑で返す。
「はぁ?俺が臆病風に吹かれたらそんなにおかしいか?」
と、冗談で言ったのに黒影は否定しないのだ。
サダノブは「冗談でしょう?」と、聞きたくなったが、そんな事を言った理由に気付いて、押し黙った。
車のエンジン音を聞いたら、気が大きくなって暴走する黒影が臆病風等、感じる筈も無いのだ。
違う……そうじゃない。
俺があんな事を言ったから、穂さんと俺の将来を考えて、無茶な道を避けた……。
……そんな慣れない事……格好悪いっすよ。
……なのに、有り難くて……何も言えない。
……やっぱり……俺の中では最強は変わらなかった。
……最強に……優しくて、温かい……。
「さぁ、帰って作戦を立て直すかっ。空気は澄み渡り……景色も最高!……良いドライブになったな」
と、黒影は無邪気な子供の様に、幸せそうに笑った。
明日は何処吹く風と……この猛スピードの車で、今日すら笑い飛ばしてしまうのだろう。
※道路はみんなの物です。交通ルールを正しく守り、法定速度厳重と安全運転を心掛けましょう。
――――――
保身と言う物は過剰過ぎても己の足を掬い、前には進めなくする足枷となる。
然し「熟知する」と言う言葉に置き換えてみれば、其のブレーキが存在する事で、あやふやな勝敗を勝利へと女神が運んでくれる事であろう。
勝利の女神「ニケ」の欠けた片翼を想像し……翼をどんな色にし、どんな形にし、勝利へ導くかは全てのイマジネーションが鮮明に見えるか否で、同じ勝利を掴んだとしても、其の経過は随分変わって行くのだ。
黒影は、今まで無謀でも何とかやり仰せてきた経緯を振り返った。
其れはまさしく、サダノブも勘付いた、社員でもあり大切な友人でもある、サダノブの将来を考えたからだ。
己の力加減も知らずに、突き進むだけだった日々の怪我の数たるや、数えきれない。
本当に強く知性や理性が備わっていたならば、其の傷の数も少なくて済んだと……過ぎ去り日に思うのである。
社用車で向かう途中の情報だけでは、未だ相手の能力が絞り切れていないと判断し、やむを得ない帰宅となった。
帰ると風柳は何時も通りに新聞を広げて、茶を啜っている。
サダノブの父親の事に関与せざるを得ない黒影や鸞、サダノブを案じているのは分かる。
……新聞紙越しでも、何でもお見通しか。
黒影は刑事の勘とやらには勝てないと、其の儘……何も言わずに自室へと向かった。
「只今」も言わずに帰って来た黒影が自室にさっさと向かう様を、風柳は新聞紙越しから流し目でチラッと見やる。
瞳孔の黒が一瞬大きくなり、其の周りには金の縁で囲まれた。
狩りや吼える以外は穏やかな虎は、黒影の後ろ姿が消えて見えなくなるまで、其の目で捉えている。
……まぁ……大丈夫か。
風柳は黒影の足取りは変わらなかったので、そう心に言った。
ーーー
「……そうか。致死量の少量の毒を出すだけの能力だったら如何だ。能力を切れば無効になる。……だが、金魚の時は如何だろう。もし、単純に金魚を殺して、生きているものと擦り替えるだけの能力ならば、テーブルマジックも得意として弟子まで持っている広瀬 孝治が大金を叩いて迄買いたいとは思わないんだ。……詰まり、其れだけでは無く、幅広く応用が効くと感じた。其の価値とは…………やはり、毒の種類、効き目の度合いや量を変えらたと考えるのが無難……」
黒影はぶつぶつと安楽椅子に座り、腕組みをし乍ら天井のアンティーク洋燈の証明を眺め、頭の整理をする。
そんな内に、珈琲を小さなカリモクと大理石が天板の英国のテーブルに置き飲んだりしていたにも関わらず、疲れがどっと襲ってきて眠りに誘われて行くのだ。
――――――
目覚めたるは夢の中……
影が織りなす芸術の画廊
其れは今は癒されし過去の悲しみの舞台
父、母の眠る炎の跡は
美しき景色に変わっても
今も尚、心に小さな炎だけを燻らせる
フェルメールの絵画を模した、誰が掃除するでも無く磨き上げれたチェス柄の床には、黒影の姿が映り込み上下対照の、床まで入り込んだ様な影と実物で繋がっている
歩く度に揺れるコートは漆黒の対の花……
響く音は広さに遅れて響くので、まるで本当に二人の黒影が床を軸に、別世界と足先だけ磁石でくっ付き、歩いている様にも思わせた。
美しい噴水と花壇に優しい光を落とす中庭。
此処は夢の中ではあるが、黒影の見る夢でも、この画廊にいると言う事は、予知夢である事を示唆している。
……そして、黒影が予知夢を見る時……其の時は、誰かが事件により死ぬか、それ程の殺意を持った人物がいると言う事だ。
此の画廊で予知夢を反映すり影絵があるのだが、其れをタイトルから「真実の絵」や、「予知夢の影絵」と簡略化して呼ぶ事もある。
其れは長い廊下の先の大広間の中央に金の額縁でイーゼルで飾られている。
「今日は明日の作戦を練らなくては行けないのに……。事件は待ってくれないな……」
そんな愚痴を黒影は言い、カツカツと固い靴底の音を鳴らすのを急に止めた。
何か……違和感を感じる……。
「真実の絵」は複数の事件が絡まない様に、新しい順に解決すれば、次の事件を反映する事になっている。
過去に未だ且つて、事件を混乱させる様な出現はしなかった。……如何言う事だっ!
黒影は一気に大広間へと駆けて行く。
コートのヒラが空中で真横に広がり、流れる波の様だ。
バサバサと、鳥の羽音にも似た音を立て向かう。
黒影の父母が、謎解きが好きだった黒影の為に残した絵。
事件があれば影絵を浮かび上がらせ、事件が無ければ二人が愛した地……「真実の丘」の穏やかな世界が描かれた絵に戻る。
……今度は、何を解決しろって言うんだ?
黒影は亡き父母にそんな疑問を抱き、やっと大広間へと辿り着く。
やはり、今の事件が解決していない真っ只中に、何事かとは思っていたが、重要な「影絵の予知夢」であった。
あくまでも影絵であるので、此処からヒントを得る事しか出来ない。
黒影は一歩一歩近付き、慎重に確かめに行く……。
「……これは……」
其処には倒れた着物の女。
和室の光のは行燈の様に柔らかく、輪郭をぼんやり浮き上がらせる。
此の影絵は、黒影が幼い頃に両親を失った日の、放火事件の際の煤で描かれた物だ。
「此の景色……照明の牡丹……。何故だ?!何故あの人なんだ!……今最有力容疑者であるのに、真犯人は罪を擦り付ければ良いものを殺害ないし、殺意を持つなんて……一体如何言う事だ」
黒影は父母の想ひ出を前に、他に誰もいないからか、甘えの様なもので、動揺を隠す事も無かった。
何度縋る様に「真実の絵」の両端を鷲掴みに喰らい付く様に見ても、亡くなると予知された人物は……
――――広瀬 美沙 なのである。
マジシャンだった広瀬 孝治のご遺体の帰りを待っていると言うのに、何て事だろうか。
夫婦揃って間を空けずにあの世へ旅立つ事が幸せの様に思う人もいる。
広瀬 美沙も其れを望んでいるのかも知れない。
……それでも、其れが「殺人」と言う選択肢すら奪う物ならば、何が何でも阻止しなくてはならない。
……例え……広瀬 美沙に、残りの一生を恨まれたとしてもだ。
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