広田弘毅 悲劇の外交官なのか
今回は外務大臣や総理大臣を歴任した、広田弘毅について解説していこうと思う。
1.概要
広田は1878年に生まれた。外務大臣や総理大臣を歴任し、「庶民宰相」ともいわれたが、東京裁判でA級戦犯に指定され文官として唯一死刑となった。
2.外交官としての評価
広田の外交官時代の評価は高い。
当時外務省の外交の主流だった幣原外交とはタイプが違ったもののどちらも協調外交だった。リトアニアで何万人ものユダヤ人の命を救った杉原千畝も広田のことを尊敬していて息子の名前を弘樹(読みはひろき)と名付けるほどだった。東京裁判のレーリンク判事も、広田の外交理念が国連憲章にも影響したと語っている。
3.外務大臣としての評価
広田の外務大臣の評価はとても低い。特に第一次近衛内閣時代のトラウトマン工作の時だ。駐華ドイツ大使のトラウトマンに日中戦争の和平工作を依頼しておきながら、閣議では徹底抗戦を主張するというあまりにずさんな外交をしていた。
4.総理大臣としての評価
総理大臣としての評価は低い。
まずは軍部大臣現役武官制の復活。だがこれは2.26事件の粛軍のためでもあるため、なんとも言えない。ちなみに現在の国会議事堂に初登壇したのは、広田であった。
5.悲劇の外交官なのか
広田の悲劇の外交官というイメージは城山三郎の小説『落日燃ゆ』の影響もあると思われるが、それらを排除して考える。当然トラウトマン工作の広田の対応については非難されるべきなのだが、広田の生き方については今の日本人も見習わなくてはいけない。自ら計らわすという理念や東京裁判での姿勢などである。