神々に愛されているという実感のある人は、たとえ一人であっても幸せの極致にいます。
真剣に修行する僧侶たちだけが獲得できる「法悦」という神々との一体感がもたらす魂の安寧は、孤独を感じる隙など微塵も与えないことでしょう。
そのような環境にない普通の人たちが、これと同じような境地を感じることができる瞬間と言えば、自然と触れあう環境に身を置くことかもしれません。
人々が都会の喧噪を離れ、野山にキャンプに赴くのも、このような魂の渇望が無意識のうちに働いている可能性があります。
満天の星空のもと、一人で焚き火を眺めている時、ふと魂の奥底に眠っていた太古の記憶が蘇ってくるようなえも言われぬ充実した感覚は、誰しも経験したことがあるのではないでしょうか。
これは四書五経の一つ『中庸』の第16章にある言葉を英訳したものを引用した言葉です。原典をみると、次のようになっています。
ソローが書いている「天地の霊妙な力」とは、『中庸』にある「鬼神の徳」を意訳した言葉です。
ここで出てくる「鬼神」とは、何か形をもつ「おにがみ」ではなく、生死を司る神なる働きを表現したものです。
元々、孔子は、『論語』で「子は怪力乱神を語らず」(孔子は、怪しげなこと、力をたのむこと、世を乱すようなこと、鬼神に関することについては語ろうとはしない)と書かれているように、不確かなものについて、弟子たちに語ることはしませんでした。
その孔子が、ここで「鬼神の徳」という言葉を使っているのは、大変に珍しいことです。
かの孔子をして、その霊妙なる力を実感できる瞬間があったからこそ、このような言葉が残っているのでしょう。
自然の中に遍在している生命の世界では、生があれば必ず死が訪れます。
逃れることが出来ない「鬼神の徳」のうち、「死」の存在を常に感じることは重要です。
死神が実在するものなのかはわかりませんが、自分のすぐ側にいて、生き様を常に観察されていると思いながら日々を過ごすことは、昔から大切な心構えとされてきました。
孔子の後継者である曽子が、臨終の間際に弟子たちに残した言葉があります。
しかし、鬼神の徳は、「いつ大鉈を振り下ろされて、生命が絶たれてしまうのか」という恐ろしい一面だけではありません。
太陽の輝きや森の中を吹き抜ける涼やかな風、山川を流れる清らかな水など、人を含む万物を育み、生きることの喜びや幸せをもたらしてくれる一面も、確実に存在しています。
森で生活をしていたソローは、それを毎日実感しながら生きていたはずです。
晩秋から冬にかけて、都会にいても、段々と空気が澄んでくるのがわかります。
たまには早起きをして、近くの公園や野山に出かけ、軽く散策する時間を持つことで、「自然は神」であることを肌身で感じることができるでしょう。
あたたかい布団から抜け出すのは、なかなか至難の業ですが、そんな時だからこそ、人気のない早朝の自然から得られるものは広大無辺であることを知るチャンスと言えるかもしれません。