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本当の意味で「エキセントリック」な人とは 【J・S・ミル『自由論』】

eccentricエキセントリック」という言葉は、「奇矯」「風変わり」という訳語があてられることから、マイナスのイメージをもたれてしまうことも多いでしょう。
J・S・ミルは、『自由論」の中で「エキセントリックな人」について、次のように述べています。

強い性格の人が多かった時はいつでも、奇矯エキセントリックな人も多かった。
社会の中での奇矯な人の多さは、たいていは、社会の中にある天才的才能や知的活力や道徳的勇気の多さに比例していた。

J・S・ミル『自由論』関口正司訳(岩波文庫)P.151

社会において、「天才的な人」というのは、ごく少数であり、大抵の人は「平均的アベレージな人」です。

平均的アベレージでしかない人々からなる大衆の意見が、至るところで支配的な力となっている。あるいはなりつつある時に、そうした傾向と張り合ってそれを是正するのは、卓抜した思想ハイヤーエミネンスを足場としている人々の際立った個性だろう。

J・S・ミル『自由論』関口正司訳(岩波文庫)P.150

平均的な人々アベレージメンは全般的に、知性の点で、人並みであるばかりでなく、好みも人並みである。
彼らは、並外れたことをしたいと思うほど強い好みや願望を持っていない。だから強い好みや願望を持つ人を理解しないし、そうした人をすべて、ふだんから軽蔑している粗野で節度のない連中と同類に見てしまう。

J・S・ミル『自由論』関口正司訳(岩波文庫)P.156

天才たちが、強い性格の持ち主で、束縛を断ちきってしまう場合には、彼らを凡人に引き下ろせなかった社会から狙い撃ちにされて、「乱暴」とか「奇矯」などといった言葉で厳しく警告されることになる。
あたかも、ナイアガラ川に向かって、オランダの運河のように両岸のあいだを穏やかに流れていない、と文句をつけているのと、同じような話である。

J・S・ミル『自由論』関口正司訳(岩波文庫)P.146

世の中を見渡すと、自称「天才」・自称「個性派」という「独りよがりな変わり者」をよく目にします。
人の注目を集めようと必死になるあまり、殊更に奇をてらった行動をしているのですが、彼らの行動が評価されることはほとんどありません。
このような人たちを、本来の意味で「エキセントリック」と呼ぶことはできません。

では、真に「エキセントリック」な人とは、どのような人でしょうか。
本物である彼らには、いくつかの共通した特徴が見られます。

まず、本物の人は、自分のやることを見せびらかしたり、自慢したりしません。
そのような人は、ふだんから当たり前のように努力を重ねており、他人の評価を得ようと、あえて目立つようなこともしません。
しかし、それを5年10年20年と続けているため、いつの間にか世間から評価され、一目置かれる存在となっています。
その頃には、人々から自然と「天才」と呼ばれているでしょう。

もう一つは、先人たちが残した業績や古典を大切にしているということです。
科学の世界では、過去の成功パターンをよく学び、それを参考にすることで、次に進んでいきます。
哲学や文学、音楽や芸術の世界でも、過去の作品に学ぶことなく、自分のひらめきだけで、世に出る人はほとんどいません。
たとえ若くして鮮烈なデビューをしたとしても、そこに至るまでには、先人たちの作品を学ぶために、血の滲むような努力を重ねている場合が多いのです。
そのような基礎や努力なくして、新しい着想やひらめきも生まれることはないでしょう。
たとえ天来のひらめきを受けたとしても、それを表現するための手法や技術を先人たちから学ぶことなくして、作品に仕上げていくことはできません。

人が「素晴らしい」と感じるものは、時代を超越しています。
『古典』がまさにそうでしょう。
そのような人類の財産=『古典』を無視する人に、「天才」と呼ばれる人はいません。
平均的アベレージな「凡人」ほど古典を無視しがちであるという事実に気づくことができれば、それこそが「天才」への第一歩と言えるかもしれません。







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