人生の主人公となれ 【『臨済録』に学ぶ】
年の暮れ頃、茶室の掛け軸として、よく見られるものです。
この一年、大きな災難などの遭遇することもなく、無事安泰に暮らすことが出来たという感謝の思いと、来年も無事でありますようにという願望の意味を込めて掛けられるのが広く普及したようです。
「無事是貴人」という言葉は、禅の知識などが全く無くても、良い意味を感じることができるため、好んで用いられているのでしょう。
しかし、禅の世界では、全く異なる意味合いをもっています。
「無事」とは、平穏無事や平々凡々たる日常という意味ではありません。
「ただ造作することなかれ」と続いていることからもわかるように、あれこれと心を労し、ただ徒らに善悪、美醜などに右往左往し、怒りや嫉妬、恨み辛みの感情を持ったり、不安な気持ちに苛まれて情緒不安定になったりすることがあってはならないということです。
そのような俗なる人が抱くような人心を無くし、その状態を維持できるようになるのが、修行の眼目と言えます。
どんな環境や境遇にあっても、揺るぎない不動心をもって、日々、霊格の向上や霊的覚醒を心掛けるのが修行者の姿勢なのです。
それでも、ころころと移ろいゆく心の隙を師匠から激しく一喝されるというのが、禅門の厳しさと言えます。
何も無い山の中などで修行するのではなく、日常茶飯、行住坐臥の一瞬一瞬で、自己の本性・霊性・仏性を磨きあげ、光り輝くような存在であり続けるというのは、本当に難しいことでしょう。
これは儒教の言葉ですが、同じことを目指していることがわかります。
環境の奴隷となるな!
どんな時でも周りの環境を支配する主体性をもて!
一人ひとりが人生という舞台の主人公であれ!
このような気骨と根性をもって生きていくことを臨済は教えています。
どんなに困難で苦しい状況にあっても、他人や周りのせいにすることなく、自分の事として雄々しく逞しく乗り越えていく精神性こそが、人として最も貴ばれることと言えるでしょう。
「無事是貴人」の「貴人」とは、このように生きている人のことを指しています。アメリカの思想家エマソンが言っている「自己信頼」の極致と言えるかもしれません。
そのような人であれば、その場、その時、その人なりの本性・霊性・聖性が輝き、いつの間にか、支援や援助、仲間や同志が集まってきて、無理と思っていた困難も乗り越えることができるでしょう。
教育に携わる者として、このような高い精神性を子供たちに教え伝えていくことできるように、自らも精進する日々を過ごしています。