泡沫のような出会いと、詩情-『ノマドランド』
『ノマドランド』を観た。ほんとうによかった。けど、実際のところは「しまった、もっと歳を重ねてから観ればよかった!」と思ったのだ。この映画が、行き着くところまで行き着いてしまった人たちの物語であるだけに、齢を重ねた分だけ心に響くだろう。僕はまだ18歳で、これから色んなことを経験しながら、時間が進む中を生きていくに違いない。まだこれっぽっちしか人生を生きていないのに、この映画の醍醐味を味わい尽くせたとは全く思えない。だけど、今、感じられる分だけを感じて、かなりの時間を経てこの映画と出会い直せたら。
see you down the road.
僕の頭の中で、このフレーズが鳴り止まない。
この先は映画のネタバレを含みます。
あらすじ
主人公ファーンは、ネバダ州の”エンパイア”という企業城下町に住んでいたが、リーマンショックの影響で、町から立ち退く事になる。車上生活者となったファーンは、なんとか働きながらその日暮らしを続ける。ファーンはそのうち、仕事仲間の誘いでノマド(直訳で放浪民。映画では車上生活者と重ねて指している。)たちを支援するコミュニティに参加したりして、職場を転々とし、エンパイアからは遠い地方を目指すようになる。その旅の中で、ファーンが多くの人と出会っては別れ、過ごした時間が思い出となっていく様子を、美しい風景映像と共に刻んだロードムービー。
この映画を観終わって初めて抱いたのは、「詩のような映画だった」という感想だ。というか、この映画において、詩自体がかなり大きく作用している。ファーンが、知り合いの娘に『マクベス』の一節を読ませるシーンだとか、出会った若者に詩を朗読して聞かせるシーンだとか。
しかし、映画全体から詩的な雰囲気を感じるのはきっと、物語や映像にメタファーが散りばめられているからだろう。例えば、ファーンの同僚が「昔、崖の下の窪みにあった大量の巣の周りを、たくさんのツバメが飛び回っていたのを見たの」とファーンに語るシーン。ツバメが、“自由で、季節ごとに訪れる”車上生活者のメタファーとして描き出されているように思える。そして、高齢な同僚が、思い出の地へと再び戻って大量のツバメを撮影した動画が、ファーンに送られてくるシーン。ここでは、同僚が抱くノスタルジックな感情と同時に、車上生活者たちの生命力をも重ねて感じられる。
また、美しい風景が、ファーンの心情や状況とも重なり合う。なんといっても、この映画の魅力の一つは映像美にある。そして、神話的な、風景と登場人物の状況の重なりが、物語展開に大きく寄与している。
こういった風に、物語の随所で、カットとカットが静かに重なる瞬間がとても多い。それも、シーン同士の関係性は、“伏線”と呼ばれるような、押し出したい主張に確実に導くためのトラップとして存在してはいない。観ている側が見出そうとするときだけ見出せるものとして存在している。
詩において行間を読むように、観客がシーン同士を重ね合わせた時に、この映画は、一つのシーンを物語全体の象徴のように感じさせ、同時性を抱かせる。そして、ひとりの人間の背後に多くの人間を投影させる。
ファーンは、旅の途中で多くの人と出会ってはまた別れ、時間がどんどん過ぎてゆくのを実感している。しかし、ファーンは、どれだけ人に土地に留まるように誘われても抜け出してしまう。その理由は、先に死んでしまった夫や、夫の残したエンパイアの町をいつまでも想って生活しているからだ。キャンピングカーの中で、カメラのフィルムを覗き込んで、自身の幼少期の写真を見返すこと。父親や夫からの贈り物を何よりも大切にすること。ボロボロのキャンピングカーが壊れても、新車は買わず、修理に頑なにこだわること。
ファーンのアンビバレントな姿勢が一番感じられるのは、ファーンが昔の知り合いの娘に『マクベス』の詩を暗唱させるシーンだ。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
明日も、明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
ウィリアム・シェイクスピア/松岡和子訳『マクベス』
この詩では、昨日を想うノスタルジーな心持ちが“死への道を照らしてきた”、“束の間の灯火”として表現され、明日への意志を謳っている。しかし、実際はファーンが一番過去に囚われ続けているのだ。今や“束の間の灯火”に照らされて生きるファーンが、未来ある教え子にこの詩を暗唱させているシーンを思い出すだけで、喉をぐっと詰まらせるものがある。
泡沫のように現れては消えていく出会い。“今”はすぐに“過去”となり、思い出となっていく。しかし、ファーンは確かに“今”を生きているのだ。また一つの土地に留まることで、過ぎてゆくはずの時間が“思い出”として固定されることを意識すること。それが、ファーンにとって一番の苦痛だったのではないか。エンパイアで過ごした数十年間が、頭から離れないように。だからファーンは、姉やデイブの誘いを押し切り、ひとりでいつづけても、ノマドとして生活する。過ぎてゆく時間を生きてゆくには、“エンパイアで過ごした時間”という思い出を灯火にして、道を歩み続けることが必要だったのだろう。
結局ファーンは、同僚とも、コミュニティの仲間とも、姉とも、パートナーにもなれそうだったデイブとも別れ、彼女は孤独であることを意識せざるを得ない。しかし、孤独なはずのファーンは、ゆるやかに人と関わりながら生き続けようとしている。いわば、人間関係の“浅瀬”で足を浸らせた状態で。ファーンは、自分がどこまでも孤独であることを知りながら、コミュニティに参加したり、同僚と助け合ったりしていて、決して孤独に身を置ききってはいないのだ。僕は、そこに彼女のしたたかさを感じた(そして、主演のフランシス・マクドーマンドの演技の魅力も)。
現代における強さとは、“友情・努力・勝利”でも、一匹狼的な存在でもない。それは、「自分は孤独である」のを知っていることなのだと思う。そして、それでも他者と共に生き続けようという意志を持つことだと思う。
ここで言う“他者”とは、単に人間だけを指すのではない。自分以外の存在全てである。他人も、ハンバーガーも、アルバイトという概念も、石も、焚き火も、ツバメも。そもそも、ある有機物に触れたり、意識すること自体が他者と関わることだ。それを作った人間、何者かに関わることと同義だから。
映画の終盤、ファーンは数年ぶりに、エンパイアの自分の社宅へと帰ることになる。ここで、物語は円環のような形に帰着する。始まりは終わりに行きつき、終わりは始まりに戻る。大抵が高齢者で、何かしら過去に囚われ続けていた路上生活者たちが、戻るべき場所に戻る構図が複数のカットを通して、重なるように描かれる。ファーンの同僚は、昔見たツバメたちに会うことで、過去へと還る。デイブは、一緒に暮らしていた家族の下に帰る。そして、ファーンも、エンパイアに帰り、エンドロールとなる。
自身の思い出へと還った彼女たちの姿が、「“今”を生きるとはどういうことなのか」「思い出はいつ思い出になるのか」と、僕らに静かに問いかける。
多くのカットに散りばめられたメタファー、全体を通して活きる詩の引用、詩的な物語構造、ファーンの心情と自然に重なり合う風景美、ピアノで彩られた映画音楽、静かで動的な映像、そしてフランシス・マクドーマンドのしたたかな演技。すべてが重なりあって、ノスタルジックなのに、明日の方向を見据えているような、不思議な詩的世界を作り出している。
もちろん、直接的ではない表現の仕方で浮き彫りにされる、現代社会の構図も見どころだった。ノマドが白人ばかりであることは、黒人や社会的少数者は犯罪者予備軍として不審がられるのでノマドとして生きてはいけないという、構造的差別を逆説的に描いている。ギリギリの状況で「ノマドとして生きる」という選択ができるのも、白人にだけ許された特権なのだ。また、ファーンが周期的にアマゾンで働くことに関する社会構造も、年金についての問題も、静かに、しかしはっきりと問題として意識させられる。
ノマドランドが描き出す社会構造についての部分は、町山智浩の評論動画の方が詳しいのでオススメ。
そういえば、この映画を観ていて「空の怪物アグイー」という小説の一節を思い出した。この小説も、過去を生きる、今を生きるとはどういうことなのかを考えさせられる短編だ。アルバイトの“僕”が、ある有名な大音楽家を介護する話。この大音楽家は、小さい息子を亡くしてから、空中を漂っている奇妙な幻影に囚われ続けている。その幻影が、音楽家の亡くした息子に重なるというのが、この小説のキーポイントだ。
「きみはまだ若いからこの現実世界で見喪って、それをいつまでも忘れることができず、それの欠落の感情とともに生きているという、そういうものをなくしたことはないだろう?まだ、きみにとって空の、百メートルほどの高みは、単なる空にすぎないだろう?しかしそれは、今のところ空虚な倉庫ということにすぎないんだ。それとも、今までなにか大切なものをなくしたかね?」
大江健三郎「空の怪物アグイー」
今を生きるとは、どういうことなのだろう。その問いの反響が、今を存在させているのだろうか。