獅子と春風 1
己から見たあの兄弟の印象など枚挙に暇がないと言ってしまえばそれまでだった。
口さがなく吹聴する気もないが、だからといって訪ねられて黙るようなことでもなく。付き合い自体は長いのだから何も思わないということの方が寧ろ気味が悪い。では答えればいいと言われたのなら答えるだけなのではあるが、一度考え始めると何かと腑に落ちない感覚が己の中を廻る。
己の気質として他の者たちのようにただ節を折るというのは性に合わない。相手が主君であろうが道理を貫きたい。そういう性分だ。そのせいなのかは分からないが、長く通して己らの関係は不即不離だったように思う。
兄君のほうは深く根を張った稲が与えられた水や肥やしのぶんだけ成長するように涵養された俊彦だがいかんせん狷介で油断ならない性格だ。弟君のほうは兄君と打って変わって駘蕩とした気質で、浮寝鳥のように浪々としているのに胸三寸がどうにもはっきり掴めない。
一見すると気質は真逆でありながら、どちらも到底御しやすい人物とはいえなかった。
例えるならば、あれらは獅子のようで春風のようであった。時に剛毅で、時に闊達、ひいては春霞のようにおいらかになることがある。言いようのない化生をなんと表すのが正しいというのだろうか。
獅子の子は佐保姫と並び足りえるか、春の嵐とともにやってくるのか。
もしかしたらそのどれでもないのかもしれない。しかし、確かなことが一つだけ言える。
春風というのは字面のわりに実に厄介なものだということだ。
一
足利義満が産まれたのは青嵐が過ぎ去り、山々も花緑青に染まるころだった。
幼名は春王と言う。父は初代将軍である足利尊氏の子、義詮。母は側室でもとは侍女で石清水八幡宮の検校善法寺通清の娘、良子である。
春日東洞院にある伊勢貞継の邸でその生を受け、春王が産まれた日は草木も茹だるような暑さが身に入む日だったと貞継が話していたのを義満は覚えていた。
延文三年、祖父の尊氏が春王が産まれるおよそ百日ほど前に齢五十一にして薨じると、父の義詮が征夷大将軍に任ぜられた。その時二十九であった。
二十余年に渡って続いている南北朝の戦いの行方は杳として知れず、翌年十二月に義詮は大軍を率いて東寺や天王寺に出陣し、要請を受けて援兵として参陣した関東管領畠山国清の軍が河内で楠木正儀の軍を破るなど両朝の熾烈な争いが続いていた。しかし、競り合いが起きているのはその両者間だけではなかった。当時足利一門として力を揮っていた仁木義長が執事細川清氏と畠山国清と対立の末に排斥されるということが起こった。さらに清氏が義詮とも対立し失脚すると南朝へと奔った。
康安元年に楠木正儀、細川清氏、石塔頼房率いる南朝の大軍が京へ進撃してくると、義詮率いる北朝軍は後光厳天皇を奉じて近江へと逃れたのだった。
春王は京へと残されることとなったが、すぐに建仁寺、大竜庵、播磨白旗城と転々としながら逃れた。この時春王は四歳であったが、しばらくは白旗城で城主赤松則祐に養育されることとなった。
則祐はかつて後醍醐天皇の皇子で倒幕において功を成した護良親王の麾下だったが、やがて尊氏に仕えるようになり義詮の代になった今でも篤い信任を得ている重臣だった。義満自身は物心つく前のことなど覚えているはずもないため、後から聞いた話ではあったが赤松家の家臣たちが”赤松はやし”で春王の無聊を慰めたり、ある日辱中の午睡から目覚めた春王が則祐に壁間の地蔵尊像が「我汝と永く離れず」と語りかけて来た(霊夢の一種か)と伝えたり、則祐の嫡男——今となっては義満の寵臣でもある義則—―とよくともに遊ぶなど一時の寧静に満ちた日々を送った。
やがて義詮の軍によって南朝軍は放逐され、清氏は阿波に逃れたのちに討たれ、義長らや頼房も幕府に帰順したことによって京に安穏が戻り、春王も戻ってくることとなった。
それから時を経て、春王が七歳の時に三条高倉にある斯波高経の邸で高経の子で管領の義将に伴われて乗馬始の儀を受けた。斯波氏は北条政権時代に足利家氏母の実家である名越流が得宗家に対する叛逆を起こしたことにより家氏が廃嫡、尾張守に補任されたことに始まる。以後、家氏の裔たちは足利宗家に準じる一門として名を連ね、高経も尊氏の下で南朝方との戦で功を挙げたことによって揺るぎない権勢を誇っていた。今となっては傍流だが、かつては嫡流だったこともあり宗家と同格と言っても過言ではないという誇りを持っているためか、義詮が管領職就任を請った時も固辞したようだが、鍾愛する四男の義将を代わりに就けさせてそれを自らが後見する形で承諾したのだ。もとは佐々木道誉が娘婿である氏頼を推挙していたが、それを退けさせたのだ。より愛する息子を優先させたいこともあるだろうが、もともと道誉との折り合いが悪いせいも大きいのだろう。
さりとて未だ十四歳の義将が管領職を一人で遂行できるはずもなく、高経が実質職務のほとんどを代行していた。高経はすでに出家し、道朝と号していたが隠居どころか野心も活力も有り余るほどあると言わんばかりの矍鑠ぶりであった。春王の乗馬始が高経の邸なのもその権勢の誇示のためなのかもしれない。
春王を馬に乗せ、曳くのも高経が行っていたため、義将は実質やることがなくただ傍から見ていることがほとんどであった。義将は己がまだ若いとはいえ、こうなにもかも仕事を奪われては己のいる意味がなくなってしまうと思った。
(これでは管領は儂ではなく父上ではないか)
義将は縁に腰かけて遠目から馬に乗る主君たちを眺めていた。なんとなくあの場にいることにきまりが悪くなって離れこそすれ、己が居心地の悪さを感じるという必要はないのが本来のはずだ。だというのに、眺めている今もどことなく矢も盾もたまらない気持ちに襲われているのはどういうことであろうか。
父のしていることをあげつらう気はない。しかし、ああなにもかも奪われてはこちらも鼻白んでしまう。
(ままならぬものだな)
これが生来の気質なのか、年頃のせいなのかはわからなかった。趨勢を読み取るのは簡単ではないが、きっと父が生きている限りこのままなのだろうと考えたのだ。春隣のやや冷たい風が頬を擽るのを感じて義将は青々とした空を見上げた。
しばらくして、春王が高経と数人の扈従を引き連れて義将の方へとやってきた。春王は義将の前に立つとその目をじっと見つめた。
(何だ…?)
暫し立っても黙っている若君に義将は居た堪れなくなって口を開いた。
「もう終えられましたか。一休みでも…」
「其方、馬となれ」
舌の根も乾かぬうちに春王は言葉を被せた。短い言葉であったが義将は言葉の意図を汲み取ることができず困惑する。
馬、とは?馬ならば其処にあるのに儂に一体何をさせようというのか。
一瞬、心当たりのするものが脳裡に過ったが即座に振り払った。
そもそも、義将と春王がまともに言葉を交わしたのは今日が初めてだった。もちろん、これまで何度か対面したことはあったが挨拶を兼ねた形式的なもので二人きりでいたことも一度もない。一対一での会話はこれが初めてとなるため、春王がどのような童かもわからず、対応に困るというのも異とするに足りないことだ。
すると春王の背後からやって来た高経がわざとらしいくらいに笑って言った。
「よいですなぁ春王様!うちの倅がお相手をいたしますよ!」
義将が高経の言葉に驚いて見上げると、さっきまでの笑みが嘘であるかのように鋭く、まさに”有無は言わせない”と言わんばかりの形相になっていた。若君の手前、義将には拒むという選択はもはや残されていなかった。
この若君を相手にして時は短いが、義将ははっきりと分かったことがあった。
非常に鼻っ柱が強く、わがままだということだ。頑是ない童でありながら傍若の振る舞いを覚えているとも言える。以前から我の強そうな顔立ちをしているとは思っていたが、まさかここまでとは驚いた。
義将は冷たい板敷きの上に四つ這いとなり、その上には春王が乗っていた。
“馬”である。春王が言っていたことはこのことだった。
「おそいぞ!馬ならもっとはやく走れー!」
散々なものだった。早く走れと言われながら腹を蹴られたり、髪を引っ張られたり、烏帽子を掴まれたり、首を絞められたりとやることが無茶苦茶なのだから。義将は四男で一人年の近い弟がいるが、己も弟も幼いころこのようだっただろうかと不思議に思う。
「い、一旦休ませてください」
「またか?さっきも休んだばかりではないか!」
不満そうに口を尖らせる春王を横目に義将は身仕舞いを正して座りなおした。様々な横暴にすっかり尽瘁していた。己より年下とはいえ、若君に文句を言えるはずもなくただ従うしかない有り様に一抹の悔しさを感じる。
「若君、どうです?我が倅の馬は」
義将が乱れた息を整えていると、高経がやって来た。相変わらず見てくれだけは人好きのしそうな笑みを浮かべながら春王の傍に近寄った。
「ちと遅いが…乗り心地は悪うないぞ」
「それは良うございました。また乗りたくなったらいつでも仰ってください」
“今後も我が一族を御贔屓に”という含蓄を携えて父の思惑を感じ取った義将は頭が痛くなった。渦中の若君はもちろん、その真意などわかっていないようでただ満足げに笑っているだけであった。
それからさらに時を少し経て、桜蕊も降り尽き、風も薫り始めたころに春王の母、良子がまた一人男子を産んだ。後に満詮と名乗る弟の乙若である。
義満は乙若を初めて見た日のことを今となってもなお鮮明に覚えている。円らな線を描いた顔はふくふくとしていてまるで餅のように柔く心地の良いものだった。母に「あなたにそっくりですよ」と言われたものの、嬰児の顔の区別もよくわからない春王にとってはそうなのか?と首を傾げるばかりであったがそれでも母を同じくする弟の誕生ということもあって喜びもひとしおであった。
「この子が大きくなれば、きっとあなたの助けとなるでしょう」
「乙若が?」
「ええ。だからあなたは兄として、この子を守ってあげるのですよ」
淑やかに微笑む良子の腕(かいな)の中で幸せそうに眠る赤子。陽だまりに落ちた花影と澄清を切り取ったような光に包まれる生母の姿がいつまでも目に焼きついている。
穏やかな風が吹き抜ける。夏はすぐそこまで来ていた。
二
貞治六年の師走、春王の父義詮が薨じた。
その二月前に病臥したため、当時讃岐にいた細川右馬頭頼之を呼び寄せ上洛させた。
道誉や赤松、鎌倉公方で義詮の弟である基氏の推挙によって管領へと就任するためである。高経と義将はというと、その一年ほど前に高経の失策と道誉中心の反対派閥による讒訴によって失脚し、越前へと逼塞したのだった。その後義詮は管領を置かずの執政であったが、まだ幼い春王の補佐として頼之を選んだ。
春王は義詮の今際の時に枕元に呼ばれ三献祝着を行ったのちに剣を与えられ、継承の儀を終えたが、二豎に蝕まれた父の顔はこんなものだったろうかと思ったことを覚えていた。病のせいで顔がやつれていたせいという意味ではない。そもそも春王は父の顔をちゃんと見たことがなかったのだ。短い間だがともに過ごしたことはあった。しかしそれも本当にほんの少しで、春王が義詮に父親らしいことをしてもらったことなど数えるほどしかなかった。義満が後から思うのは、つまり己は”父への愛着が薄い”ということだ。義詮が一体どれほど春王のことを想っていたのかは今となっては考えようもない。頼之を呼び寄せたことも将軍家の継嗣として今後の展望を期待していたのは確かだ。しかし、春王自身に対するものとして何かがあったのかという問いに対して明確な答えは出せなかった。
そして年が明け、応安元年冬。
三条坊門の御所に突如として幼子の泣き声が甲走った。御所中に響いたと思わんばかりの声に一角で政務をしていた頼之は筆を止めて反射的に耳を塞いだ。
もう今日何度目かわからない泣き声だ。いつものことかと頼之は嘆息しながら眉間に皺を寄せた。
声の主は今年五歳となる乙若であった。乙若はひとかど癇が強く、一度泣き出すと乳母や女房の手に負えなくなる有り様だった。生母である良子のもとを離れ、日中は御所で過ごすことが多いため乙若の泣き声が響くのは今となっては日常茶飯事と化していた。
乙若が癇が強いわけは生まれつきのものである以外にもう一つあった。
「春王さま、何をされているのですか!!」
冬の風を遮るために蔀の下ろされた部屋の中に今度は女房の声が響き渡った。部屋の真ん中には二人の童、春王と乙若だった。春王の手は乙若の頬を引っ張っており、当の乙若は大粒の涙を流しながらわあわあと泣き喚いていた。
春王は一月ほど前に微恙で臥せっていた。風気のようなもので大事には至らなかったが、先代が薨じたばかりで今後元服と将軍宣下を控えているということもあり、御所内の空気は緊張し実相院の覚雄、増仁に平癒のための祈祷をさせた。祈祷の甲斐あってのことかはわからないが、春王は無事に恢復したがそれ以来乙若を泣かせることが増えていた。以前から苛めて泣かせることがたまにあったが、病にかかってさらに増長されたようだった。もう元服前だというのに、春王はいつまでも童のままだった。女房たちが注意しようにも春王は聞き耳持たず、乙若もなかなか泣き止まないため日々どうすることもできず疲弊するばかりであった。
乙若の傍で女房がおろおろと見回していると、廊から大きな足音がした。その堂々とした足音の主はこの御所内で一人しかいなかった。
「乙若様の泣き声は今日も元気はつらつですなぁ!」
先刻までの空気を打ち壊すごとく現れたのは佐々木道誉だった。尊氏、義詮に渡って仕え、幕府の重鎮としても目されるこの功臣はある意味老獪で強かな男でもあった。今は息子の高秀に家督を継がせ隠居している身のはずだか、ちょくちょく御所に用向きと称して参上するのが毎度のことだった。齢七十を超えていながら歳を考えさせないほど内面は若々しいところがある。
道誉は春王と乙若の前に膝を着くと、目線を合わせた。
「春王様はずいぶん乙若様のことが気になるようですな。これはまことに弟君のことが好きと見た」
ハハハと笑う道誉の言葉に春王は図星ではあったが、素直になれない童心からか頷くことはせず俯いて黙っているだけであった。
「良い良い。興味がないよりも興味を持ってちょっかい出しているほうが兄弟らしいもの。仲良きことは良いことじゃ」
道誉は今度は一旦落ち着き、しゃくり上げている乙若に向き直った。道誉は豪快で覇気があるが、人に威圧感を与えるような気風ではなく春王と乙若に対しては好々爺ともいえるところがあった。
「乙若様は兄君から嫌われているとお思いかもしれんがそうではないのですよ。ただのやきもちでしょう」
道誉は春王を見て「な、春王様?」と問いかけた。春王なりに恥ずかしさのようなものを感じたのか、顔を上げて乙若にばつの悪そうな視線を送った。
「…余はうらやましい。乙若が」
「ほうほう」
「乙若は母上と暮らしておる。でも余はちがう。余は母上とは滅多に会えんのに、乙若は毎日母上に会える。だというのにいつも泣きわめいてばかりで…腹が立つのじゃ」
「最近ずっと泣かせてばかりだったのもこの前の御病気のせいですかな」
病に臥せったことで不安な気持ちがますます大きくなったのかもしれないと道誉は察した。弟を愛しく思う気持ちど同時に昔からあった小さな嫉妬の念が今になって発現したのだと考えた。本当にどこまでも童らしい、いわけない心根だった。
春王の目は今にも涙が出そうなほどに潤んでおりぐっと我慢しているようだった。道誉は春王と乙若を引き寄せると思いきり抱き締めた。強い力に春王は思わず眉を顰めた。
「ご両人よ、これから道誉が言う言葉、よく覚えておられよ」
道誉は二人の目を交互に見て落ち着いた声色で話し始めた。
「貴方がたのお祖父様とその弟御である大叔父様はかつて相睦まじかったが訳あって対立することとなり、終いまでその仲を修復することはできなかった。そして、お父上とその伯父御も激しく争うこととなり、またしても相容れることはありませんでした」
二人の祖父と大叔父である尊氏と直義、そして父親とその庶兄である直冬のことだ。道誉は彼らの熾烈な争いを見ていたからこそ、兄弟間で対立することの惨たらしさをよく知っていた。
「兄弟とはいえ余人。考えが違うこともあれば、上手く伝わらず衝突することも譲れんことがあって当然よ。しかし、血を分けた兄弟だからこそ心強い同志となるのもまた必定。何者にも代えられぬ存在なのです」
春王は道誉の言葉に口を挟むことなく自然と黙っていた。乙若も涙はとうに止まっていたようだった。
「春王様。弟は宝ぞ。今は弟君を羨ましく思うかもしれぬがやがて貴方の助けとなりましょうや。いついかなる時も弟君を案じ、守ってあげてください」
「余が…乙若を?」
「ええ。春王様は乙若様のことが好きでしょう?」
春王は視線を右往左往させて暫し黙った後、少々気恥ずかしそうに「うん」と答えた。
「では、大人になった後もずっとその気持ちを忘れぬことです」
道誉にまっすぐな目で言われ、春王は不思議な気持ちになった。
この先の己がどうなっているのか想像することはできなかったが乙若はどうなっていって、どのような関係でいられるのだろうと考えた。乙若がどんな人間になったとしても己は乙若を守り、愛してやれるだろうかと思った。
「乙若様。兄は鑑ぞ。何があろうと兄を敬い支え、尽くすのです。きっと春王様が大きくなり大君となった後もこの方に従って間違いはないでしょうから」
普段泣く以外で声を発することのない乙若がなにか言葉を紡ぎたそうに口を動かしたが、やっとのことでうんと小さな声で頷くとそれきりであった。
しかし乙若の顔は珍しく満足げであった。まだ分別もつかない童ではあるが、道誉の言葉には思うところがあったのかもしれない。幼心ながら己が大きくなった姿を夢想して柔らかに微笑みがこぼれた。
春王と乙若は、道誉の腕に抱かれながら銘々に異なることを考えていた。
「佐々木殿」
道誉が二人の許を辞すると、突然後ろから声がかかった。
「これはこれは、細川局殿」
そこにいたのは頼之の妻で今は春王の乳母である有子だった。頼之とは歳の離れた若妻だったが仲睦まじく、春王からも慕われていた。
「もしかしてずっと聞いておりましたな」
「…わかりましたか」
有子は袿を胸元に引き合わせて困ったように笑った。この乳母は養君を慈しむ心が深い故に春王と乙若のこともずっと気にかけていたようだが、上手く干渉できていなかったのだ。
「佐々木殿、ありがとうございました」
「なんのことかな?」
「春王様と乙若様のことです。恥ずかしながら、私は春王様の乳母でありながらどう致すべきなのか困っていましたから。情けないことではありますがまことに助かりました」
「お二人のことで思うことがあったのは儂も同じ。それにこれからの将軍家のことを考えれば、あの兄弟に説くべきことは数多ありますからな。儂はそのうちの一つを教えたまでよ」
そう言い立ち去る道誉の背に有子は言葉をかけた。
「それは、あのお二人に等持院様や宝筐院様のようになってほしくないという気持ちもあるのでしょう?」
道誉は足を止めて振り向くと莞爾と笑うだけだった。立ち去ったその背中に有子は本当に不思議な御方だと思った。
同年四月十五日、春王は十一歳で元服を迎えた。
松唐草の白狩衣と紫指貫袴を着用して出御し、加冠の座にて頼之が烏帽子親となり、理髪を頼之の従弟である業氏が努めた。この日の元服の儀については新君の首途ということもあり、盛大に行われた。切り落とした髪を収める打乱箱は唐渡のもので、菊や貝の蒔絵が施されており、内側には錦が張られている。笄は鹿角製、白絹の手巾、泔坏は唐花鳥が彫られた銀器で掌燈には白木に松鶴が描かれているなど趣向を凝らした尤物を沢山用意していた。
春王の元服の儀は厳粛に執り行われ、頼之はこの前後に右馬頭から従四位下武蔵守へと任官された。
諱においてはこれより前に主上より宸筆で義満という名を賜っていたため、これを機に春王は”足利義満”となった。
さらに同年の年末、小除目において左馬頭だった義満がついに征夷大将軍に任命されることとなる。その時にはすでに義詮の死から一年を迎えていた。
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