見出し画像

『仮面の告白』ー美意識と矛盾ー

三島由紀夫の自伝的作品にして傑作であるこの『仮面の告白』について、ここで僕なりの言葉で表現していきたいと思う。

この作品はあらゆる意味でセンセーショナルだった。女性に対して不能であることを告白する自伝であり、三島の持つ鋭利な心理分析の刃を徹底して自身へと向ける試みであり、非常に神々しく美しい文体と薄暗い不安定さとを内包した作品である。

美という奴は恐ろしいおっかないもんだよ!つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。(中略)美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。・・・

ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』

『仮面の告白』はドストエーフスキイの代表作『カラマーゾフの兄弟』のこの一節から始まる。この本で貫かれていること。完全に倒錯した三島の美意識。三島が持つ「美」に対するあくなき探究心。そして、最後まで輝きを失わないその圧倒的に美しい文章。

まず言っておきたい。もちろん三島由紀夫の他の数多くの作品にも言えることなのだが、『仮面の告白』は特に、文体が、文章が、本当に本当に美しい。ページをめくる度に、まるで紙面が輝いて見える。字面が浮き上がって見える。感覚的には全く持って嘘ではないそんな実感があった!「文章を心内で読み上げる度に心が震える」そんな体験が初めてであった。そんな衝撃を今でも覚えている。モノ凄いものだった。

そして内容も負けず劣らずショッキングである。三島の幼少期からの美意識や欲望が、とにかく倒錯しまくっているのだ!残念ながら、三島の美意識や性癖の告白ほとんどすべてを、僕は納得することができなかった。でも、それが完全なるフィクションではないこと、まさしくの「リアル」であることは切に伝わってきたのだ。

文芸評論家、本多秋五の言葉を借りると

情理ともに終始一貫して、永くその境に住し、そこから世界をも自分自身をも観察しつづけてきた人でなければ発することのできない響きが、ここに聞こえる。

本多秋五『物語戦後文学史』

湧き上がる同性への欲情と、それを覆い隠す世間での仮面の顔。その境で生きてきた三島の描写には、鬼気迫るものがあった。その鬼気迫るものを僕が全身全霊で受け取る。そんな読書体験だったように思える。

...

さて、僕はこの作品を通じて「美意識」について深く考えるようになった。この作品を読んでいて浮き彫りになったキーワードは「矛盾の内包」である。アンビバレンス。

「アンビバレンス」とは

一人の人間が、相反する感情や態度、評価を同時に抱く心理状態。愛と憎しみ、喜びと悲しみ、引き寄せられる気持ちと遠ざかりたい気持ちなど、このような相反する感情が共存すること。

三島由紀夫の美意識には、まさにこの「矛盾」や「相反したもの」が内包されていた。

例えば、美しいものを得たいという欲望とそれを壊したいという欲望。これまた三島の代表作である『金閣寺』では、そういった美意識に駆られた僧侶が金閣寺に放火する過程が描かれている。

ここで考えたい。このような「アンビバレンス」を、僕たちも少なからず胸中に抱いて生きているのではないだろうか。自分の中での「矛盾」するもの。ある種の「葛藤」である。他人の評価を気にするのは良くないという自身への訓示と、実際に他人から称賛されたい欲求。1人の人を愛し抜きたいという誠実さと、様々な恋愛を経験してみたいという好奇心。ある意味で誠実な一方で、ある意味では誠実でない自分。

全く正反対に思える性質だが、それはどちらも間違いなく同じ自分から出たもの。自分を形成しているかけがえのないもの。そんな実感を伴う「葛藤」を、僕たちは抱いているのではないか。僕はそう確信している。

そしてそんな「葛藤」は、モヤのようなものをもたらす。どちらが本当の自分なんだろう。どちらも否定したくないものであり、かけがえのない自分。でもおかしい。両者は明らかに矛盾している。論理的には両立しえない代物のはずだ。このように、戸惑いにも似た、ある種どうしようもない感情が消えない。

でも、人生を生きている中で、徐々に分かってきたことがある。それは「矛盾こそ人間の本質ではないか」ということだ。

禅宗では、人間の中には「相反するもの」が必ずある、と説く。例えば、利害関係を考える自分と、利害関係を超えたところにこそ真の価値があると考える自分、などである。禅宗では、それを否定するのではなく、自覚し、コントロールしていくことこそ肝要である、と説く。逆にどちらかを否定し抑圧してしまっては、人間関係の中で生きている自分の身を滅ぼしかねない。(利益を得ないことにはこの社会では生きていけないだろう)

このように、人間の中には「矛盾」というものが必ず存在するのではないか。そして更には、この「矛盾」こそ人間の深みの源であるのではないか。この「矛盾」こそ「人間らしさ」を表しているのではないか。「矛盾」こそ、まさにその人間を「愛すべき存在」としうるのではないか。

そういったことを、人生の中で出会う「人」にしろ「コンテンツ」にしろ、様々なものから僕は了解しつつある。

また、この「矛盾」というものは「美しさ」を生み出すエネルギーにもなり得ること。それをまさにこの作品で実感した!三島が抱えていたどうしようもない「アンビバレンス」。自らは男性なのに女性に対して不能であること。自らは社会から決して要請されえない嗜好を有していること。社会への反発を抱いているのに、社会に対して最も従順な役割を演じていること。こういった「矛盾」。やり場のない「アンビバレンス」。それをどうしても外に出さなければいけなかった。この世界に向けて表現しなければいけなかった。自分のために、あるいは世界のために。

このような強大な原動力によって、この作品が生み出された、と僕は感じたのだ。(それは全身で感じるくらいの強烈なものだった!)

自分の中にある「矛盾」。自分の中にある「葛藤」。それと真剣に向き合うことが、僕たち人間にとって本当に大切なことだと思う。

...

そして、その営為には二つの帰結があると思う。一つは仏教的な志向で、その葛藤をありのままに受け入れ、コントロールしていくこと。「おお、自分にはこんな面もあるんだ」とある意味で楽しんでみたり、「はは、やっぱり自分まだまだだな」と冷笑的な皮肉を加えてみたり、という姿勢。

そしてもう一つは芸術的な志向で、その葛藤から生み出されるパワーを「作品」に昇華させること。何かしらのアウトプットとして表現すること。まさに、必要に迫られて表現し、爆発的なインパクトを残す。「芸術は爆発だ」。岡本太郎の言葉もこういった観点から来ているのかもしれない。

岡本太郎『雷神』

もちろん必ずしも爆発的である必要はない。とにかく、僕らが絶対的に抱いている「葛藤」と真剣に向き合い、その帰結を外の世界に向けて表出していくことが大事なのではないか。それこそが僕らの人間生活を豊かにするのではないか。僕は今そのように考えている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「自分の言葉できちんと表現する」
僕はこれから、今まで出会ったモノや読んだ本、考えてきたテーマ、自分の専門分野など様々なものごとを、自分の言葉で表現する習慣を作ろうと思う。真剣に向き合い、自分の言葉で表現し、そして自分自身を見つめていく。そういったことをコツコツと積み重ねていきたいと思う。それを通じて、自分自身の「イズム」的なものを確立することができれば嬉しいなと思う。そして、このアウトプットを通じて、多くの人とインタラクションを交わせたら幸せだなとも思う。

こういった目的で書いています。わざわざ貴重なお時間を割いて読んでいただき心から大感謝です。

Taiki
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー










いいなと思ったら応援しよう!