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◆読書日記.《山﨑正和『藝術・変身・遊戯』》

※本稿は某SNSに2019年8月13日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 山﨑正和『藝術・変身・遊戯』読了。劇作家であり演劇研究者であり評論家である山﨑正和による芸術論文集。

山﨑正和『藝術・変身・遊戯』

 40年以上前に出版された芸術論なのだが、原理論的な部分もあるので古臭さは感じさせない。こういう「藝術とは何なのか?」みたいな議論、好きなんだよなぁ。学生時代はこんなことばかり考えてたなあ。

 タイトルが『藝術・変身・遊戯』なのは、それぞれの論文のメインテーマがそれだから。

 冒頭の論文「人生としての藝術」は真正面からの芸術論、「変身の美学――世阿弥の藝術論」は世阿弥を読み直しながら語る演劇論、「遊戯論批判」はホイジンガとカイヨワによる「遊び」論を批判的に読み直す試み。

 そして巻末に付録的な小論「文化と環境と藝術と」がある。
 これはいわゆる「環境決定論」を批判しながら文化と環境との関連性について考える、これも広義の藝術論と言える。

 と言う事で本書は『藝術・変身・遊戯』という大きなテーマを、既存の思想を批判的に捉えなおして著者なりの芸術論に編みなおした評論集だと言えよう。

◆◆◆

 冒頭の論文「人生としての藝術」は、実に刺激的で面白い考え方だった。西洋的な評論は何に付けても二元論的思考になりがちで、二項対立になり易い。
 芸術論についても、著者が例示しているのだけでも「人生のための芸術」と「芸術のための芸術」との二項対立、或いは「感性」と「理性」との二項対立などがあるようだ。

 昔は公衆的、公益的、共同社会的な意味合いのあった芸術家の創作の目的が、近代になるにつれて芸術家個人の自己顕示欲を満足させるためであったり依頼主個人の娯楽のためであったりと、個人的な色彩が色濃くなっていったというのも初めて知ったが、なかなか面白い見方だと思う。

 そういう「個人か公衆か」という問題立てもありだろう。

 だがこういった二項対立的な見方は必ずしも正しいとは限らず、悪くすると「悪しき分別知」になりかねない危険がある。
 現在でもよくある芸術における「感性」と「理性」との二項対立問題についても「どちらでもないのでは?」としか言いようがない。

 本書ではコンラート・フィードラーとR・G・コリンウッドの説を紹介してその「感性」と「理性」との不毛な二項対立問題を乗り越える芸術観として「想像力」という考えを提示している。
 この説についても西洋的な芸術観についても面白いと思えるのは、芸術が人生の営みのひとつの形だと捉えている点だろう。

 日本では「芸術」というと何か崇高なイメージで、美術館の壁なんかにうやうやしく掲げて、渋面を作りながら見なければならない感覚を覚えてしまうのではないだろうか。
 だが、そもそも芸術とは日常の延長として絵を描いたり俳句を捻ったりと、人生を豊かにする一つの道具としてどんな人間でも参加できるものではなかったか。

 著者は本論文ではあくまで西洋での芸術論を紹介しながらその延長としての芸術論を展開しているのだが、日本における「芸術」の位置づけというのは、西洋における芸術のそれとはかなりズレている。
 そこを踏まえながらも現代日本に特有のスタイルによる芸術原理論的なものも考えていけるとは思えた。

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 続く論文「変身の美学」では劇作家である著者の日ごろの体験から改めて世阿弥の演劇観や芸術観を振り返って読み直す試みを行う。

 中心はやはり『風姿花伝』だ。ぼくも以前『風姿花伝』は読んでレビューを書いたが、世阿弥の演劇観は驚くほどエンタテイメント的な感覚が濃厚だ。

 それは演劇というものが「鑑賞する人が直にその作品を見ることで成立する芸術」であり、「作品が成立する現場と、鑑賞者が鑑賞する現場が一緒である」という特徴があるからなのかもしれない。

 絵や彫刻のような造形芸術や文学などは、作品が成立する瞬間に鑑賞者が立ち会うことはほとんどありえないと言えよう。
 だが、演劇というものは、作品が成立する場が即ち鑑賞者が見る場とイコールであり、作品が成立する場所に鑑賞者が立ち会わなければ演劇は成立しないのだ。
 誰も観客が見ていない処で演技をしても意味がない。
 だからこそ演劇では「観客」の存在を意識せずに作品発表を行うと言う事はほぼ不可能なのだ。

 観客が「ノっているか否か」という「会場の雰囲気」さえも、演劇の出来を左右する重要なファクターになってくる。
 だから世阿弥ほどの芸術家であっても、演者というものは観客を無視する事はありえないことなのだ。演者は「見られている」と言う事を意識せざるを得ない。

 だが、見られている事を露骨に意識しながらの演技というものが良い物になるはずもなく、演者にとって「見る者」と「見られる者」として、演者と観客は深刻な対立関係を示す。
 なのでそれを解消するためのテクニックを世阿弥など歴代の能演者らは編み出していかなければならなかったということなのだ。

 そこで演者は「演じる自我」を捨て「変身」する。
 似せようとする境地を越えて真にその役になりきってしまうことで、似せようと思う意識さえ無くしてしまう。
 そういった、今どきの言葉で言えば「ゾーン」状態に至るためのテクニックを、世阿弥が掴んだかぎりのコツとして『風姿花伝』等で紹介しているのだ。

 世阿弥は若い時分からパトロンである足利義満の寵愛を一心に受け、父から受け継いだ観世座を守るために芸に磨きをかけ続けた一生だったが、その栄光も義満の死と共に陰り始める。
 先代の将軍に愛された巨大な芸術家の存在が疎ましかった後の将軍足利義教によって迫害され、追放されることとなった。

 演劇でも能でも「一人の観客もいない状態」というのは、意味がないのである。
 造形芸術や文学のように"形"として残るものではないからこそ「いま、ここ」での作品の成立が必要だった。
「いま、ここ」に観客がいなければ、意味がないのである。
 作品が形として残って、後世の人に鑑賞される可能性さえないのだ。

 だから「いま、ここ」にいて時間も空間も共有している観客がいる事こそが、演劇を成立させる重要な条件なのだ。

「直に見ること/直に見られること」それが能の本質であり、演劇の本質なのかもしれない。

 だから世阿弥がエンタメ的に、いかなる観客であろうとも満足させる事を重視したのも無理ない事なのかもしれない。

 本論は世阿弥の藝術論を読み直し、世阿弥の演劇論についての再評価をすると共に、彼の人生を振り返りながら、彼の思想と比較して演技者における実存論的なところまで踏み込んでいる所がなかなか凄いと思う。
 まあ、サルトル的な実存論はぼくはあまり納得いっていないのであまり言及しませんが。

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 そして三つ目の論文「遊戯論批判」は、ホイジンガとカイヨワの展開した「遊び」に関する研究について批判的に読み直す試みだ。

 ホイジンガの遊び論も西洋思想の癖が良く出ていて、著者は「遊び」に対して「日常」を対置して二元論的な論調にもっていっていることを批判している。

 そもそも「遊び」の定義というのが難しい。
 一般語は定義しきれないからこそ一般語ということもあるので、そこをあえて定義づけしようと言うのがいかにも哲学的な蛮勇だとも言えるだろう。

 で、著者はカイヨワの「遊び」の定義を一つずつ論駁していくのだが、この場合は一つ一つを個別に論駁するのは意味がないのでは?とも思えた。

 あくまで箇条書きにして提示した6項目によって「意味を囲って行く」のがこの場合の定義づけの方法なのだから。
 まあそうは言ってもカイヨワの定義は確かに窮屈な定義であって、何のための定義づけなのか、と思わなくもない。

 著者の主張はそもそも「遊び」に対して「日常」を対置したことが間違いなのではないかという点。これは納得性が高い。

 著者の主張は「遊び」は「休息」の別名ではないかという点。
 確かに、例えば「職業としてのスポーツ」と「遊び(ゲーム)としてのスポーツ」とでは、そういった違いが見えなくもなく思える。

 ホイジンガの「遊び」論の面白さは人間の実利的な生産活動の発展段階の末に文化が成熟していったという考えを逆転させ、「実利的な生産活動」の中断による「遊び」が文化活動の萌芽であったのではないかという考えにある。

 ホイジンガ的な「遊び」論には、「働く人」至上主義的な文化論の転倒という目的があったのだろう。
「働く人」至上主義的な「(勤労による)日常」に、真に対置すべきは別のものだったのではないか?と言う事を、著者は最後に付け加える。

「日常の勤労に真に対立するのは遊びではなく藝術だということは明白だろう」というのだ。ここで再び本書は芸術論に戻って来ると言うことになる。ここら辺の構造は面白い。


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