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◆読書日記.《アンリ・ミショー『幻想旅行記 グランド・ガラバーニュの旅』》

<2023年9月19日>

 アンリ・ミショー『幻想旅行記 グランド・ガラバーニュの旅』(1936年)読了。

アンリ・ミショー『幻想旅行記 グランド・ガラバーニュの旅』(青土社・ユリイカ叢書)

 本作はフランスの画家であり詩人であったアンリ・ミショーによる「架空の旅行記」である。架空の国で様々な部族を見て歩いた旅行記といった体裁で書いた連作短編小説集。

 とはいっても『ガリヴァー旅行記』や『山海経』等の有名な「架空国旅行記」とは違って、登場するのは普通の人間ばかりとなる。
 ただ、その部族の風習や法律や宗教が、奇妙だったり異様だったり残酷だったりするわけである。

『ガリヴァー旅行記』というよりかは、ぼくとしては酒見賢一の短編『籤引き』と似たような作風と感じた。

 SFが架空の科学を扱った科学的思考実験物語だとすれば、この物語は架空の文化を扱った文化人類学的思考実験といった所だろう。

 どういった作風なのかは、実際に読んでもらったほうが雰囲気が伝わるだろう。本書を読んで、ひとつぼくも久々にパステーシュ作品(模倣作/贋作)を作ってみたくなったので、以下に披露してみよう。
 本作の特徴の一つは、そういうパステーシュを作りたくなるような面白いアイデアに溢れているのである。

◆◆◆

※以下、オロカメンによる『幻想旅行記 グランド・ガラバーニュの旅』のオリジナル・パステーシュ小説

<ケントレッレ族>
 ケントレッレ族の地域には、牢屋が一部屋しか用意されていない。
 だから、ケントレッレ族の者が犯罪を犯した場合、軽犯罪でも重罪でもみなこの牢屋にぶち込まれる事となる。
 この牢獄は鉄格子のついた窓がとても広く、人の行き来の多い往来に面しているので、その地域の人は気軽に牢屋の中の様子を見る事ができる。
 どうやらこの牢獄はその地域の治安の一種の指標のような役割をしているようで、牢屋の中にいる囚人が少ない場合は、犯罪で捕まった者もヘラヘラしているし、その被害者も苦笑する程度でみな大して気にしていない。
 だが、この牢屋の中の人口密度が上昇してくると、町中はどこか緊張感のようなものがみなぎってくる。
 ひとたび犯罪が起これば被害者は犯人をひどく罵倒するし、捕まった者はしゅんとして項垂れる。
 町人らはみな、自分がルールを守っているかどうかしきりに気にしだすし、どんなに嫌いな相手でも恐ろしく丁寧な態度を採るようになる。
 この牢屋はとにかく、どんなに人口密度が増えようと、一度捕らえた囚人たちを他に移そうとはせず、そのままにしている。
 まるで満員電車の車内のように身動き一つままならないような状態になってさえ、新たな犯罪人が生まれると獄吏はその新人をこの部屋にぎゅうぎゅうとむりやり押し込むのだ。
 牢に放り込まれる食事は最初の犯罪者が入ってきた時から全く同じ量で出されるので、この時点になると、食事時間の牢屋内は肉体が犇き合い、血を流しながら身体をこすりつけ合いうごめいて物凄い騒ぎとなる。牢獄全体がゆっさゆっさと揺れ動くのだ。
 更に新たな犯罪人が投入されると圧死する者も現れる。
 衛生状態は悪化する。
 当然、死人も増加するが、死体になってさえ犯罪人は他の牢に移る事はできない。遺体は腐敗し、糞尿は垂れ流され、衛生状態は最悪の状態となる。
 このような状況になる事を知っているからこそ、町の人たちは牢屋の中の人口密度を気にしているのであろう。
 この状態にまで達すると、たいていの囚人は死に絶え、生きている者がいたとしても廃人に近い状態となっている。
 囚人の大半が死んでいる事を確認すると、獄吏は中身を「一掃」し、綺麗な状態に戻す。
 すると町中の人はホッとした様子を見せ、またヘラヘラとした犯罪者が現れて投獄されるようになる。
 綺麗に掃除され、人口密度の低くなった牢屋はとても快適そうに見えるし、その状況を見る町の人びとは、まるで以前の地獄の様な牢内の様子を忘れてしまったかのようにのんびりとした日常を取り戻すのである。

◆◆◆

<モルマナ地方にて>
 この地域には世界にも珍しい山羊科の動物ラモケルがいるので観察に来る生物学者も多い。
 ラモケルの牝は異常なほど乳を出し、この地域はこの乳を水替わりに使うほどである。
 訪問客の足はまずラモケル乳でていねいに洗われるし、この地域の人たちが食器を洗うのも洗濯をするのも風呂にいたってさえラモケル乳である。
 それにしては、この地域の人びとはラモケル乳を飲用にだけは使わない。どうも彼らの口にあわないそうなのだ。実際、異常なほど出されるラモケル乳は栄養価が低く、あまり旨いとは感じられないらしい。
 この地域は雨が多いので、人びとは槽に溜めた水を飲用にするのである。
 雨の季節はこの地域全体がぬかるみ、水浸しになるのだが、この地域中の水たまりや水分や湿気は、すぐさまラモケルたちが舐め尽くしてしまう。彼らは泥水を大量に吸い込んで、乳として排出しているのである。その代わり糞尿は酷い異臭がする。

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<メトレントム族>
 メトレントム族は長いあいだ他の部族から恐れられ、この地域では唯一他の部族から襲撃を受けた事がない事でも知られている。
 その実態を探るために、メトレントム族の町を訪れてみた。

 その地域を訪れる人が最初に目にするのは、大小無数の棘や釘や杭で覆われた、ハリネズミのような状態の柵である。これが、部族の町の周囲をぐるりと囲んでいるのだ。
 これは警戒心からこういった装いになっているわけではないのだという。
 そうではなくて、単にこの部族の人たちは、尖ったものがとても好きなのである。

 メトレントム族の町に入れてもらうと、ハリネズミのようになっているのは町を取り囲む柵だけの事ではなかったという事に気がつく。
 家という家すべてが棘や杭や槍のような、様々な先の尖ったもので覆われている。家だけでなく、町の集会所も役所も標識も看板も、墓場に至るまでトゲトゲなのである。
 なるほど、これは他の部族が近寄って来ないわけである。
 これほど町じゅう危険物に囲まれていると精神的な圧迫感が強く、居心地の悪い事この上ない。これでは、よろめいてどこかに手を突いただけで大怪我をしてしまう。
 町の案内をしてくれたメトレントム族の若者は、全身様々な所にピアスを空けているのが異様に思えた。聞いてみると、メトレントム族は生活していて体に穴があいた時、その多くは丁寧に処置して飾りを挿入し、ピアスホールにしてしまうのだという。
 この町の者はどこか、常に興奮気味に上ずった声で早口に喋るのが印象的だ。せっかちで、みなせかせかと動く。これでは、確かに日常生活で体に穴が空く事が多いだろう。
 案内人の家の中に招かれて、この町の人びとの身体が穴だらけである理由が理解できた。
 ハリネズミのようになっているのは、家の外側だけではなかったのである。
 トゲトゲになっているのは、家の内側も同じだったのだ。
 家の者がトゲだらけの家の中を一通り案内してくれたが、気を付けないと、床からも太い針が突き出ている箇所があるので気が休まらない。
 腕から複数の太い釘の様なピアスを生やした家の主人は、壁から生える鋭い杭の切っ先を指のはらでグイグイ押しながら、早口にこのトゲの鋭さを褒めたたえる。すると、顔じゅうからトゲのような飾りを生やした家のご夫人も、興奮気味な様子で主人の言葉を肯定する。
 私は一日と持たずに精神が参ってしまった。

◆◆◆

<トレトマレノ帝国の女帝、サルタマリノン>
 トレトマレノの宮廷で重要な儀式が行われるというので見学に行った。

 見学者は広く受け入れているようで、宮廷の大広間に大勢集められる。
 そこには舞台が設置してあり、儀式が始まると広間は照明が落とされ真っ暗になった。
 幕が上がると、舞台の中央には何やら大きな物体が鎮座しており、それには壮麗なシルク飾りのついたシーツがかけられているのである。
 物体の両脇に控えていた宮廷の官吏がシーツをさっと取り去ると、そこには巨大な真っ白い肉塊が現れる。
 周囲の見学者らの間に、低くどよめきが広がった。
 後に聞いたところによると、これが女帝サルタマリノンだったのだそうだ。
 それはどこが頭でどこが足なのかも分からないほどぶよぶよに太っており(すべてがおのれの脂肪の中にめり込んでいるのか?)、真っ白い巨大な肉の塊としか呼べないようなものであった。
 つまり、取り去られたシーツは彼女のドレスであり、見たところ彼女はいま真っ裸という事なのだろう。周囲の見学者たちから、闇の中で生唾を飲み込み、熱いため息のもれる様子が聞こえてくるようであった。
 しばらくすると、舞台の袖から薄布をまとった若い男性が歩み出てきて、女帝の前で直立不動の姿勢をとった。
 女帝の体は若者よりも1.5倍ほどの大きさだ。いかに巨大な肉塊なのかというのが伺える。
 彼は女帝の前で何事か一心不乱に口上を述べ始める。儀式的な口上なのか、それとも何か他の言葉なのかは分からない。
 彼はそれが終わると、自分の腰に巻いていた薄布を取り払って全裸になり、大の字になってその肉塊の上に覆いかぶさった。すると彼の体はずぶずぶと女帝の身体の中にめり込んでいき、若者の浅黒い背中のほんの一部のみを残してほぼ全体が肉塊の中に埋まってしまった。
 暗闇の中、周囲の見学者たちが興奮して、静かに熱気が高まっていくのが感じられる。
 肉塊の隙間からわずかに覗く若者の背中が、しばしばぶるぶると振るえ、上下に動き、痙攣のさざなみが通り過ぎると、口の中からスモモの種をぷっと吐き出すかのように、若者が肉塊から吐き出された。
 彼はねっとりとした粘液に全身濡れそぼって力なく床に倒れていたが、すぐ宮廷官吏が彼の両脇を抱えて舞台袖に連れ出してしまった。
 するとしばらくして、次の若者が現れる。この夜、この肉塊は次々に現れる若者の精気を十数人ほど吸いつくした。

 トレトマレノ帝国の男はとても働き者だと言われている。
 彼らはせっせと働き、愛妻にサルタマリノンと同じ体形になってもらうようどんどん食物を運んでくるのである。
 そう言えばこの国では、子供以外に女性の姿を見ないと思っていたのだが、もしかしたら成人女性たちは嫁いだら、家から一歩も外に出なくなるのかもしれない。

◆以上、『幻想旅行記 グランド・ガラバーニュの旅』のスタイルに模してオロカメンが作ったオリジナルのパステーシュ小説でした◆

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 特徴はいくつかある。

 まず、この小説は「物語」という書かれ方がされていないのである。
 どちらかと言えば実際に異国に旅に出た人類学者の旅行記といった体である。

 主人公は時々顔を見せるが、あまり主体的に行動をしない。
 あくまでこの小説の主人公は、その架空の地域にする種族の人びとであり、彼らの生活や文化や習慣を記録するのがこの文章の目的である、といった形なのだ。

 本書の訳者によれば、著者はこの小説を書く前にインド、中国、日本、インドネシアを一年近く旅して『アジアにおける一野蛮人』(1933年)という実際の旅行記として発表しているのだという。
 訳者によると『グランド・ガラバーニュの旅』は、この実際の旅行記である『アジアにおける一野蛮人』と文体が似ているらしい。
この二冊の本を読み合わせると、いずれが現実でいずれが非現実か、その境界が定かでなくなる(本書P.210より)」というほどなのだから、おそらく著者アンリ・ミショーの意図もそこら辺にあったのだろう。

 上のパステーシュ作品をお読みになってもお分かりであろう、この小説は、作者の内面がほとんど明かされていない。第三者的な観察者に徹しているのである。この小説に「内面のドラマ」は、存在しないのだ。

 そこで驚き、どのような事を感じるのかは、読者が主体的に行う事なのである。
 この部族に初めて会う読者が論評を行い、文化人類学的な考察を行う余地を残しているかのように、著者は観察者に徹するのである。

 アンリ・ミショーは20代の頃には水夫となって、世界中を旅し、世界中の国々を見て回った。彼には、架空の国を作ってまで、彼の旅行を続けたかったのかもしれない。
 その印象、その驚き、異世界へ行く事の高揚感。――彼は、自分が旅したアジアの印象を、また別の国で味わいたかったのか。

 実際、この小説を読んでいる読者は、ちょっとした旅行気分を味わう事になるかもしれない。

 現代ではすでに、地球の隅々まで探検され尽くされ、もう未発見の部族や文化など残ってはいないだろう。
 異文化に出会う驚きというものは、既に前世紀に味わいつくされてしまったのかもしれない。

 そこでアンリ・ミショーは未だ発見されていない部族を架空の世界の中に保存し、読者のための探検の余地を残したかったのかもしれない。

 この物語を、異文化見聞録の体裁で自国の文化を風刺する風刺劇と捉えるレビューも見かけたが、そういう意図があるにしては、この小説はあまりに想像力豊かで、ミショーが自らのイマジネーションを楽しんでいるかのようにアイデアの投入の仕方がのびのびとしていると感じるのだ。
 ミショーは単純に、これを書いていて楽しかったのではないか。
 書き方はとても渇いてはいるが、これには「想像する愉しみ」を覚えるのである。だからこそ、その愉しみにあてられて、ぼくも上に挙げたようなパステーシュ作品を捻り出す気になったのだ。

 因みに、本作の後半のほぼ3分の2くらいは上に書いたような形式の、掌編のような短い話が続く掌編集のような形式となる。
 本作はアイデア豊富でお話のバリエ―ションが豊かではあるものの、同じ形式の旅行記録の様な話が渇いた文体で延々と繰り返されるので、さすがに読んでいるとすぐ飽きる(笑)。

 本書は一気に読み通すと、小さな地域をぐるぐるとせわしなく観光して回るような目まぐるしさを感じるのかもしれない。

 どうか読者よ、この旅行記で観光をする時はじっくりと腰を落ちつけて、一つ一つの部族の風習を見ては、その日常生活や歴史背景や宗教や政治に、じっくりと思いをはせてもらいたい。――本書の楽しみ方のコツは、ミショーの書いた文章の裏側に、実際の異民族の生活実態を想像してみる「想像の愉しさ」にあると、そう思うのである。


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