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自信のない自分を手離す勇気

「今回はたまたまできただけ」
「ラッキーなだけ」


記事を納品するたびに、思っていたことに気がついた。

なんでだろう?

最近は潜在意識に興味があり、自分なりに知見を深めていたので気がつけた。

実際、手を抜いたわけではない。
めちゃくちゃ執筆にコミットした。

なぜなら今週は、ライターを始めて1番チャレンジングな1週間だったからだ。

・インタビュー&執筆納品(3,500文字)×2
・メルマガ(1500文字)×1
・エッセイ?(2000文字)×2

すべて違うジャンルで、インタビューとエッセイは今回初。

6月までは週に1本しか納品物がなかったのを比べると、単純に5倍は働いている

しかも、以下のことも同時並行だった。

  • 息子の謎の蕁麻疹のために病院へ

  • ラボトーク

  • 新規案件の面接

正直頑張ったと思う。

なんなら、この1週間は仕事しかしてない。 

先週の土日は、夫に子どもを託して仕事に没頭した。
睡眠時間も削った。
家事も極力減らした。

それなのになぜ冒頭のような言葉を口にしてしまうのだろう?
こんなにも自分を卑下してしまうのだろう。。

自分をあまり褒めすぎないのが、通例になっている。

もし、友達やライター仲間が落ち込んでいたり、疲れた発言をしていたら、めちゃくちゃプラスの言葉をかける。

あなたはこんなことを頑張ってるよ!
こんな素敵なところがあるから大丈夫!
と背中を押すだろう。

人のことになると、すぐに痛みをキャッチできてフォローできる。

なぜなら、本当に頑張って、努力されてる人ばかりだから。
尊敬する人ばかりだから。
その頑張りに元気をもらってるから。

それなのに、自分になると、、うーん、
わからない

どこまで頑張っても、延々とまだまだ足りない。その繰り返しの人生でした。

周りからの心配の声

周りの方がよく見えていた。

地方公務員を辞めるとき
シンガポールに旅立つとき

先輩や後輩、友達に言われた言葉は共通してた

「頑張りすぎないで」

周りの皆さんの方が、よっぽど冷静だ。 

毎回言われる言葉にピンときてなかった。
正直、またかと流してた(ごめんなさい!)

言われている意味を本当には理解していなかった。今の今まで。

私の理解はこうだ。

みんな、頑張りすぎないでというけれど、私のレベルはたかがしれてる。もっともっと努力しないと、通用はしない。

それと、私ならもっとやれるという自負。
自信はないけど、プライドはある。
これくらいでは喜べない。
もっとできるようになりたいという渇望感もあった。

よりよくなりたいと思う気持ちと、まだまだ足りない気持ちが拮抗していたから、余計に猛進してしまっていた。

そして、そんな切迫感や近視眼的な視野の私を、みなさん心配していたのだろう。

自信がないのは幼少期から

私は物心つくころから、自分に自信がなかった。直接的な理由は分からないけれど、いくつか要因がある。

幼稚園のころ、男の子3人からイジメられていたのだ。昼休みになると、てんとう虫の遊具の中に入ってろ!と言われ隠された。中は空洞で、光が刺さず暗かった。その中をじっとしてしゃがんでいると、暗さが心細さを助長した。

あるいはクラス替えのとき、新しい友達をつくるのが苦手だったことも関係しているだろう。
新しいクラスでは誰に話しかけたらいいのだろう…と考えすぎていて、周りを観察してた。すると、いつの間にかグループ分けされていて、いつも私だけスタートが遅かった。そして、残っていた人と組み、なんだか話が合わなくて気まずかった覚えがある。

人からイジメられ、新しい人間関係を作るのが得意ではないのも、自信のなさを膨らませるには十分な理由だった。

一方で負けず嫌いで、プライドが高いところもあった。特にそれを後押ししたのは姉の存在で、勝手に張り合っていた。

人に見えないところで勉強したり、努力することは私にとって普通だった。

私は頑張っている!
それを人前で示すことは苦手だった。

日本ではそういうアピールをすると浮いてしまうことを察していたので、周りに同調していた。

がむしゃらに勉強していることが、どこか恥ずかしいと思っていたのもある。

カッコつけたかったのもある。

「全然、勉強してないよ!」
友達にはそう言っていた。

でも実は、テスト前日に「見たいテレビがあるから帰る!」と友達との遊びを断って、勉強したこともある。

それくらい、勝ち負けを意識していた。

それでも傷つくことを恐れていたし、怖かった。それは自分のプライドの高さや努力を否定されるのが嫌だったからである。

地方公務員時代も要領が悪く、理解するのに、実行できるのに時間がかかった。
それを克服するため、人の倍は時間を投下することでそれを補っていた。

ズバッと説明できたり、立ち回れる人が心底羨ましかった。


「たまたまできた」というけれど、本当は何度もリライトして、パソコン・携帯・紙と媒体を変えて推敲も重ねた。

タイトルもいくつも考えて、選択肢を示した。自分のできる限りを毎回尽くしている。

これで打ち切られるかもしれない。
お仕事がなくなるかもしれない。
ガッカリされたくない。

そんな想いも抱えている。

周りのマイナスから、私は自分を守りたいのだ。
万が一、本当に失敗したときに、
人から咎められたときに、
ダメージが薄まるように工夫しているのだ。

お前はダメだ、
と言われたら、「ほら言ったとおり、たまたまだったんだ。自分の実力は低いんだ」と思えば、心の傷は最小限に抑えられる。プライドも満たされる。

自分が傷つかないように自分の価値を過小評価して、何かに備えている。

逆にそれが自分を陥れていて、負のループを生んでいるのだ。

でも、実際はよりよい記事にするための妥当なFBである。私を傷つけたくて言っているワケではない。

過小評価からの脱却

過小評価と謙虚さは違う

過小評価は、はなからできていないと断定すること。

謙虚さは冷静な評価を一定程度するけれど、伸びしろに着目して、もっと研鑽を積もうと前向きに思うこと。

この2つには大きな隔たりがある。

そろそろ、自分を過小評価するのをやめにしよう。謙虚であろう。

自分に自信はないけど、私は自分が好きだ。

努力を厭わないこと
怖くても前に進めること
好奇心を伴って行動すること
人に優しくできること
困っている人を見逃せないこと
素直で単純なところ

いいところをたくさんもっているし、周りの人からもありがたいお言葉をいただけている

だから、できない前提のスタンスをやめようと思う。

少しずつ改善できていること、まだまだ改善すべきことがあること
冷静に見ようと思う。

自信がないと甘んじず、
いつ起こるか分からない未来に標準を当てるのではなく、ただ今を冷静に見つめよう。

できたことは褒めてあげよう。
自分の頑張りを認めてあげよう。
自分で自分を大切にしないで、誰が大切にしてくれるのか。

今まで傷つけてきて、逃げてきてごめんね。
これからも一緒に成長していこうね。

ずっと傷ついてきた自分をやっと引き上げられた気がする。

なんだか分からない不安を手離して、私は今を受け入れます。

過去でも未来でもない、ただ今と向き合い、本気で今日できることを考え抜き、実行していこう。

なぜなら、これが私の1回限りの人生だから。

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おーつー(冨田裕子)
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