映画を論じる根本姿勢について〜蓮實重彦の場合〜

蓮實重彦の映画批評について、初期はいわゆる蓮實文体ということが言われたり、近年は「ショット」や「活劇」の定義をめぐって言葉が費やされたりするわけだが、その根本にあるのは、武満徹との対談で話した次のような姿勢だと私は確信している。

「さっき、なぜ映画のことについて書くか、という話になったわけですが、小津の映画に拮抗できるようなものを書きたいという野心は漠然とはあったんです。でも、あれを書いて以後、小津を改めて観てみると、これはもう語り尽くせないんですね。何とも豊かな細部にみちている。だからひたすら負けるために映画の本を書いたみたいな気がしています。そんなことは初めからわかっていることじゃないかと言われればそうなんですが、いや、もう負けますね。小津の映画はどんなつまらない映画でも、あの本よりは興奮させてくれる。いやあ、映画は逃げていくんですねえ。〔…〕にもかかわらず、映画の本、数えてみたらもうすでに五冊ぐらい出してるんですね。負けるために五冊も本を書いている(笑)」(『シネマの快楽』より)

この「必敗戦」としての映画批評。DVDや、あるいはもっとハイレゾな機器を使っての「見ればどこまでも見れてしまう」フィジカル型批評にはないものがこの「負け」の姿勢である。私はと言えば、ついつい映画を止めながらメモをとってしまうし、その意味で映画に「勝ちに」いこうとしてしまっている。しかしそのような視聴が真の意味で面白かった試しはない。負けることの快楽もまたあるのだと気付かされる。上記のような姿勢を映画批評の根本に置いたことは素晴らしいと思う。

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