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cafeプリエールのうさぎ #4 夢の約束①

「店長……
 彼、なんかすっきりした顔で帰っていきましたね! 来たときより若くなった」

忘れ物を届けて、戻るなり
和泉は、少し息を整えながら、店長に話しかけた。

「明らかに、あなたより若いと思いますよ?」

宇佐が笑顔で応酬する。
今日初めて会ったというのに、この男はなぜか和泉にだけ冷たいのだ。
陽が長くなってきた。宇佐は今気づいたかのようにポツリと告げた。

「時間ですね。帰っていいですよ?」
「あっ、本当だ! 失礼します」

娘を母に預けてきてる。高校生になるとはいえ、あんなことがあった手前、若干の心配が残る。もってきた荷物をかき集め、抱きかかえるようにして扉に向かった。コート、カバン、カギにスマホ。全部の荷物を身につければいいものを、どうせ車の助手席に押し込むだけなのだ。気にする必要はない。

「お疲れさまでした」

上品なはずの扉のベルが、割れんばかりの音を鳴らす。和泉の大雑把な動きに、警笛を鳴らすように。それとも、もう来るなよ、と念を押しているのかもしれない。ベルの音までも、和泉に冷たかった。

車に荷物を押し込み、エンジンをかける。
気が急くが、運転前は落ち着かない。

コンコンと、窓をたたく音がした。

「和泉さん、落ちてましたよ?」

それは、小さなストラップ。
いまどきストラップなんて古いわぁ、と娘のちっかにからかわれるけど、10代のときからずっと使い続けているものだった。
天秤の形のシルバーのもの。
月の光にかざすとキラキラ光るのだ。三日月に乗ったネコと、星を持ったシロクマがバランスをとっている。あの人から生まれて初めてもらった、唯一のものであり、たったひとつ残っているカタチのあるものだった。

「なんで!?」
ありがとう、も、ごめんなさい、も言い忘れ、店長から奪い取るようにひったくった。
宇佐の目が笑っていない。
「少し、落ち着きましょうね」

心当たりがありすぎる。

「はい……すいません。ありがとうございました」
「では、夜に夢で」
そう言い残し、宇佐は店に戻っていった。





家に帰ると、母と娘が二人で映画を見ていた。
「あぁ、おかえり」
「晩御飯、食べちゃったわよ」
「いいよ、自分でできるから」
「おばあちゃん、ママだっていい年なんだから、自分でできるよ」
「ちっか、失礼ねー!」
と軽口をたたきながら、家に帰ってきたんだなぁと感じる。

家にいるのに、和泉はずっと一人だった。
とはいえ、本当にひとりぼっちだったわけではなく、娘も息子も夫もいた。それでも、ひとりぼっちだった。
そんな中で、こんなにいい子たちに育ってくれて、本当に感謝している。

向こうには、本音で語れる友人はなく、元夫は心から安心して話せる人ではなかった。
足の小指をぶつけて痛かった、と言えば「折れてるかもしれないぞ」という。大丈夫、と聞かれたこともなければ、痛かったでしょ、と共感されたこともない。
遊びに行きたい、といえば、どうぞ、と言う。起業したい、といえば、どうぞ、という。何を聞いても、なにをしても「どうぞ」と言うのだ。
若いときの和泉は、信頼されているから任せてくれていると信じていた。信じて疑わなかった。彼の転職のとき、給与の相談や勤務地の相談などされたことはなかったけど、家族にいいようにしてくれると信じていた。うまくいっている、自分は家で主婦をできている、と思っていたが、実は違ったのだ。

わたしを信頼しているから、自由にさせてくれるのだと思っていた。
家族を愛しているから、家族のことを考えて決断すると思っていた。

心のうちなんて、だれにもわからないのだ。一番近くにいて、一番話していたはずの彼は、実は和泉に関心など無く、子どもにも関心など無く、同じ家に居れば家族は成り立っていると信じ切っているような人だったのだ。
彼の給与も知らない。教えてもらえない。
家の貯金額さえも知らない。聞いても、結婚当初と変わらないから、と言われる
子どものための預金額さえも知らない。
彼の保険さえも知らない。わたしが受取人かどうかも定かではない。お義母さんかもしれない。
名刺をくれたから勤務地は知っているが、それだけである。
聞いても答えない。見せない。

わたしは信頼されてないんだ、と確信するまで1年かかった。そうは思いたくなかったのに。信じていたのに……

「ママ! 
 お味噌汁、ぐつぐつし過ぎだって」

娘の一言に現実に戻される。
そうだ、今はもう大丈夫なんだ。

「あらぁ……ぼんやりしてたみたい」
ツンとした鼻の奥を、見て見ぬふりして「かわいく天真爛漫なフリした母」のネコをかぶりなおす。

「ちっかはさすがね! 私の娘だからかしら?」
「ママだってさすがじゃん?」
「やっぱり?」

いつもの軽口のおかげで、底なし沼から這い出すことができた。ちっかの一言は、和泉にとって、まるで蜘蛛の糸のようだった。お釈迦様が垂らしてくれた、シアワセのキラキラした糸。和泉は必死に、それにしがみついているだけに過ぎないのだ。





布団に入り、店長の宇佐の言葉を考える。



――夢で逢いましょう――

離婚直後、地元に帰り再就職。
つまり、あれは口説かれたのだろうか?
あれは、わたしに気があるのだろうか?
あんなイケメンが私に? ない、ない。
こんな女子高生みたいなこと、ありえないし、少女漫画にしても、わたしはもう少女じゃない。

娘じゃあるまいし。

離婚したとたんに恋愛なんて、そんな簡単にモードチェンジなんかできるわけもない。


追いかけてくる少女思考を振り払いたくて、いつものように、波の音をかけて、和泉は眠りについたのだった。

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とみいせいこ @おさんぽ日和
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