【積読問題とは何か?】自分の中の<内なる図書館>の蔵書数を増やす方法
最近、積読について、批判的とも読める記事が話題になっていた。
元記事
買ったけど読まない本がたくさんあると年間1万円以上の無駄が出るという趣旨のようである。
これに対して、SNS上では、積読派から異論が結構出ているようだ。
買った本は読まないと本当にもったいないのか。
いやいや、読まなくても買って「積読」することに意味があるのか。
こういった議論だと思う。
私はどっち派かというと、買ったけど読んでいない本は、結構たくさんあるので、どちらかというと積読派だとは思う。
しかし、私としては、この議論について本当に大事なことは、実は「買った本を読んでいるのか、読んでいないのか」ということではないと思っている。
なんていったって、本noteのコンセプト本は、「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエールバイヤール著)である。
本noteの立場からすれば、買った本を「読んでいるのか、読んでいないのか」ということはそんなに重要なことではないということになるのだ。
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じゃあ、何が大事なのか。積読をした方が良いのか。
「読んでいない本について堂々と語る方法」には、一冊も本を読んでいないムージルの図書館の司書という人物が出てくる。
彼は、一冊も本を読んでいない。
しかし、350万冊ある図書館の「どこに何があるかを知っている」。
全体の中の見通しを図ることができている。逆に下手に読んでしまったら、全体の見通しが取れなくなってしまうのだ。
そして、彼は、ある本が全体の見通しの中のどこに位置づけられるのかを知っている。ある本の隣に置いてある本が何であるのかを知っているのだ。
この本の全体の見通しのことをバイヤールは<共有図書館>と呼んでいる。
彼は、一冊も本を読まないことによって、<共有図書館>のどこに何の本があるかを知っているのである(一冊も読まないというのは極端ですが)。
そして、バイヤールは、この<共有図書館>の主観的要素を<内なる図書館>と呼んでいる。
そもそも、「読んだ」のか、「読んでいない」のかの区別は非常にあいまいである。
全然読んでいない本もあれば、ざっと流し読みをした本もあるし、人から聞いただけの本もあるし、読んだけど忘れている本もある。
これらの本は「読んだ」のか、「読んでいない」のか。
それを厳然と区別することは、とてもあいまいな世界の話なのだから、実はそんなに重要なことではないということになる。
そうすると重要なことは何か。
それは、全体の見通し=<共有図書館>におけるある本の位置づけを知っていること、そして、その本と別の本の関わり、結びつきがどこにあるのかを知っていることではないかと思う。
<共有図書館>の主観的要素である<内なる図書館>について考えるならば、頭の中の<内なる図書館>の中に、ある本がどこに位置付けられるのか、隣には何の本が置いてあるのか、ある本と別の本との関係性はどういう関係性なのかを自分なりに知っているということではないかと思う。
例えば、ある本を購入する。そのタイトルを見る、帯を見る、目次を見る、パラパラパラとしてみる。
大事なことはこの時に果たして何を考えるのか、ということではないだろうか。
例えば、この本には、こんなことが書いてあるのではないか、あるいは、もしかしたら、前に読んだあの本と同じようなことが書いてあるんじゃないか。
この時に考えていることは何か。
創造である。
ある本をきっかけにした創造が始まっているのである。
つまり、自分が本をパラパラとして、すでに持っている<内なる図書館>のどこにこの本を入れるのかを考える。
この創造が決定的に重要なんじゃないかと思う。
このことは、一回通して読んだとしても、タイトルしか見ていなかったとしても、実はそんなに変わらないということになる。
つまり、「読んだ」か「読んでいない」かよりも、ある本を通して「創造」したか、していないかのほうが決定的に重要なのではないか。
ここでいう「創造」とは、自分の頭の中の<内なる図書館>にある本を入れる場所を決めたり、他の本との関係性を考えたり、自分自身の創作に結び付けていくことなのではないかと思う。
そうして、自分の中の<内なる図書館>の蔵書数を増やしていく。
そうすると、もし、積読せずに読んだ!としても、すぐ忘れてしまって、自分の中の<内なる図書館>に何の痕跡も残せていないのであれば、「読んでいない」場合よりも、むしろもったいない可能性すらあるということになる。
だから、重要なのは「読んだ」か「読んでいないか」ではなく、自分の中の<内なる図書館>の蔵書数を増やしていくことなんじゃないか。
なので、頭の中の<内なる図書館>の中の<内なる書物>を充実させていこう。
そんなことを言ってみようと思う。
*
さて、<内なる図書館>の蔵書数を増やすにはどうしたらいいか。ある本と他の本とのつながりを充実させていくためにはどうしたらいいか。
この観点で、私が最近完全にハマっているのが、
noteに読書感想文を書くこと
である。
正直、これをやった本とやっていない本とでは頭の定着率が全然違う。
読書感想文にした本は、<内なる図書館>の中でハブ本みたいな感じになる感覚がある。
そして、noteに読書感想文を書いていると前に読んだ本とのつながりが面白い形で見えてくることがある。
例えば、この前、「サイゼリヤ元社長が教える年間客数2億人の経営術」(堀埜 一成著、ディスカヴァ―トゥエンティワン)という本の読書感想文を書いた。
この感想文を書いているときに思い至ったのが、「ストーリーとしての競争戦略」とのつながりだった。
私は、「サイゼリヤ」の感想文を書くときに「ストーリーとしての~」を読みなおすことはしなかった。読んだのが4年以上前だったので本自体がどっかに行ってしまっていたのである。
でも、このつながりに思い至ることができたのはなぜか。
それは、4年前にnoteに読書感想文を書いていたからである。
noteにこの読書感想文を書いたのは、4年以上も前だった。しかし、noteに読書感想文を書いていたことによって、4年後、最近読んだ「サイゼリヤ」本とのつながりに思い至ることができたのである(読書感想文を書いていなかったらたぶん完全に忘れてた)。
こうして私の頭の中の<内なる図書館>の中で「ストーリーとしての競争戦略」と同じ棚に「サイゼリヤ」本が蔵書された。
これはある意味、自分なりの整理なので、正解とか不正解とかではない、私なりの「創造」ということだと思っている。
noteに読書感想文を書いているとこんな感じで、<内なる図書館>の蔵書数が増えていく。楽しい。
そして、これは「読んだか」「読んでいないか」が決定的には重要とは限らない、大事なのは、その本から何が創造できるかどうか、ということにかかってくるのではないかと思う。
というわけで、積読するかしないか問題は、実は「読んだか」「読んでいないか」の問題ということではなくて、<内なる図書館>のどこに位置付けて、どのくらい創造しているかということが決定的に大事だということ、そして、自分の中の<内なる図書館>の蔵書数を増やすとても効果的な方法は、読書感想文を書くことだと思うよ!ということ、そんな感じです。
そんなわけで、<内なる図書館>の蔵書を充実させて、「今日一日を最高の一日に」