30年前の1月17日にピアノをやめた
1995年1月17日、夕方にピアノのレッスンに行くはずだった。
でもその日以降、二度とピアノのレッスンには行かなかった。
ということを1冊のノートから昨年知った。
それはピアノのレッスンノート。当時習っていたピアノのレッスンで毎回次回の日付を書いていたのだろうか、「1995.1.17」という日付だけ書かれていて、それ以降何も書かれておらず、真っ白のページが続くだけだった。
「あの日は火曜日だったんだ」
そんなことを初めて知った。「ピアノの習い事は火曜日」ということを子供ながらに脳に焼き付けていたのか、いまだに覚えていた。
ピアノを「やめたい」とずっと思っていたことも覚えているけど、自分がいつ、なぜやめたのかは全く覚えていなかった。でもそのノートを見つけた時に思った。
「私は震災を理由にピアノをやめたのか」と。
もしかしたらやめる理由を探していたのかもしれないとも思った。
でも真相はもうわからない。ただ「やめたい」と思っていた記憶と1.17の日付以降真っ白のノートだけが残っている。
「元の生活に戻っても通うことはなかったんだ」
と30年前の自分をしばらく見つめてしまうほど、ノートの余白はあまりに大きかった。
これはノートが出てきたから知れたけど、記憶に残っていないものは山ほどあるんだろう。だから余計に、残っている記憶が消えなくなる。
30年、消えないし、忘れられない。
あの日以降、多くの災害が起きた。その度に居ても立っても居られなくなるのは、消えない記憶が残っているからなんだろうか。
そんな話を関西の友人たちと自然になった時に、大体同じような気持ちなんだということを知る。
様々に理不尽な思いもよらない記憶がある人もたくさんいるだろうし、労わり合う傷が小さくなっても大きく残るものがある。
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引っ越した実家で今年初めて氏神様に初詣に行った。すると奥まったところに、30年前に倒壊した鳥居の一部が立っていた。
一緒に行った両親と何を言うでもなく、ただそこに立つものをふわっと眺めた。
神戸には5時46分で止まったままの時計が、今でもいくつか残っている。私が知っているだけでも3箇所。
「なんでこの時間に止まってるんだろ・・・あ・・・そういうことか」
と見つけて以降、見つけると写真を撮るようにした。
その変な癖がついて、止まっている時計を見ると何かあるのかと探ってしまうようになったけど、その後には大体「故障中」と貼られている。
「変な癖」でいうと、この30年、異様に「揺れ」に敏感だった。
ある洋食屋さんでワゴンで運ぶスタイルの食事を待っていると、「揺れ」を感じて目の前にいる関西人の方とテーブルを思わず押さえた。
するとそれは、床のタイルをワゴンが通る際のわずかな「揺れ」だということがわかった。
周りを見ると、私たちのようにテーブルを押さえた人は誰もいなかった。
「もう少し長かったらテーブルの下に隠れてるとこやったで」
とその人は言った。同感だった。
そういうことがあるたびに、それほど染みついた感覚があるのかなとも思う。
「染みついた」でいうと、この30年、『しあわせ運べるように』という神戸市歌にもなっている歌を不意に口ずさむほど身体のどこかにずっとある。
震災から2週間後に作られた歌らしいが、とにかく何度も何度も学校でみんなで歌った。この歌を泣かずに歌い切った記憶はない。必ずどこかの言葉に引っかかって涙が出てしまう。
今でも東京の道を歩きながら
「地震にも 負けない 強い心をもって
亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう
傷ついた神戸を〜」
と口づさんで涙ぐむ。
「支えあう心と 明日への 希望を胸に
響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる〜」
ある時は別のところから歌い始めてまた涙ぐむ。
小学校の友人も
「心にずしっと来る」
と言っていたからどうやら私だけではないらしい。
それくらいあの頃歌ったし、
それくらい響くものがある。
「生きよう」「心と絆を大切にしよう」
なんだか小学生のようなピュアな気持ちでそんなふうに思わせてくれる。
これからも生きている限り「1.17」という日は
生きていこうと思わせてくれる日になり続けるだろう。
あの日以降、黙祷する日が明らかに増えていて、それぞれの向き合い方で生きていくしかないけど、30年経った今の私にとっては今を生きていく気持ちを強くしてくれる日になっている。
無理に意味をつけたり、希望をなすりつけたりはしないけど、初めて阪神淡路大震災という出来事を掘り下げてみて、自分が今感じることを大切にしたいと強く思った。
自分の直感を逃さず、流さず、向き合ってみる。
もしかしたらそこから自分だけの新たな希望が生まれるかもしれない。