【連載企画】『吾輩は猫である』の面白ポイント(3)
いよいよ今回からは「二」を扱う。
「二」の書き出しは、「吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながら一寸鼻が高く感ぜられるのは難有い」と始まる。これ、猫が何によって有名になったかが「四」まできても一向に出てこず、これはこのまま隠していくのか、はたまたもっと先で明らかになるのか…などと考えていたら、この箇所に注がついていて、どうやら「一」が読み切りものとして好評を博したので(漱石がいる現実世界での話である)続きを書くことが決まった、という意味らしい。たしかに『ドン・キホーテ』後篇にも、前篇を読みましたという人物が登場するが、『猫』もだいぶメタフィクショナルな小説である。語り手「猫」の融通無碍さについてはこれからも述べてゆくつもりである。
と、書き出しだけで既にだいぶ書いてしまったが、さっそく次のページに「一寸読者に断って置きたいが」とある。猫が「読者」などと言ってよいものか。有名になった云々の話とあわせて、いよいよ複雑な身分の語り手だ。
次は「比喩の持続」という話について述べよう。「彼は性の悪い牡蠣の如く書斎に吸い付いて…」という文章が出てくるのだが、この「牡蠣」の比喩を漱石はここで使い捨てにしない。続くページで「愈牡蠣の根性をあらわしている」、「あの牡蠣的主人がそんな談話を聞いて…」と、何度も牡蠣で攻めてくる。私が朗読音声を聴いて数えた限り、5回は牡蠣が出てきた。これが「二」のもう少し後で出てくる餅を食う猫の挿話では、吾輩は四つの「真理」を感得するに至るし、「三」では金田令嬢が四つ(+α)の「剣突」を女中に喰らわせる。かくのごとく、漱石は一度出てきた言い回しを使い捨てにせず、持続、延命させる。批評家ジャン・リカルドゥーはこのような比喩を「構造的隠喩」と呼んだと昔習った。私にヌーヴォー・ロマンを教えてくれたその教授は、構造的隠喩の(口頭で説明する場合に)最もわかりやすい例として「二人は燃えるように愛し合った。ボヤ騒ぎが起きた」という文章を言った。おわかりの通り確かに、一個の比喩に過ぎなかったものが後続する文章に現実的波及を及ぼしている。しかし当時私は正直これを「くだらねー」と思ってしまった。だがこうやって漱石に牡蠣を何度もテンドンされると、やはりおかしみが湧いてくる。そうか、あのくだらない例文も、こういう具体的テクストを読んだあとに聞けば、もう少し言わんとすることがわかったかな、などと今になって思う。
(注として言い添えておくと、正しい「構造的隠喩」の理解としてはおそらく「主人はその晩牡蠣を食べた」的な文章が来なくてはならないのだろうが、今回はあくまでも言い回しが後続の文まで持続する、という所に力点を置いて、この語をゆるく解釈した次第である)
さて、まだ「二」が始まったばかりだが、寒月君登場はまた次回にまわそう。それでは。
(4)へつづく