小説を書く。

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最近の記事

獅子と春風 2

三 雨注ぎの響きに耳を澄ますと、外がうんと遠いところにあるような感覚に陥った。庇から垂れ落ちる雨粒が地面に打ち付けられているのを眺めながら義満は物思いに耽ていた。 永和三年、義満はニ十歳となった。去年、己より年嵩の公家の姫、日野業子を娶り子もできたが、産まれたのは女子。しかも産まれてすぐ夭折してしまうという有り様だった。この時代、産まれた子がすぐ死んでしまうというのは珍しいことではない。わずかに生まれた焦りの感情を抑えて、また出来る。お前が己を責める必要はないと妻を諭した

    • 獅子と春風 1

       己から見たあの兄弟の印象など枚挙に暇がないと言ってしまえばそれまでだった。 口さがなく吹聴する気もないが、だからといって訪ねられて黙るようなことでもなく。付き合い自体は長いのだから何も思わないということの方が寧ろ気味が悪い。では答えればいいと言われたのなら答えるだけなのではあるが、一度考え始めると何かと腑に落ちない感覚が己の中を廻る。 己の気質として他の者たちのようにただ節を折るというのは性に合わない。相手が主君であろうが道理を貫きたい。そういう性分だ。そのせいなのかは

      • 山眠る 2

         私は夢を見ていた。 なぜ夢を見ているとわかっているのか、わかっていて覚めないのか、いったいどういう状況なのかはわからなかった。しかし過去の夢を見ているということだけがわかった。 これはいつごろの記憶だろうか。卯月に入ったばかりのまだまだ肌寒い東雲だ。あたりはまだ薄暗く一番高いところ、瑠璃色の海に月の舟が浮かんでいた。私の屋敷から"私"と"彼"が物音立てずに忍び足で出ていくのが見えた。二人は外套を羽織っていて、使用人や家族に気づかれないようにこっそりと抜け出したということが

        • 山眠る 1

          人の命とはゆるやかに消えて行くものである。 死期が近づいていると気づいたその玉響にはもうすでに物言わぬ骸と化している。 "彼"もあっという間に死んでしまった。"彼"は労咳だった。発症してからほんの数か月で病という名の魑魅はいともたやすく"彼"を死の淵に引きずり込んだのだ。 いつだったか、"彼"の弟は"彼"を山のようだと言った。暖かな光がさして様々な植物が芽吹き、常に美しい緑青に彩られている姿はまさにいつも浮かべていた日輪草のような愛しき笑みのようで。常にそこに在る山々の

          自由からの逃走 3

          或る日、訓練闘技場に現れたのは意外にもヴァレンタインだった。 いつものように教官の指導の下、訓練していればいつもと変わらない様子で突然やって来たのでフリストフォールは少しばかり驚いた。 ヴァレンタインの表情とわざわざこの場に足を運んだということは何か要件があるのだろうと思いはしたが、確信は得られない。 「やあ、訓練はどうだい。順調かな」 広大な訓練場にヴァレンタインの声が反響する。フリストフォールはヴァレンタインの白衣の白と壁の大理石の白が混ざって、そこに意識が

          自由からの逃走 3

          自由からの逃走 2

           “妖魅”という名の実験の被験者としてこの『サルバトーレ』ロンドン支部に来てから約半月が経過した。 ヴァレンタインの言っていた通り、”青年”の血管が透けそうなほど青白かった肌は今ではすっかり健康的な色味を出しており、あれから肉体が自分のものではないかのような妙な浮遊感もなく”魂”が日に日に肉体に順応しているという実感を増幅させている。 そして、”青年”はここで過ごしていくうちに『サルバトーレ』という組織のことが片鱗でも理解できたような気がした。(目にしているものは組織

          自由からの逃走 2

          碧い瞳は美男の証 3

           敷布を交換し簡単に掃除をして、残りは明日やろうと思ってフィリックスは寝床に入った。その夜、フィリックスは奇妙な夢を見た。何故だか知らないが、フィリックスは今自分が見ているものが現実のものではなく”夢の中のもの”だと気づいた。元来、夢は夢だと認識できないのが常だがフィリックスは気づいたら”いま自分は夢を見ている”のだと気づいたのだった。  靄がかかったようなぼんやりとした意識の中で最初に現れたのは綾羅錦繍と煌びやかな宝石を全身に纏った王様(ラジャ)だった。密陀僧色の衣裳を身

          碧い瞳は美男の証 3

          碧い瞳は美男の証 2

          「ここはなにかの店?」  「どうしてそう思ったんだい」 「家の広さのわりに色んな食器があるし、そもそも玄関に<Blue Eyes>と<CLOSE>っていうプレートがあったから」 「何だ、見ていたのか」 その口ぶりに自分がまるでそんなことにも気づかないような間抜けだと思われていたような気がしてフィリックスは思い切り眉間に皺を寄せた。 フィリックスはしばらく黙考したのちに意を決して男に切り出すことにした。 「あの、ぼくをここで雇ってくれませんか?」  そう

          碧い瞳は美男の証 2

          碧い瞳は美男の証 1

           此世は至極理不尽にして不合理な事柄が横溢している。 真善美から悖り、寥落し猖獗をきわめたこの世から人々に見隠されるのは殺人と尾籠な享楽と不貞と怪異で或る。 怪奇とは彼世の此世の境に住い、精神世界を人の眸に見える”形”となって顕現し、夙に時運などものともせずに善悪の境を乱し、人を悪辣と耽溺へ誘うことは異とするに足りん。  就中、此の街で人々に邪な甘言を囁くのは”碧眼の怪物”であった。 碧い眸とは古来より呪いを持つことがあると傳えられてきたが、とかく碧眼は人を魅了

          碧い瞳は美男の証 1

          自由からの逃走(試作)

           何もない空間がそこに広がっていた。 そこが何なのか、何があるのかもすべてわからなかった。ぼやけていた視界がピントを合わせると乳白色の空白が広がっていることだけがわかった。 一点を見つめていると体が浮遊しているような、肉体がそこから離れているような気がした。魂だけが離れてそこらじゅうを彷徨っているような、そんな気がするのだ。しだいに、靄が晴れていくように思考が明瞭になった。肉体から離れていた魂が宿主に帰り、その魂が最初からそこにあったように合致する。 ここはどこなのだろう

          自由からの逃走(試作)