心に何かが灯るとき「1/29-2/4」
心に何かが灯るとき、私は絵を描く。そりゃあ描きだせばとりあえず絵は完成するけれど、何も灯らないときに描いた絵はなんだか良い絵じゃない。
私の心に何かが灯り描くものが浮かんでいるときに描く絵は、見る人にとってもハッキリと違うのだと思う。
そういうときの絵は一気に描きあがる。もちろんサイズの大きい作品の細部は一気にとはいかないけれど、その灯りがあるうちに集中して描く、翌日もその翌日もその灯りは消えない。そうやって描いた自分の絵が私は好きだ。私がそこにいると、絵を見て思えるから。
私の絵は流行りの絵でもないし、こんな風だから計画的な作業進行をしていく絵でもない。その灯りがない限り絵を描かないし、何もない心の自分が続くと絵が描けない。なんとなく描いたらだいたいボツになる。画家仲間にこんな自分のことを話したら「みんなそうだ。その良く描けた絵をベースに新しく絵を描いて最高の一枚を描く。シリーズを作る、画風を作るんだ」とのことだった。私はなんだか遠いなぁとその「みんなそう」がイメージ出来ない。私は同じような絵をずっとは描けない、だって心の灯りは変化するじゃないか。そんな私をワガママと言う人もいる。ワガママってなんか偉そうだなとシンプルに疑問だ。誰にも迷惑はかけていないので、ワガママだと誰かに言われるのは違うと思う。心に何かが灯ったときが最高の瞬間、それだけなのに。
心に灯るのは悲しみや痛みが多い。生きるのだと生きているのだと、強く思うような痛み。それと同時に自分は自由であると前を向くような戦うような心の動きが、ちょっとしたきっかけでトリガーとなり心に灯りはじめ、イメージで頭がいっぱいになり他の余白がなくなるほどに拡張していく。
今回の展示のメインの絵[DEMO GIRL]も、そんな感じで深夜に一気に描いた。ステートメントにあるように、生命を奪われる痛みを想い描いた絵。
花の顔は、女性に対するルッキズムからあのデザインになっていった。あれはかなり昔から描いているパターンで、確かはじめは高校生だったと思う。私は私を失ったから自分の顔が描けなくなった。私の痛みは誰かの痛みと同じであるから、この女性が誰かである必要があるという感覚でこの花の顔が生まれている。特定した誰かではない、誰かであり私でありあなたであるという意味の花の顔だ。
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