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自然との触れあい 【H・D・ソロー『森の生活』】

ときどき、自分を他人と比べてみると、自分のほうが神々の寵愛を身に余るほど受けているような気がする。
まるで、同胞がもっていない許可や保証を神々の手から授けられたうえ、特別に指導され、保護されているような気分なのだ。
私は、さびしいと思ったことも、孤独感にさいなまれたこともまったくなかった。

H・D・ソロー著『ウォールデン森の生活(上)』飯田実訳(岩波文庫)

神々に愛されているという実感のある人は、たとえ一人であっても幸せの極致にいます。
真剣に修行する僧侶たちだけが獲得できる「法悦」という神々との一体感がもたらす魂の安寧は、孤独を感じる隙など微塵も与えないことでしょう。
そのような環境にない普通の人たちが、これと同じような境地を感じることができる瞬間と言えば、自然と触れあう環境に身を置くことかもしれません。
人々が都会の喧噪を離れ、野山にキャンプに赴くのも、このような魂の渇望が無意識のうちに働いている可能性があります。
満天の星空のもと、一人で焚き火を眺めている時、ふと魂の奥底に眠っていた太古の記憶が蘇ってくるようなえも言われぬ充実した感覚は、誰しも経験したことがあるのではないでしょうか。

天地の霊妙な力は、じつに広大にして深遠ではないか!
その力は見つめても見えず、耳を澄ましても聞こえない。
事物の本質と一体になっているので、そこから切り離すことができないのだ。(中略)
その力は全宇宙において、人間が心を清め聖化するように、
また、盛装して祖先に犠牲と供物を捧げるようにうながす。
それは霊妙なる叡智の大洋である。
天地の霊力は、われわれの上にも左右にも、あらゆるところに偏在し、
われわれをすっかりとり囲んでいる。

H・D・ソロー著『ウォールデン森の生活(上)』飯田実訳(岩波文庫)

これは四書五経の一つ『中庸』の第16章にある言葉を英訳したものを引用した言葉です。原典をみると、次のようになっています。

子曰、鬼神之為徳、其盛矣乎。
視之而弗見、聴之而弗聞、体物而不可遺、使天下之人、
齋明盛服、以承祭祀、洋洋乎、如在其上、如在其左右。
詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。
夫微之顕、誠之不可掩、如此夫。

【書き下し文】
子曰く、鬼神の徳たる、それ盛んなるかな。
これをれども見えず、これを聴けども聞こえず、物をたいして遺すべからず、天下の人をして
齋明盛服さいめいせいふくしてもって祭祀をうけけしめ、洋々乎ようようことしてその上に在るが如く、その左右に在るが如し。
詩に曰く、神のいたる、はかるべからず、いわんや射るべけんやと。
それけんにして誠のおおうべからざる、かくの如きかな。

【現代語訳】
先生がおっしゃった。鬼神の徳というのは盛大なものだな。
鬼神を見ようとしても形がないので見ることができず、その声を聞こうとしても聞くことができないのだが、全ての物は鬼神によって形態を与えられておりその例外はないのだ。
天下の人を精進潔斎させて礼服を着させて祭祀を行わせるが、鬼神は大きな存在感があるので自分の上にいるような、あるいは左右にいるような感じがしてしまう。
『詩経 大雅・抑』の篇には、鬼神が至るのはいつのことなのか推測することができない、ましてや鬼神を厭ったり無視するようなことはできないと書かれている。
鬼神は微なるものが万物を生成させる顕になったものであり、鬼神の徳である誠は人間が覆い尽くせるものではない、鬼神とはこのようなものなのである。

『大学・中庸』金谷治訳註(岩波文庫)

ソローが書いている「天地の霊妙な力」とは、『中庸』にある「鬼神きしんの徳」を意訳した言葉です。
ここで出てくる「鬼神」とは、何か形をもつ「おにがみ」ではなく、生死を司る神なる働きを表現したものです。
元々、孔子は、『論語』で「子は怪力乱神を語らず」(孔子は、怪しげなこと、力をたのむこと、世を乱すようなこと、鬼神に関することについては語ろうとはしない)と書かれているように、不確かなものについて、弟子たちに語ることはしませんでした。
その孔子が、ここで「鬼神の徳」という言葉を使っているのは、大変に珍しいことです。
かの孔子をして、その霊妙なる力を実感できる瞬間があったからこそ、このような言葉が残っているのでしょう。

自然の中に遍在している生命の世界では、生があれば必ず死が訪れます。

死者は、目覚めたりよみがえったりする見込みが少しでもあるなら、時や場所を選びはしないだろう。

H・D・ソロー著『ウォールデン森の生活(上)』飯田実訳(岩波文庫)

逃れることが出来ない「鬼神の徳」のうち、「死」の存在を常に感じることは重要です。
死神しにがみが実在するものなのかはわかりませんが、自分のすぐ側にいて、生き様を常に観察されていると思いながら日々を過ごすことは、昔から大切な心構えとされてきました。
孔子の後継者である曽子が、臨終の間際に弟子たちに残した言葉があります。

予が足をひらけ、予がを啓け。
詩に云う、
戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷をむが如しと。
いまよりして後、吾まぬかるるかな、小子しょうし

【現代語訳】
夜具をのけて私の足を見よ、手を見よ、どこにも傷はないだろう。
『詩経』小雅小旻にあるように、
親が生んでくれたこの身体を無闇に傷つけることのないように、
これまでの年月、深淵に臨むかのように、
薄氷を踏むかのように注意して、生きてきた。 
今から後はもうそうした心配から解放される。 
そうだろう、君たち。

『論語』金谷治訳註(岩波文庫)

しかし、鬼神の徳は、「いつ大鉈おおなたを振り下ろされて、生命が絶たれてしまうのか」という恐ろしい一面だけではありません。

太陽の輝きや森の中を吹き抜ける涼やかな風、山川を流れる清らかな水など、人を含む万物を育み、生きることの喜びや幸せをもたらしてくれる一面も、確実に存在しています。
森で生活をしていたソローは、それを毎日実感しながら生きていたはずです。

晩秋から冬にかけて、都会にいても、段々と空気が澄んでくるのがわかります。
たまには早起きをして、近くの公園や野山に出かけ、軽く散策する時間を持つことで、「自然は神」であることを肌身で感じることができるでしょう。
あたたかい布団から抜け出すのは、なかなか至難の業ですが、そんな時だからこそ、人気ひとけのない早朝の自然から得られるものは広大無辺であることを知るチャンスと言えるかもしれません。




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