「論理的思考とは何か」(渡邊雅子著、岩波新書)
※注意 長いです(8000字くらいになってしまいました💦)
2024年10月に発売予定と言われてて、ずっと読みたかった本です。
現状、2024年で一番読んでよかった本かも。私個人には非常にクリティカルヒットしました。あー痒い所に手が届く感じ。
言葉を使って理解する、あるいは伝えるときに知っておいた方がいいこと、けどあんまり今まで言われていなかったことが、本書の体系で鮮やかに描かれているように思いました。ちょっと難しい部分もあるかもしれないけれど、ひととおり読み切ったら、まっさらなベースボードに線を引いて分類をしていきながらひとつの体系が積みあがっていくような感じで、新たな思考の庭を手に入れられたような気分になります(とりあえず気分だけは…)。
本書は、その前に著者が出していたもっと専門的な書籍がベースになっています。
すっごい読んでみたかったんですが、ちょっと高いなあってヒヨっていました💦(すいません)
そんななか、岩波新書でこの方の「論理的思考とは何か」が出版される、これは買いだ!と思い、予約して読みました。
この本でいいなあと思ったことを、例によって、正確に書く自信は全くないのですが、「読めていなくても堂々と語る」をコンセプトに気にせず書いてみます。
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さて、この本に書いてある文章そのものは、特別奇をてらっているという感じではなくて、例によって、あ~そうかもね~ということが積みあがっていくのですが、終わってみると当初の「論理的思考」に対する印象を覆されるというのが、面白ポイントだと思いました。
どういうことか?
まず、「論理的思考」ってどんな印象がありますか?
私は、こんな印象を持っていました。
「論理」ですから、「論理的に正しい」と「論理的に間違っている」ものがあるわけです。だとしたら、「論理的に正しい思考」って、普通はきっと一つしかないんだよね、というイメージがしてきます。
みんな論理的なのに、みんなバラバラってなんかイメージしにくいじゃないですか。逆に、みんな非論理的だったら、みんな言っていることはバラバラでも、そらそうよ、って気もしてきます。
これはイメージです。
でも、冷静に考えたらこういう場面ってありませんか。AさんとBさんの意見が全く違う。例えば、国によって見解が違う。アメリカの見解と中国の見解と日本の見解が全く違うなんて、しょっちゅうあります。じゃあ、アメリカは論理的で、中国は論理的じゃないのか?そんなことはないはず、国の行く末を決めるくらいですから、それぞれにそれぞれが一定の論理的思考でもって論理的に考えているはず。
あるいは、CさんとDさんは言い方が全く違う。Cさんは最初に結論を言った。そして、その後、理由を3つ挙げ、最後にもう一度結論を言った。一方、Dさんは、最初に結論を言わない。まず、こういう見解があります、でも、それにはこういう反論があります、そして……いろいろ言って最後に結論を言った。
どちらも論理的って言えるんじゃないだろうか?
みんな論理的なのに、みんな言っていることが違う。どういうこっちゃ。
このモヤモヤに鮮やかに答えているのが、本書ではないかと思うのです。
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本書は、「論理的思考」について、まず「形式論理」と「本質論理」あるいは「実質論理」に分けます。前者は、P⋀Qとか、P→Qみたいな記号論理学の系統で、世界共通の考えです。本書で、論じられているのは、後者の「本質論理」あるいは「実質論理」のことです。
この本質論理又は実質論理について、論理的思考の展開には文化的な差異があるのだ、というのが本書の主張です。
本書は、本質論理における「論理的であること」について
「読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚」
と言っています。
論理的であることは社会的な合意の上に成り立っている。
これは、一般的な「論理的思考」のイメージとは違うけっこう大胆な結論にみえるのではないでしょうか。
え~ここまで言い切っちゃうのはすごいなって思いました。
しかし、著者は、世界各国にさまざまにある論理的思考の展開パターンの中から、代表的パターンとしてアメリカ、フランス、イラン、日本の作文や小論文を分析し、その論理的思考の文化的基盤と社会的構築をまとめています。そしてこれを、形式性・実質性と客観性・主観性の観点から、経済領域、政治領域、法技術領域、社会領域に分類します。
この研究の成果をまとめたのが本書なのだと思います(すいません、分厚い方は読んでないです💦)
本書にも出ている表を引用します。
この分類は、もちろん絶対的な分類ではなくあくまでも一つの指標だと思いますし、国と領域と構造が完全合致するわけでもないけれど、論理的だなあと思ってもらえる文章を書くためにとても重要な視点なのではないかと思いました。
そこで、もう少し具体的に考えてみようと思って、ちょっと実験してみたのが、先日の記事です。
これをたたき台に、ちょっと、ひとつずつ見てみます。
ずばり、問いは、noteを始めたばかりの人は共同運営マガジンに参加したほうがいいのか?です。
フェーズ1(アメリカ型エッセイ・経済領域)
これは、アメリカ型の5パラグラフ・エッセイのイメージで書きました。
最大の特徴は、最初に結論を書く。で、3つ根拠を言って、最後に違う言葉で同じ結論を書くというものです(だから①から⑤まである)。
効率的かどうかが重視されます。とてもシンプルです。
PREP法もたぶんこの系統ですね。
いわゆるビジネス文書は、ほぼこの形かもしれません。
要は、効率的に結果を出す、経済的領域に適しています。
勝負は、②③④に如何に価値のある分析を入れられるかです。そこしか勝負どころがありません。反対説としてこういう見解があってとかグチグチやると余計なこと言うなと怒られてしまいます。
資本主義社会において、これが世界的スタンダードになりつつあるのかもしれません(これがいいのか悪いのかという問題意識がなくはない)
フェーズ2(フランス型ディセルタシオン・政治領域)
これは、フランス型のディセルタシオンのイメージで書きました。
ディセルタシオンってなんだよと思ったのですが、フランス式の弁証法を基本構造とする小論文だそうです。
「A.一般的な見方」「B.それに反する見方」「C.それらを総合する見方」の構成に位置付けて<正>と<反>の矛盾を<合>で解決する。
反対説Bも同じくらい検討する、そして、その矛盾を総合する説Cも同じくらい検討するとても丁寧な運びです。
だからここでは、審理が十分に尽くされているかが重視されます。
これは、公共の福祉に反しないよう議論を尽くすことを重視する政治的な領域に即しているとも言えます。
しかし、これは丁寧な一方で、長くなりがちです。書くの大変だった……
もう一つの特長は、最後の結論が次の問いへと展開するところです。単純なところからより複雑なほうへと広がっていきます。
まだまだ先に続いていきそうな感じがします。
アメリカ型とはある意味真逆ですね。
フェーズ3(イラン型エンシャー・法技術領域)
これは、イラン型のエンシャーのイメージで書きました。
エンシャーってなんだよ(2回目)と思ったのですが、イランの学校作文をエンシャーというそうです。
これが一番難しかったのですが、真理の保持と規範の遵守を重視します。
そして、いわゆる三段論法で論証をしているというのが特徴だと思います。
つまり
1 noteの機能は素晴らしいものだ。
2 共同マガジンはnoteの機能だ。
3 よって、共同マガジンは素晴らしいものだ。
という論証です。
これは、例えば、
1 人を殺したら、刑法により死刑だ。
2 Ⅹさんは、人を殺した。
3 よって、Ⅹさんは刑法により死刑だ。
と同じ、三段論法構造です。
なので、法技術的領域に親和性があります。
このパターンの場合、最初に結論は言っていないのですが、実は最初にもう結論が決まっています。noteを使うクリエイターにとって、noteそのものは神のような絶対的な存在です(笑)だって無くなったら記事全部消えますからね(笑)
noteという絶対的な存在・規範が大前提だぞ、共同マガジンはそのnoteの機能なんだぞと、最初に大前提をドーンと示すわけです。
こうなったら、もう否定の余地はありません。あとは決まりきった形で論証するのみです。だから、真理(noteクリエイターにとってnoteが絶対)や規範をしっかりと覚えているかが重要になります。
大前提がnoteだから非常に違和感がある(?)かもしれませんが、これがイランでは「コーラン」なわけです。
なので、真理の保持と規範の遵守というのも、一つの重要な価値観だと思うのです。その価値観をベースとした論理なわけです。
そして、最大の特長は、最後の結論を「ことわざ、詩の一節、神への感謝」のいずれかで結ぶという点でした。これは自分にそんな文化的基盤がないからめちゃくちゃ難しかった。
信仰的なレベルで絶対的な支柱がないと難しいのですが、真理を保持し、規範を守り通すという価値観からすれば、むしろこれが文化的基盤に即した自然な流れなんだろうなと納得ができました。
これもまた一つの論理的思考です。
フェーズ4(日本型「感想文」・社会的領域)
これは、日本型の感想文のイメージで書きました。
感想文が最も重視するのは、ずばり共感できるかどうかです。
推論の形は、共感による推理です。
一番不確実で、論理的って言ってもいいのか?って思えてくる不確実さです。でも、社会は「利他」の考えに基づく、個々人の善意がなければ成り立ちません(もちろんそれだけでもダメだけど)。VUCAの時代を迎える不確実な社会であればなおさらです。それが道徳を形成するのだとすれば、構成員内での共感が、共通理解を生み出し、そして、納得できるのであれば、共感を目的とした論理的思考も成り立ちうるという感じです。
なので、社会領域に親和性があるともいえる。
この感想文というのは日本独特のようです。
その特徴は、書き手の体験を取り入れ、体験の感想とそこからの成長、今後の心構えという流れで展開していくところにあります。
例えば、反論を入れることがあるとしても、感想文は、その反対説に対する配慮をします(確かに反対説が言っていることはわかります。でも….私はこう思います、みたいな感じで)。
見栄えとしては、こんなの論理じゃねえって、甘ちゃんに見えるような気がしますけど、よく考えれば非論理的でなければあり得る構成だし、反対説に対して配慮しつつ自身の意見を述べ、共感ポイントを探るというのは実に日本的です(フランス型とも違う)。
ビジネスのレベルでは、アメリカ型が主流ですが、断定的な内容では結論がでない、不確実な時代にはこういう共感型も意外と役に立ちそうな気がするのです。
実は、昨日のコメントの段階でMikataDaiさんから、lionはフェーズ4っぽいと言われました。このコメントを見て思わず笑ってしまいましたw(ちなみにフェーズ1からフェーズ4も全部lionのオリジナル文章です)
正直、自分の文体は、フェーズ4に近い非常にあいまいな日本的感想文なんだろうなという自覚はありますw
でも、フェーズ1からフェーズ3の発想で書くときもあるかな~という気もしています。それぞれに特徴があるし、読み手が求めているものに合わないと不必要なコンフリクトをしてしまいます。
ただ、私の場合は、noteは共感重視が基本スタイルというのはその通りかなという気がしています。そして、時と場合に応じて、フェーズ1からフェーズ3のスタイルを使い分けられるとだいぶ記述の自由度が増すかなとも思ったりします。
まとめ
長文引用もあって、過去最長レベルで長くなってしまいました。
最後に、以上の検討から何が言えるのか。それは冒頭の引用になります。
私たちは、「目的に応じて、形を変えて論理的思考を展開できる」ということです。実質論理は、実は、最初に選択される一つの価値観があって、その目的でもって展開されてるよってことですね。
さっきのたたき台でいえば、「共同マガジン賛成派」も「共同マガジン反対派」も「そもそも問いが間違っている派」も、いろんな方がいろいろな主張をされていますが、実は最初に目的となる価値観があって、その目的に応じて、どれも成り立ちうる論理だよってことです。
ということで、本書は、論理的思考は書き分けられるという大胆な結論にちょっとだけ自覚的になれる2024年のオススメの一冊です。
え?結局、共同運営マガジンには参加したほうがいいのかですって?
そうですね。私は、私なりのやり方で共同運営マガジンに向き合って、皆さんの心に残るような記事を書けるようになったらいいなあと思っていますし、みなさんがみなさんなりのやり方で共同運営マガジンに向き合って、そして生まれたすてきな記事を読んでみたいと思っています(日本的八方美人)。
そんなわけで、こんな長文駄文にお付き合いいただいたことに感謝申し上げて、「今日一日を最高の一日に」