小島信夫『抱擁家族』の面白ポイント
明日発表する予定の漱石『吾輩は猫である』論(2)で、行きがかり上、小島信夫の文体はちょっとなぁ〜、というようなことを述べてしまった。友人が昨年の断トツベストワンという『美濃』に、出たし数十ページでつまずいてしまったのだ。しかし段々と、それはノイズ的なものを受け容れる余裕がなかったそのときの自分のせいだったかなと反省し始めた。そのささやかな反省の念と、小島信夫という作家のことが別に嫌いではないことの証明のために、これから『抱擁家族』の中で面白いと思った部分を書き写していこうと思う。
「なぜこういう時に、関心もないのに庭を眺めるのだろう。途方にくれているとき、助けを求めるように、なぜ庭を眺めるのだろう。ヒマラヤ杉、さるすべり、梅の木、さつき、橡、柿などがあった。さるすべりは紅い花をつけていた」(講談社文芸文庫p.38)
ここは要注目である。「なぜこういう時に〜」と述べさせているが、俊介が人知れず勝手に庭を眺めてしまったわけではないのである。つまり、作者がバッチリと意図を持って眺めさせない限り、人物が勝手に眺めたりしてはくれない。小説には時々こういう「ふと〜してしまった」という描写があるが、本当の「ふと」はないのである。そしてこの前半で出てきた梅の木は後半へのプチ伏線になっていることにも注目だ。
「俊介は時子の血管の血の流れから、それが皮膚にもたせるつやから、しぼんだり開いたりするマツ毛の動きから、首筋から肩へ流れる骨組から、ゼイ肉を適度につけて二つか三つヒダを作っている下腹部から心持ち大きさの違う二つの乳房から、しっかりした足をもった比較的長い脚などを造物主のような気持で眺め、自分の手を離れて独り立ちした人間の重さにおどろいた。この状態から早く逃れたいと俊介は思った」(p.41)
ここをはじめとして、『抱擁家族』全編から小島の人体、肉体への興味がよく窺える。よくここまで描けるな〜。
「「女の気持が分かっていない」という時子の言葉は、俊介に青天のヘキレキのようにひびいて彼は内心あわてた」(p.45)
作者は、敢えて言えば「女の気持」がわかる立場から、「分かっていない」という俊介の状態を描こうとしている。つまり、対象化の視線がないと小説は書けないということだ。私はこれがうまくできず(拙稿「げんきなおともだちを描く」参照)、どうしても俊介側に同一化して書いてしまうので、私自身「女の気持が分かっていない」者として、そのわからなさをひたすら書くことに終始してしまうのである。坂口安吾のいう「ファルス」の精神(突き放しつつ肯定する)が要請されてくるといったところか。
〔俊介が妻にピンクのパジャマを買ってあげようとデパートに来る場面。やりとり自体が長いので少し省略する〕
「「いや、それより、このピンクのはどうだろうか。ハデ過ぎるだろうか。こういう物でも、今は若くない人だって着るんだろう。何と言ったって、寝巻なんだから」
「さようでごさいますね。〔…〕それに一般に華やかなほうが、よろしゅうございましょう」
「そうだね」
彼は、にこにこして、自宅で待っている、若やいだ妻への買物でもするようなぐあいに、話を進めていた。
⭐︎彼女がピンクのパジャマを着終って横になっていると看護婦が体温計を持って入ってきた」(p.155)
⭐︎印はもちろん原文にはないが、便宜のためにつけた。ここで時制がポーンと飛んでおり、買ってきたパジャマを妻に渡す場面がすこんと抜けていることがわかるだろう。読んでいるほうは「えっ?!」となる。これも小説のなせる伸縮自在の妙技だ。この他にも何箇所か、いきなり時制を飛ばす箇所がある。かと思えば先程の執拗な肉体描写のように一点に留まり続ける場合もある。こういうアンバランスさが、小島をいわゆる「名文」「美文」の類から遠ざけているゆえんだと思う。だがそれはマイナスではない。晩年の小島は「前回私は〇〇と書いたが〜」のように、自作を訂正、改稿するような形で奇妙な小説群を書いていった。正直私には、それをすごく受け容れて歓待したい気分のときと、そうでない気分のときもある。だがいずれにせよ小島信夫がすごい膂力をもった作家であることは間違いない。チャンスがあれば『美濃』や『寓話』にも再チャレンジしてみたい。