◆読書日記.《富増章成『図解でわかる!ニーチェの考え方』……アフォリズム風に。――シリーズ"ニーチェ入門"4冊目》
※本稿は某SNSに2021年3月28日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
富増章成『図解でわかる!ニーチェの考え方』読了。
著述家である著者による、ライトな感覚で読めるニーチェ入門。
「哲学なんて難しいもんなんか全く知らん」という人でも読める解説書。
もともと、ニーチェはそれくらい分かりやすくかみ砕く事ができる、でき易い思想家だったのだと思う。
ぼくとしては本書の、内容自体の評価は高くない。他にもっと良い入門書がある。
だが「哲学を本格的に勉強する気がない人向け」にニーチェのエキスを伝える書としては使えるかもしれない。
ミリオンセラーになった『超訳 ニーチェの言葉』を読む前の準備体操として最適。ニーチェに触れるきっかけともなろう。
ただし……「図解」の部分は余計だったのかもしれないと思う。この手の「図解」ものを読むとしばしば感じる不満だ。
「図解」とは言っているものの、そんな御大層なものではなく、文章で書いた事をただパワーポイント式のヘタなスライドみたいな形で表現しなおしただけの図が多い。
「図で見るからこそ更に分かり易くなる」が図解の強みだ。
だが、本書における「図解」というのが「分かり易いですよ!」と言っているかのような単なる「売り文句」にしかなっていない「商売のためのムリヤリ図解」だというのが、少々目障りである。
ニーチェが思想家として最もユニークなのは、そのほとんどがアフォリズム(短文で表現された見解、警句、箴言)集という形式を持っているからである。
という事で今回は試みとして以下、富増章成『図解でわかる!ニーチェの考え方』を読んだ感想をアフォリズム風味にしてお伝えしようと思う。
◆◆◆
多くの西洋思想家は思考を垂直方向へ積み上げていったが、二ーチェはむしろ思考を水平方向へ展開していく形式を採ったと思っている。
でなければアフォリズムという断片形式の表現は採用しないだろう。
これは多分、頭痛持ちのニーチェにとって長考を要する積上げ型思考は辛く、水平思考のほうが楽だったからではないか。
◆◆◆
「ケ」的な、コツコツ型積上げ方式の「アポロン的」思考ではなく――「ハレ」的な、激情的、陶酔的、創造的な思考のほうが、ニーチェが称揚した「ディオニュソス的」な姿勢とマッチしていたのではなかろうか。
――芸術的な表現力、一瞬の発想力、感情的な感性の鋭さ――ニーチェの著作からはそういったものを感じる。
そういったものは普通の哲学者とは全く違う資質なので、ニーチェのスタイルは西洋哲学の中では非常にユニークだったのだろうと思う。
だからこそ、当初理解者もほとんどいなかった。「芸術家」であるワーグナーが共感したのも頷ける。
◆◆◆
ニーチェの著作は感情的、激情的な文章表現が少なくない。
つまり「ディオニュソス的」なのだ。
過激な意見でも、躊躇なく言ってしまう。
重苦しい思考過程ではなく、軽やかな発想の飛躍と、一瞬にして湧き上がる哲学的啓示――自らのそれを「然り」と言って肯定しようという感覚があったのかもしれない。
――しかし、だからこそニーチェの思想は誤解されやすいし、悪用もされやすかったと言えるだろう。
◆◆◆
ニーチェの思想が悪用されやすいのは、彼の著作の多くがアフォリズム(短文形式)を用いていたからだとも言える。
だから、誰もが自分の考えに合っていると思われる都合の良いアフォリズムだけを引いてきて、断片によって「自分の考えはニーチェのお墨付きを貰っているぞ」と言うことができる。
――もしかしたらニーチェ思想は、他人に向かって何かを主張する場合にではなく、自分に向けて放ったほうが効果が高いのかもしれない。
「自分に向けて自分を強く励ます言葉」が多いというのも、ニーチェの思想が他人ではなく、実は半ば自分に向けて放っていたからではなかろうか。
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ニーチェは病気のために大学を辞め、その後は1年のうちに118日にもおよぶ猛烈な発作に見舞われていた。
その激しい病状の中でもニーチェは著作を幾つも仕上げている。
やはり彼にとって長考を要する積上げ型思考の哲学はその体調を鑑みても難しく、アフォリズム形式という分散型の文章のほうが自分のスタイルに合っていたのではないかと思ってしまう。
◆◆◆
自らの思想をアフォリズム形式で書いたニーチェの思想は、現代のTwitterやLineやTikTokなどを扱う「短文文化」が隆盛を極めているネット文化や若者文化との親和性が高いのではないかとも思える。
現代こそ、ニーチェのようなアフォリズム形式的思想をネットで展開させやすい時代なのかもしれない。
◆◆◆
「アフォリズム」という形式。
普段ぼくが書いている長文のレビューが「積上げ型」だと思って欲しい。
それに対して、今ぼくが試している「短文形式」で思考を散らして書いていくのが「アフォリズム型」と思っていいかと。
文章間の繋がりや順番は考えなくてもいい短文形式がアフォリズム。
◆◆◆
ニーチェの思想は誤解されやすい。
それは、彼のアフォリズム形式を読む人ごとに「この中の何が重要なのか?」「どの部分が重要なのか」と捉える部分が違うからだ。
重点をどこに置くかによって、ニーチェの文章は様々な部分が強調される。
それは短文形式が影響している。
読者の恣意によって強調点が変化する。
――読者の一人一人の持っている「遠近法」によってニーチェの言葉も変化してしまうのである。ニーチェの「パースペクティヴィズム」である。
◆◆◆
読んでいる本について「どの部分が重要なポイントなのだろうか」と考えながら読んでしまうのは「試験対策的な読み方」なのではないかと思う事がある。
この本を"攻略しよう"という意志が無意識に働いているのではないかとも思えるのだ。
ぼくの重視するのは「文脈」だ。もっと「文脈」が読まれてもいいのではないか?
◆◆◆
ニーチェにとって無批判に「道徳」に従うという事は、ひとつの「権威」にすがるという事でもあったのだろう。
既成常識による「道徳」にさえ従っていれば、自分の「正義」を保証されるのである。
キリスト教的な道徳観念に従えば、いくら過激な――宗教裁判もそうだ――攻撃だってできてしまうのである。
ニーチェが嫌っている人たち。――自分の金を舌なめずりして守り、金のためなら多少の犠牲もいとわない金貸しのように――自らの「道徳」を舌なめずりしながら愛でるタイプの人たち。
◆◆◆
「<誠実>とは何かという問題について、おそらくいまだなんびとも充分に誠実であったことはない」――ニーチェ『道徳の系譜』
……ニーチェは「誠実」という独特は尊重していたという。
彼は最大限、誠実に考えていたからこそ、世の中の既成権威の不条理に対しても容赦ない批判をせずにはいられなかったのかもしれない。
◆◆◆
ニーチェは通常の思想家的な思想家とは、若干雰囲気が違う。
体系的な西洋哲学からの影響を受けているのかどうかと言えば怪しいとも思える。
ニーチェが影響を受けたのはショーペンハウアーでありワーグナーであった。
これも何だかクセがある。
ワーグナーはその思想を音楽で表現しようとした、思想家でありかつ芸術家であった。
子供のころ音楽家を目指して作曲もしていたニーチェとしては、思想家であり芸術家であったワーグナーは憧れがあったのだろう。
ニーチェは詩作もしており、アフォリズム集には詩の形式で書かれた部分もある。「ニーチェ詩集」までも残っている。
「思想家であり芸術家」というのは、おそらくニーチェの理想だったのでは。
それにワーグナーは、ニーチェが5歳の頃に不幸な事故で亡くなった父親と、年齢が近かったという事もあったのだろう。
ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』が、物語形式の「文学」であり「思想」であったのは、ニーチェの「思想家であり芸術家」でありたいという理想をそのまま体現していたのではないだろうか。