◆読書日記.《藤本タツキ『チェンソーマン』1~2巻》
<2022年12月30日>
藤本タツキが少年ジャンプで大人気連載中の長編マンガ『チェンソーマン』1~2巻、読みましたよ♪
<あらすじ>
<感想>
ぼくはアニメのほうは11話まで見ているのだが、この原作2巻はだいたいアニメで言うと6話あたりまでの内容となっている。
『チェンソーマン』の物語構造は、なりゆきで「悪」を自らに取り込み、主人公が「人間と悪とのマージナルな存在」となる事で「力」を得て、他の「悪」と戦っていく……という『デビルマン』『寄生獣』とほぼ同じ構造になっている。
これは『チェンソーマン』と同じ少年ジャンプで連載中で同じく大ヒットした作品、芥見下々『呪術廻戦』も同じ構造を持っている。
つまりは、日本マンガ界に流れる正統派ダーク・ヒーローの流れを受け継ぎながら、その上で藤本タツキや芥見下々(両者とも1992年生まれである)といった「さとり世代」の感性が注入されている作品だと考えられる。
日本マンガ界のダーク・ヒーローのヒットの流れというものは、それぞれの世代に伏在する「鬱屈した感情」が噴出したものだったのではないかとも思っている。
つまり、『チェンソーマン』の中にも、この世代の暗い感情の痕跡が発見できるのではないか……といった事を期待して読んでいる部分がぼくにはある。
アニメについては既に1話1話つぶやきのほうでレビューを書いている(※「note」のほうには未掲載です。すいません)。
という事でストーリーについてはアニメも原作コミックもほぼ同じなので、改めて言及する事も無いだろう。
そういう訳で今回はアニメと原作との演出の違いだとかマンガ技法だとか藤本タツキの作家性についてだとかについて分析してみようと思う。
◆◆◆
アニメから入った自分からしてマンガ原作のほうを読んで気になってしまう部分は、アニメのほうが作画的には丁寧に作られているという所だろう。
当然かもしれないが、個人営業のマンガ家が週刊連載19枚と言う人間離れした労働形態でやっているのだからクオリティもそこそこになるのは致し方のないと言える(これが80~90年代の少年ジャンプ作品だったら、アニメの作画のほうはそこそこ、原作マンガのほうがよほどクオリティの高いというものも珍しくはなかったが…)。しかしまぁ見劣りしちゃうよねぇ。
マンガ連載の1話目は、連載前にある程度の準備期間は設けられただろうから、ページ数54枚でもある程度の作画を保って居られているが、さすがに2~3話目は雑さが出てしまっている。
アクションシーン以外の場面では、バストアップで背景を省略するという省エネ体制が目立つ。
3話目に至っては雑踏の一人一人の人間を何故か丁寧に書き込むという「そこ!?」みたいな変なリソースの使いよう。けっこう危機的な状況だったのかな?
藤本タツキはおそらく絵は下手ではないのだろう。ただ、空間把握能力に疑問を感じるようなコマは、幾つか見られた。
例えば、広い空間でバトルしてるはずのシーンでも、どこか「窮屈さ」を感じてしまうような描き方をしていたりするわけである。
特に8話のバトル・シーンなどは、非常に「狭い」「窮屈」と感じてしまう。広さが感じられないのである。
例えば、8話でデンジが「知るかァ!!」と言って車を蝙蝠の悪魔に投げるコマ、デンジと蝙蝠の間の距離が不自然に「狭い」と感じてしまう。
バトルマンガの演出のセオリーでは、こういった「見せゴマ」の前後に、ある程度広い範囲を俯瞰した構図のコマを入れるか、ある程度離れた位置からのロング・ショットのコマを入れるかして、主人公らと敵との位置関係をしっかり読者に見せるという方法を採る。
そうしないと、この蝙蝠の悪魔との対決シーンでも、デンジがどれくらいの距離をとって悪魔と対峙しているのかがわからない。
(ボクシングの試合や格闘技の試合などの中継を思い浮かべてみると想像しやすいかもしれない。リングサイドのカメラで選手らに近い位置から撮ったカメラだけだと、選手同士がどういう間合いで戦っているのか分からない。だから、時折遠くの位置からのカメラでリング全体の景色を撮ると、選手たちの位置関係がどういう風になっているのか分かるのである)
だが、本作にはそういったバトル中に位置関係を説明するようなコマは、あまり入らないのである。
著者が俯瞰視点の構図やロングショットの構図が苦手なのか(漫画家の空間把握能力が試される構図でもあり、わりと難しかったりする)、それともそういう構図を好まないのか。
だから、このコマは迫力はあるものの、どこか距離感がつかめず「窮屈」という感覚を覚えてしまうのだ。
他にも9話でヒルの悪魔が登場するシーン。2巻の40頁の一コマだが、ヒルとデンジの距離も何故だか随分と「近い」と感じてしまうし、どれくらいの広さの場所で戦っているのかというスケール感もいまいちよく分からない。
その上、デンジの両足の設置点‐ヒルの悪魔‐背景の車‐建物……と見ていくと、どうにも同一平面上に立っているように見えない違和感を覚える(これはアシスタントのミスかもしれないが、それも含めて作者の指示ミスである)。
……といった所が、ぼくが感じた藤本タツキの「空間把握能力の低さ」である。
「藤本タツキってこんなに演出がいまいちな人だったっけ?」と思って『さよなら絵梨』を見返したが、『さよなら絵梨』のほうはスマホ動画という、初めから窮屈な小さなカメラのレンズの中に世界を収めるという演出が藤本タツキのこの欠点を補って成功していたらしい。
しかし、『チェンソーマン』は劇画寄りの作画でダーク・ファンタジーをやるという90~00年代のジャンプらしくない作風ではあるけれども、連載1回につき必ず見せ場を1回作る、毎回1回は主人公の決めゼリフ的な格好良い一言を入れる、等のジャンプらしさは仄見える。
お話が停滞しそうになる前に可愛い女の子キャラを投入してくる、というのも週間ごとに人気投票に晒される厳しい競争原理に従っているからだろう。
目まぐるしく展開が変化するも、やっと「ああ、こういう路線の話になるのか……」という見通しが見え始めた途端に急展開をぶち込んできて話をひっくり返す……という手際は『さよなら絵梨』と同じような巧さが伺える。
スプラッタ映画のような見た目の過激さ、きわどいエロさ、といった「動物的なエサ」を読者に対して撒いていながらも、自分なりのテーマ性らしいものを出そうとしているのは、さすがに美大出身の藤本タツキだけあると思える。
例えば、第1話にあるのは「若者の貧困問題」といったテーマが反映されていると思える。
デンジは幼い頃に両親が死に、既に莫大な借金を抱えて幼いながらも働かなければ生きていけない身となっていた。借金の元はヤクザが握っており、取り立ては厳しい。未成年でヤクザ相手に毎月厳しい借金返済と利子を請求される。そのために子供の頃から命がけで悪魔を狩って、金を稼がなければならなかった。
そういう生まれとして描かれる主人公なのである。
つまり、デンジにとって、生まれながらにしてこの世は厳しく冷たい、サバイバル状態なのである。
だから、彼の「夢」は非常に身近で、動物的な欲望を満足させるだけの、些細なものでしかない。
「食パンにジャム塗って食えたら最高だ」「女とイチャイチャしたり」「胸を揉みたい」……などと言った事が、この物語の主人公の「夢」であり、「目標」となるのだ。
彼は「普通の生活を送る事」さえもままならない、超貧乏な人間として子供の頃から働かなければならなかった。だから「(一般庶民の生活のような)普通の生活を送る事」が、彼の夢となるのである。
このような出自だからこそ、このマンガの主人公には、基本的には「善悪」の考え方は、ない。
大人の世界の恵まれている人間(「普通の生活」を送っている人間)には、何の恨みつらみもない。だが……
自分の邪魔をしようと言うのならば、戦うまでだ、という事なのである。
これがこの物語を貫いている原理(1~2巻を読んだ限りでは)なのである。
これ以後も、デンジの将来の夢として、正義をなすとか世界を救うとか、腐った政治体制を変えるとか、世界一になる……といったような、これまでの少年マンガにありがちだった「大きな目標」は出てこない。
デンジにとって「将来の夢」など「贅沢品」でしかない。
彼はとにかく、いちごジャム塗ったパン食って布団で寝られる、といったような今の「ごく普通の生活」を維持するために、自分の命を懸けて戦うのである。
しかし、改めてこの物語を読んでみて、デンジのパーソナリティに「今どきの人」という感覚を見てしまうのはぼくだけだろうか?
自分の組織が善か悪かはもうさらさら関心がない、自分が関わっている仕事が違法だろうと合法だろうと「生かしてくれる組織」のほうに忠誠を尽くすという、この単純さ。バカさ。
実際にデンジは子供の頃からヤクザの命令に従ってデビルハンターをやっていたし、そのヤクザに裏切られたら何の躊躇もなくぶち〇して、自分を拾ってくれたマキマの組織に所属する。
そして、その組織がどういった組織なのかという事については、まったく関心がないのである。
これは昨年の大ヒットアニメ『リコリス・リコイル』で、ぼくが主人公らに苛立った原因の一つでもあった。
自分の所属する組織が悪をなしているのか善をなしているのか、という事にはさらさら興味がなく、関心があるのはその組織で自分が満足感と充実感を得られて、場所を与えられていると感じるような「些細な、身近な幸福」を得られれば、それで満足だ――という、田中征爾監督の映画『メランコリック』に苛立ったのも、同様の理由だった。
デンジはまだ自分が「善」などとはさらさら考えていないからまだマシなほうだ。
しかし、上の二者は自分が他人を不幸にするような犯罪に関わっていたとしても、自分のスタンスは正しいと主張して疑いもしない点でなお愚かしい。
彼らは総じて「大きな視野」に欠けていて、巨大組織の性格や世界の構図、未来の環境や人類の行く末などといった「大きな物語」には、あまり心を動かされない様子なのである。
彼らが大事にしているものというのは、自分の身の回りの身近な環境であり、自分と直接かかわりのある親しい人であって、それが損なわれる事を大変おそれているわりに、自分と関りのない「モブの命は羽よりも軽い」のである。
こういった性格を持つ主人公であるにもかかわらず、アニメ『リコリス・リコイル』は大ヒットしているし、映画『メランコリック』のレビューには絶賛が寄せられている。
つまり、こういった作品を絶賛する人たちも、その主人公らと同じように、自分の所属する組織がどんな事をやっているのかという「個人には見えにくい、大きな部分」は、見えていないのである。あるいは、関心さえ持っていないのか。
もっと言えば、今の若者らはそういった自分の所属する組織の行っている不正や犯罪や悪行について、こだわっていられるほどの余裕がないという事なのかもしれない。
そういう事にこだわって組織にたてつくなどというのは、彼らにとってはもうリスクとしか感じられないのではないか。
多少悪い事をしていたって、今の自分の(一見)平穏な生活が維持されればそれで幸せなんだ。
余計な事をして目を付けられるなんてごめんだ。
一人孤独に正義を追求して苦しい生活をするくらいだったら、悪の組織の中で中のいい友人知人と平穏な生活ができればいいじゃないか。
そのためには、知らない内に組織が手を染めている悪事に、知らないふりをして加担するのも悪くない。
『チェンソーマン』や『リコリス・リコイル』の主人公らが体現している性格というものは、そういった心性であり、こういう性格の主人公らが多くの人間に受け入れられている――今は、そういった時代なのだという事なのではないだろうか。