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希望のピザトースト

食いしん坊3児ママによる、朝ごはんエッセイ連載。
おいしさも栄養も作る楽しみも全部叶える、執念の朝ごはん。


長男が持ち帰った流行りのマイコプラズマ肺炎をしっかり重症化させ、心も体もしょぼくれる一週間を過ごした。

咳はすぐに日常生活に支障のないレベルまで落ち着いたので、まぁいい。問題は、お口だ。お口の砂漠化が、深刻だった。

うっかり水分補給をおろそかにしたせいで、知らぬうちに脱水症状が進み、気がついたらお口から潤いがきれいサッパリ消えてしまったのだ。

家出宣言もないままに、完全に消息不明。お口よ、特段かわいがってもこなかったけど、そんな「私不幸もの」に育てた覚えはないぞ。


お口が日照ると、何が起こるか。

まず、食材のマズみだけに味覚が反応するようになる。

ふっくらと炊かれた米の中から、乾物時代の粉っぽい軌跡を。
ピーマンの旨みを全部消し去ったあとの、性格悪い苦味だけを。
秋においしい果物から、しつこい甘ったるさだけを。

とにかくあらゆる食材の悪いところだけをドンピシャで嗅ぎ分けられる、魔法のお口に変化するのだ。

マズみ専用フードライターのポジションを狙うなら間違いなく今だろう。


そして、食事が一切できなくなる。これが誤算かつ、とにかくキツかった。

「ん? おいしくない……なんだか食べ進めるの辛いなぁ」が、数時間で「食べられない」に変わり、気づいたときには「空腹を感じるのに食べられるものが一切ない」「食べても即リバース」状態になる。

体調不良の定番食材が、ことごとく謀反を起こしてくるのだ。スープはユダだし、果物はブルータスだし、ゼリー飲料は明智光秀だった。

とにかく、全部ダメ。冷蔵庫に食べ物は溢れているのに、私に寄り添ってくれるものは何一つない。

人生、こんな孤独なことある……?

点滴で楽になれるのでは、と思ったけれど、悲しいかな、世間は三連休中。休日診療に掛け合おうにも「専門医(内科)がいません」と断られ、水分は取れてるんだよね? と確認され、ただのすごくお腹が空いている人として、多少の応援をされた上で電話を切られてしまう。


ただのすごくお腹が空いている人——。


……うん、なにも、間違っちゃいない。

私は数日間、ただのすごくお腹が空いている人として生きている。寝て起きて、家事も育児も夫に丸投げし、お腹を空かせ続けて、また眠る。

仮に救急車を呼ぶことになっても、

「どうしましたか?」

「あの……とにかくお腹が空いているのに、何も食べられなくて辛いです……」としか訴えようがない。恥ずかしい。

忘れていなければ、オプションアピール程度に「あとついでにマイコ経由の肺炎です、熱も多少」と付け加えるかもしれないけれど、それぐらいもはや肺炎はどうでもいい。



そんな中で、朝ごはん、である。

ここにきて、私にも生きる上で役割があることを思い出した。お腹を空かせていようと、食べられなかろうと、子どもたちの分の食事はなんとかしなければならない。夜は夫が頑張ってくれたけれど、朝弱い彼に朝ごはんまでお願いするのは気が引けた。

キッチンを見渡すと、超熟の6枚切り食パンが一袋ある。冷蔵庫を開けると、中途半端なピーマン。夫が買ったウインナーが数本。冷凍庫には溶けるチーズと、スイートコーン。

秒でメニューが決まる。今朝はピザトーストだ。絶対ピザトースト。それしかない。それしか無理。


食材の匂いにもマズみセンサーが反応してしまうので、朝食作りからも解放されたいのが本音だった。

周りを見渡してみると、先週までマイコ仲間だった長男がソファでごろごろしている。

「……ピザトースト作ってくれない?」

「いいよ」


試しにお願いしてみると、長男はあっさり引き受けてくれた。頼もしい男だ。
最近モテを意識しているので、親としては「ピザトーストもお手のもの」と首から下げておいてあげたいぐらいだ。

気づいたら2歳の娘もちょこんと起きてきて、二人でピザトーストを作ってくれることになった。

オーブンの天板にシートを敷くと、娘がすぐさまパンを並べ始める。どうしたらそんなにアンバランスに並べられるのだろうと不思議すぎる配置で、思わず笑ってしまう。

エネルギー不足の頭で、兄妹それぞれに何を指示するのか、瞬時に判断していく。

ソースは娘にお願いして、その間に長男に具材をカットしてもらえれば、手持ち無沙汰の状況を作らずトッピングまでたどり着けるか……?


「ぬりぬり、したい!」

娘の食いつきもバッチリだ。
本当は、ソースに少しニンニクを入れたり、オレガノを効かせたりするとおいしいのだけれど、今日の作り手は子どもたちだ。ソースも具材も、とことんシンプルにする。

娘がケチャップ塗りに集中している間に、長男に具材カットの見本を見せる。ピーマンは輪切りにね、ウインナーは少し斜めにね。

「わかってる、できるから! 」と説明もそこそこにすぐ実践したがる長男。一生懸命包丁を動かす彼の横に、なかなか奔放な具材ができあがっていく。

子ども同士で、ああでもない、こうでもないと言いながら、奔放な具材たちをパンに乗せる。

指示しなかったコーンの量が明らかに多くて、ピーマンとウインナーはコーンの重みで窒息しかけていたけれど、問題ない。
チーズを乗せて焼けば、すべてのアンバランスを包み込んで、おいしく着地してくれることを、私たちは知っている。


オーブンに入れて5分。すぐに小麦とチーズの香ばしい匂いで部屋中いっぱいになった。

「焼けたよ」と声をかけると、5歳の次男も起きてきて、子どもたちは一斉にオーブン前に集まる。扉を開けると、まるで宝箱を開けたときのように「わぁぁぁ!」と歓声を上げた。


その沸き立つ声と、自分たちで作ったのだという誇らしい表情を見ながら、あぁ、そうだよな……と思った。

そう。
いつまでも、待っているだけの子どもたちではない。いつまでも「与える側が私」ではない。

わかっているはずなのに、こうしてふと子どもたちのたくましい一面を見ると、胸がギュッと切なくなる。

彼らは自分たちで作ったり、アレンジしたり、味わったりして、生きていくのだ。
食事だけじゃない。あらゆることを、彼らは自らの責任で選択していく。その選択肢を、限られた時間の中で、どれだけ広げてあげられるだろうか。


今この瞬間健康でないことがひどく残念に思えた。一緒に「おいしいね!」と笑い合えないことが、寂しかった。
おいしそうにピザトーストを頬張る子どもたちを眺めながら、せっせとOS-1で命を繋ぐ自分が、切なかった。


子どもたちが食べ終わった後は、たくさんのコーンが床に散らばっていた。
7歳の下にも、5歳の下にも、相変わらず食後は何かしらの「お土産」が落ちている(2歳は言わずもがな)。

コーンの存在に気づいた娘が、イヒヒと笑って拾い上げる。そのまま、ぽーい! とどこかへ投げようとするのを、こらァ! と追いかけながら、今日は諦めずに食べられそうなものにトライしようと思い直す。

裏切られてもいい。失うものはなにもない。私にはOS-1がついているのだし、明日の朝ごはんはやっぱり私が用意したいのだ。

まだもうしばらく、その役割を担っていたいのだ。




【back number】
#1 秋の始まりと、ドラゴンフルーツ



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