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一微塵の存在 【「無一物中無尽蔵」に学ぶ】
素紈描かず、意、高きかな
儻し丹青を着ければ
二に落ち来たる
無一物中無尽蔵
花あり月あり楼臺あり
【意訳】
素紈という純白の絹地には無限の可能性がある。
人の意欲次第で高貴高尚な世界を描けるのである。
しかし赤(丹)や青で色を塗ってしまえば、
分別くさい二元的対立の世界に陥ってしまい、
人はああだこうだと批判しだす。
何物もないから万物の蔵する宝庫となる。
花もあれば月も楼台もあり、彩りは自由である。
中国南宋時代の詩人であり政治家でもあった蘇東坡が作ったと伝えられている詩です。
この詩の象徴的な言葉である「無一物中無尽蔵」は茶席でもよく掛け軸として見られるものです。
「無」という言葉に、無限の可能性が感じられるのがわかるでしょう。
一微塵中に於て悉く諸々の世界を見る
「塵一つの中に世界の全てが存在する」という経文には、事事無礙法界のありさまが述べられています。
宇宙=法界は極小にして極大、ミクロコスモスの中にマクロコスモスが映し出されている世界観です。
一塵挙って大切収まり
一花開いて世界起る
【現代語訳】
ひとつの塵が風に舞って挙がる。
その塵の中に大地が収まってしまう。
路傍の草花が一輪開いても、その花の中に全世界をあらわす。
一輪の花を見れば世界の春を知る事ができる。
野辺の名も無き花が一つ咲くことは、全て宇宙的大事象(大事件)であるということです。
よくみれば 薺花さく 垣根かな
芭蕉が程明道の詩句「万物静観皆自得」の気持を詠んだ俳句と言われています。
目の前の垣根で咲いている薺の花は、咲いている場所や周囲の状況について好き嫌いを区別しないで自足自得しています。
全ての人々があらゆる状況について、このような自足自得の境地にいることができれば、それは万物を内包している仏に他なりません。
小さなものを軽く扱うのは俗人のすることです。
物の大小に目を奪われ、見たままの世界だけを判断の拠り所にしているようでは、現象の背後にある「宇宙大の真理」や「大きな動態」を認識することはできません。
ギリシャ哲学的に表現すれば、「『現実態』の中に『理想態』という本質を見る」となるでしょうか。
私たちは、『理想態』が『現実態』の中に刻々と反映されていることは、普段は意識せずに生活しています。
芥子の中に須弥山を容れる
芥子の種は、吹けば飛ぶような小さな塵のようなものです。
その一微塵の中に、須弥山という大きな山を容れることができるという悟りの境地を示しています。
中途半端に科学を学んだ人などは、それは不可能だと思うでしょう。
それこそ、固定観念です。
人間という存在は、大宇宙の中にあっては塵のように極小で何もないようなものです。
また宇宙の誕生からの年月を思えば、人が認識できる範囲に限ってみても、136億年という途方もなく長大な時間の中にいる「ほんの100年」ほどの存在にすぎません。
『無一物中無尽蔵』という言葉を目の前にした時、自分という「一微塵」の中に無尽蔵の可能性があることを思い出させてくれます。
この「一微塵中無尽蔵」という価値観は、自分に大きな勇気を与えてくれる大切なものとなっています。