孔子が一番伝えたかったこと 【『論語』に学ぶ】
これは、孔子が弟子の子路に説いた「六言の六蔽」(=六つの言葉の六つの弊害)と言われているものです。
世間では、『論語』と言えば、「仁の書である」という認識ですが、上の一文を見ても、それが浅く不完全な理解であることがわかります。
ここで言っている「蕩」とは、水の流れのように、しまりがなく安直な方向に流れることを表しており、浮気性で移り気で次から次への新しいものに飛びつく節度の無さを言っています。
また、勇猛といっても学問を好まないようでは、それは蛮勇となり、人に迷惑をかけ社会秩序を乱すだけになってしまうと孔子は主張しています。
一般的に言って、「知・仁・勇の三つを兼ね備えた徳の人」=理想的な人とされていますが、孔子はそれだけでは足りないと考えていました。
『論語』では、これらの上をいく「学問の道」こそが大切であるということが説かれているのです。
『論語』に出てくる「仁」とは、「人に優しくすること」ですから、人の道として、「優しさ」こそが大切なものであるという論調が世間では蔓延っていますが、それは一面だけを見た浅はかな理解と言わざるを得ません。
孔子が生きていた「春秋時代」は、乱世の時代です。
臣下が君主を謀殺するという下剋上が幾度となく行われている時代ですので、「優しさ」だけでは、そのような乱れた世の中を渡っていけません。
そんな時代だからこそ、学問のない勇猛は蛮勇であり、乱をおこす元になると言っているのです。
『論語』の中で最も重要視していることは、「学問の道」です。
それ故、第一章「学而第一」において、次のような言葉が記されているのです。
これこそ、十五歳で学問を志した孔子ならではの言葉と言えるでしょう。
興味深いのは、孔子が生きていた数千年も前から、他人に自分を優れていることを見せびらかすために学問をしている人がいたという事実です。
孔子は、このような人たちを痛烈に批判しています。
学問の道は、自己修養の道ということが本質であり、他人から評価され誉められるためにやるのではありません。
これが、先ほどの「人知らずして慍みず、また君子ならずや。」という言葉となっているのです。
「長い年月、たとえ誰からも認められることがなくとも、学問の道に励み、独り修養に努める人こそ、立派な人である」ということが、『論語』精神の本質です。
『中庸』に「君子はその独りを慎しむ」とあるように、自己修養としての学問は、実に孤独な修業です。
「仁」とは、他人に対する優しさであることは間違いありませんが、そこに学問によって自己修養し、精神を鍛え上げたという前提がなければ、単なる愚か者の優しさに終わってしまいます。
学問なき「仁」は、他人を不幸に導くものです。
自己を厳しく鍛錬した人だけが、他人に対して、本当の「仁」を実践できます。
それ故に、「己に克ちて礼に復る(克己復礼)」を「仁」としているのです。
利己的な自分に克つには、学問の道に勤しむ他はありません。
『論語』が言っている「仁」とは、このような厳しい道であることを忘れてはならないのです。
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