【連載企画】『吾輩は猫である』の面白ポイント(4)

(承前)

主人のもとに寒月君が訪ねてきて、まず玄関先で立ち話をする。彼の欠けた前歯について主人が「君歯をどうしたのかね」と問うたりして、そこから猫の話、先日の演奏会の話など、文庫本で1ページほど話し込む。すると次に突然こうくる。

「寒月君は面白そうに口取の蒲鉾を箸で挟んで半分前歯で食い切った」

これに先立つ会話のくだりで、「寒月君は部屋に入り」とか「飯を食い始め」とかいった描写、説明は一切なく、いきなりこれである。まさに「えっ?いつの間に部屋上がって食事始まったの?」という驚きがここにはある。漱石は『門』の冒頭でもこれに類するテクを用いているが、20行なり30行なりの描写ないし会話が続けば、その間に時間が経過するのは必然だ(だからいちいち説明しなくてもいい)と言わんばかりだ。

かと言って、漱石が省略一辺倒の男というわけでもない。例えば次のような非常に退屈きわまる文例を考えてみよう。太字のところに注目。

「愛してるよ」とタカシは言った。
「私もよ」とヨシコは言った。
「結婚しよう」とタカシは言った。
「ええ」とヨシコは言った。

こんな小学生並みの作文ではお話にならないので、まず考えられる操作として、ここから「〜は言った」を取る。それでも退屈だから、「〜とタカシ/ヨシコ」も取る。そうした結果、「愛してるよ」「私もよ」「結婚しよう」「ええ」という会話の羅列になる。

結局退屈なのである。これに対して漱石はどうしたか。彼はこの苦境をもやはり語彙の豊かさによって切り抜けてみせる。以下は、タカジヤスターゼという胃薬が効くか効かないかでの夫婦問答である。やはり太字部に注目して楽しまれたい。

妻君が袋田の中からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質のものには大変効能があるそうですから、召し上がったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固に出る。「あなたほんとに厭きっぽい」と細君が独言の様にいう。「厭きっぽいのじゃない薬が効かんのだ」「それだって先達中は大変によく利くよく利くと仰って毎日々々上ったじゃありませんか」「此間うちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句の様な返事をする。

ただの会話でもこれだけバリエーション豊富にやられればつい読んでしまう。会話といっても、鉤括弧の外は猫の観察による発言という身分になるため、結局この語り手の優秀さが際立つ(猫が「対句」などどこで覚えたのか!)。語り手と作者は概念的には同一視できないが、ここを書いているのが漱石であることは事実であるため、結局のところ今日の結論としては、豊かな語彙は作家を救う、ということになった。

(5)へつづく

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