ガス抜記。
お口から出た言葉のどれが真実に近くて、どれが取り繕うために縫い合わされた言葉なのか。自分へ向けられた言葉もそうだけれど、他人の対話を聞いたりする上で探りながら聞いてみると、どれくらい諦めが混じったメッセージなのだろうと、一歩下がった状態で冷静に掬い上げようとすることができる気がした。それでも掬い上げた意図は水のようにさらさら落ちてしまう。たとえ落ちてしまわなくとも虚像の塊、その人の別人格を作っただけに過ぎないのではないか。
だから私は「誰か」である貴方に虚像を握って欲しくなくて、こうして書いてみたり絵で描いてみたり、脱いでみたりするのだけれど、人間とは厄介でもどかしいものですね。私を知るどの人間を見ても、その手にはやはり「私ではない私」の影が見える。
「これが私だ」と言い続けて闊歩することは難しく、肩がぶつからないように姿勢を変えたり歩く速度を変えたりしなくてはいけない。けれども、空気を読む為、と大人ぶっていても格好悪く映るだけだとも知っている。知っているのに、空気を読まないといけない、と察知してしまうこの身体は間違いなく触角塗れで育った果ての人間。
社交の場に限った話ではない。身近な人への声も表情も、それぞれ多面的な顔を持っているし、相手の多面的な顔もほんの一部しか知らないでいる。これは「そういうものだよ」と片付けられてしまうのが悲しい。誰もが人前では「自分が思う自分らしさ」を魅せていないのかしら。疑問は果てのない洞窟だ。
テレビに映るあの人は、己に生えた触角の騙し方が上手いのかもしれない。騙し騙しの中に、これだけは譲れないという芯だけは露呈するように日々を生きている。
器用な妄想が捗るばかりで、私は己の芯が宿る心の五臓六腑を手探りできないでいるのが上記に刻まれてしまっていて遡れない。けれどこうして吐き出し書いていなくては頭が警報を赤く光らせてパンクしてしまうので仕方がない。
ここまで書いた今、思いついてしまった「ガス抜記」という題名がお恥ずかしくてたまらないけれど、書いてしまったものは仕様がない。消せないペンで書いてしまったと思っておこう。どんなに親密な関係でも人前でおならはしない人間ですけれど、せめて読者の前では私らしいガス抜きをさせていただきたく...。
人と関わることで、人の営みを見ることで物を書くというのに、極度に他人に敏感すぎて哲学という名のストレスが溜まりすぎてしまう。自分の触角の長さすら把握できていないらしい。
他人の言葉へ抱く「それは言葉通りの意味?それとも遠回しに何かを伝えようとしてるの?それは本心?であるなら貴方はそういうことが平気で言えてしまう人なの?それとも冗談も混じっているの?」が毎日一人ひとりに対して脳内を駆け巡るので、もし私の頭に最新型のスマホが埋め込まれていたとしても処理が追いつかないんじゃないかしら。
「そんなに細かく考えてたら疲れるでしょ」
いつの日だったか、母に話したときに返ってきた言葉。もちろん疲れないわけがない。疲れるけれど、切り離せない身体のように私はこんな私と付き合っていかなくてはいけないし、こんな性格だからこそ良かったこともある。純文学を好きになったのも、自分の言葉を書いてみたいと思えたのも、発端はそこにあるのだから。時間は様々な傷跡を治癒するだけでなく、糧になることもあると教えてくれた。
テッシュをばら撒くみたいに無我夢中で書いている時は、何年振り返っても真っ暗な場所だった。自室の明かりを点けない夜。田んぼに挟まれた夜道。あともう一つ多いのが、おトイレに座っている時だった。昨夜の私を思い出したのだ。壁にお尻をつけるように三角座りで膝を抱えながら書いていた。空腹も明日も忘れるほど、生まれ羅列されていく文字だけを見つめて。視界も音も無駄な情報は遮断して文字だけを往復するように追っていく瞬間が、触角を安らかに脱力させられる時間。いや、もう少し広く言えるかもしれない。紙の上だ。絵もそうだった。今(2024/11/3/13:48)目の前にある自分自身のヌードをデッサンした絵が囁いてくれた。声で言葉を使おうとするのは向いていないけれど、紙の上では言葉も絵も舞い踊るように、私が私に対して無敵になれる。怯えるな、という声さえない。
レースカーテン越しに突き抜けてくる青、ではなく、青をシミにしない自室の白い壁を見て、もう一度視線を下げると裸の自分がモノクロで確かにここに存在している。私がどう生きているかをお日様に見られてしまった気がする。