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「小説」が私の名刺。
青い女の人が私だけを知っている。
実際それは妖怪みたいに真っ青な女がいるわけではない。両手を胸に添え、首だけを捻って右を見ている女性が一人。背景は海だけが光っている。そんな写真が紺色の額縁にあるので、頭の中にある店内の景色を思い浮かべた時に、ぼんやり青く、ただしっかりと、看板の如くこちらを向いている。
ロマン亭。
常連客の風貌でそこへ足を運ぶくせに、毎回数ヶ月経っているので、マスターからすれば常連でもなければ、覚えてさえいない。けれど「常連」だと声にする人間は大体こんなもの。
初めてこの喫茶店へ訪れたとき私は、机に原稿用紙を広げ万年筆を握っていた。
「小説家さんなんですか?」
「いえ、趣味なんです」
マスターと初めて交わした言葉はそれだったと記憶している。もう二年以上も前のことだ。
現代、わざわざ原稿用紙を持ち歩いて小説を執筆する人はどれくらい少数なのでしょう。もしかして私がいることによってギリギリ絶滅危惧種と言えるのでは?いや、うん、マスターを差し置いて「青い女の人」を冒頭に書く格好つけはギリギリ絶滅危惧種でいいのかもしれない。
「書き終わったらいつか読ませてください」
マスター、私はその嬉しいお言葉を忘れたことはありません。
また数ヶ月ぶり、何度目かの来店。今日も私はいつもの同じ席に腰を下ろす。きっとこれも、私だけが知っていて、マスターにとってはたまたまこの席。ただ、そんなことはわざわざ知ってもらいたいことでもないのです。私にとってこの席が特別で仕方がないのです。
──いつか読ませてください。
そう言っていただいた日に座っていたのがこの席だ。当時書いていた小説はもう書き終えている。でも私は毎回言えない。まだ、私の文学で貴方の時間を奪えない。図々しくて恥ずかしい。
「レアチーズケーキをお願いします」
今日も外さず、レアチーズケーキ。ここを知るまで好みではないスイーツだったのだけれど、何故だろう、二年前に食べてみたいと思った。それ以来好物になり、いろんな所でチーズケーキを食べたけれど、ロマン亭、ここのレアチーズケーキに勝るものはなかった。
カフェ・ポンパドールを一口啜り、瞼を閉じる。これだ...これ、視界を塞いでじっくり味わいたくなるこの美味しさ。珈琲もそう。私の中で、ここのマスターが淹れてくださる珈琲より美味しい珈琲はない。
黒いカウンターテーブル。中央の席に座った男性は、どうやら常連客らしい。
「いつもの」
「熱いの?」
「冷たいの」
カウンター席のど真ん中。そこへ真っ直ぐ行けるのは常連の強さだろう。
「まだまだ暑いですねぇ」
「暑いな」
あの男性に話しかける声と、私とではやはり声色が違う。私もいつかあの席に座れるかしら、と数秒前まで考えていたけれど、私もあんなふうによそ見しながらマスターと話せる日がくるかしら、に変わった。
近くにあるらしいイタリアンの店の話をしているらしい。
「あそこは女性客が多いな」
「ええ、ワインもあってね」
「行ったことあんの?」
「ここ火曜が休みでしょ。だから丁度行けなくてね」
そこへ行けば私も共通の話ができるかもしれない。そう思ったのも束の間。あんなにスラスラと会話を紡げる自信がまるでなかった。
手に持っている手帳と万年筆を見下ろし、私が饒舌になれるのは文章上だったと再認識し、忘れるように珈琲を飲み込んだ。
青い女の人。貴方だけは、数ヶ月という時間を忘れて私が来店する日だけを覚えている。そんな気がしてしまうのだ。写真も絵も動かないだろって?いやいや、虚しくなんてない。むしろ私が私を特別だと自認するために必要なの。物や記憶への情というのは、己を何者かにするためにある。
名残惜しくカップをソーサーへ置きレジへ向かうと、文庫本が一冊置いてあるのに気づき立ち止まった。
「もし欲しければ持っていってください」
「え、いただいていいんですか?」
「私が家から持ってきた本をここに置いてるんです。私はもう読まないので、ぜひ読んでくださる方に」
よく見ると机の下にもう何冊か並んであった。
私は、このタイミングしかないと思った。
「はじめてここへ来た時、小説を書いてたんです」
「あ、ええ、覚えてます。小説家の方。以前と雰囲気が違うように見えて気づきませんでした、ごめんなさい。あれからまだ書いてらっしゃるんですか?」
「はい、ずっと書き続けてます」
小説。この店で私だけが使える名刺だ。この一言で私は「小説家の方」になれる。けれども、やはり書き終えたのでぜひ読んでくださいとは言えない。覚えてます、と言った瞬間のマスターの笑顔で充分。私に常連という肩書きはいらなかった。
お会計を済ませ、ありがとうございますと交わし合った瞬間に気づいた。笑顔の鏡を持っているお方だと。マスターが笑う時はいつも私も笑っている。そして笑顔の分身までいただいたのだ。三浦しをんの「舟を編む」を見るたびに、私の心は静かに灯る。