【連載企画】『吾輩は猫である』の面白ポイント(2)

前回、次は「二」へ進むと予告しておいたが、「一」の中でもう一箇所述べておきたいことがあった。なので連載第○回、という番号は章番号と対応しないものとして、今回も「一」を扱うことにする。

私が注目したのは、漱石の文章の「こらえる力」である。以下の引用を見ていただきたい。

「吾輩はいつでも彼等の中間に己れを容るべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を醒ますが最後①大変な事になる。小供はーー殊に小さい方が質がわるいーー猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出して②くる。現に先達てなどは物差で尻ぺたをひどく叩かれた」

当然引用中の①②は引用者が入れた番号である。
何が言いたいかというと、もし私なら、①のところで「…眼を醒ますが最後、主人に物差で尻ぺたを叩かれた」のように一足飛びに最後へ行ってしまいそうな気がする。きっとそうしてしまう。あるいは②のところでも、「…次の部屋から飛び出してきて、尻ぺたを…」とまた最後へ飛んでしまうチャンス(というか落とし穴)が待ち構えている。ここの二箇所を漱石はぐっと踏みとどまり、句点で区切る余裕を見せる。これは地味なように見えて、けっこうすごいことだと思うのだ。

文学のすべてが文体の問題であるとは言わないが、やはりそれは大きな要素だろう。私の尊敬する古井由吉は、近代文学だと特に漱石、鴎外、徳田秋声を愛読したようだが、漱石の『猫』や『思い出すことなど』からの影響はたしかに強く感じられる。それは即物的に言えば一文を短めに区切るということだ。それだけが名文の条件ではないことは多くの作家がその筆で証明してきたことだが、長文にしろ短文にしろ、文章のリズムは大切だ。先日、友人の強い勧めで小島信夫の『美濃』を読み始めたら、あまりのリズムのガタガタぶり(「私は」の乱発)に数十ページで挫折してしまった。『猫』を集中的に読んだあとだったというのも大きいかもしれない。だが私は『美濃』を否定する気はない。美文で書かれたものの外にも文学はあると思う(そう思って昨日『抱擁家族』論を投稿しました)。だがひとまず漱石に話を戻して、令和7年の今に人が彼の文章から何を学ぶかと言ったら、まずはこういった細かい文体のクセではないだろうか。漱石の挙措といえるようなものを自家薬籠中の物にできたら、また違った視点で小島信夫にも挑んでみたいと思う。

さて次回はいよいよ「二」に進もう。「二」は長いので、一回で終わらないかもしれないが、ぜひゆるゆるとお付き合い願いたい。

(3)へつづく

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