「嫉妬」というやっかいな感情の付き合い方と現代社会 「嫉妬論」(山本圭著)
※約6000字です。
「羨ましい」
という気持ちは、誰しもが避けられない感情の発露である。
一方で、その気持ちに囚われている自分に気がつくとき、自分が振り回される必要のない気持ちに振り回されて、なんだか気持ちが悪くなってしまう。
嫉妬深くなってしまう自分は嫌だ。嫉妬深くなってしまっている人とはあまり関わりたくない。
それでもなお、私たちはこの感情に振り回されてしまう。
「ああ、羨ましい」
この「やっかいな感情」。でも、非常に人間臭い感情。
その分析を試みたのが本書である。
さらに本書の特徴をあげるとしたら、政治思想、特に「民主主義」との関係で「嫉妬論」を分析したというのがあげられると思う。
割といろんなところに話が飛ぶ傾向があるけれど、個人的には、ここに接続していく過程が面白かった。
そこで、この先を読む前に、一つ立ち止まって考えてみていただけるといいかと思う。
「民主主義」と「嫉妬」を結び付けるとどうなると思いますか?
先を読む前に、あえてこの問いを一回想像をしてみると面白い気がする。
すなわち、「民主主義」は、ある集合体の意思決定を構成員全員の意思で決定すること、言い方を変えるとするならば、「みんなのことは、みんなで決めよう」ということ。
では、「民主主義」が「みんなのことはみんなで決めよう」だとして、そこに「嫉妬」が介在したら、どうなるだろうか?
・・・もうなんだか、とんでもないことになりそうでしょ(笑)。
もうイメージしただけで、あらゆる問題が、エラーが、不毛な争いが生じまくりそうな気がしてきます。
でも、めちゃくちゃ世の中にありそうな話です。
このぐちゃぐちゃなイメージをもって、そこにどんな補助線を引いていくか、本書をヒントにちょっと考えてみようという試みです。
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嫉妬とは何か
「嫉妬」とは何か。
カントの定義によれば
らしい。
もう見ただけで、嫉妬感情に「忌まわしさ」を感じていることがうかがわれる定義である。本当であれば必要が全くないのに、それでもなおそう感じてしまう「忌まわしさ」しかない。「性癖」とまでいっている。
ここから何が言えるのか?
それは「嫉妬」は、合理的に考えれば
「なくていいものだ」
というのがベースにあるということ。
「他人の幸福が自分の幸福を少しも損なうわけではない」という言い回しの時点で、もう「嫉妬」なんかないほうがいいじゃん感が半端ない。「性癖」とまで言っている(二回目)。ワイドショーで誰が誰と不倫したかなんてまじでどうだっていいじゃん(笑)
だから、「嫉妬」なんてなければいいのだ。
本書の中は、「嫉妬」がどのように考えられたか、プラトンから三木清、ロールズに至るまで、いろんな思想家の考えを摘まんでいく。「嫉妬」だけでひとくくりにした本はあまりなかったのかもしれない。
しかし、実は、もう定義の時点で、こんなの「悪癖」だ、なくていいはずのものなのだ、そう言っちゃってるのである。
「嫉妬」は、基本的に「悪」。
本書は、全体の8割くらいは、嫉妬はなくしたい、けどなくせないどうしたらいいんだ!?という問題意識で書かれている。その印象は、読み終わってみてもそこまで大きく外れるわけではないと思う(まぁ、実は100%ではないというのがミソだったりする)。
誇示、あるいは自慢することについて
さて、「嫉妬」に対するぐちゃぐちゃのイメージを手に入れた(しまった)うえで、
「嫉妬」と「誇示」の関係を考えてみます。
「誇示」や「自慢」は、「自分が優れていることを認めて!」という承認欲求。だから、「自分が劣っていることに苦しむ嫉妬」とは、ある意味、真逆です。
しかし、本書によれば、どちらも性質は共通しているらしい。何が共通しているのだろう。
それはこういうことではないだろうか。
それは、どちらもファーストイメージが「みっともない」ということ。
なぜ、みっともないのか。
それは、どちらも「他人と比較をしているから」ということができるのではないだろうか。
この点については、以前、この記事で触れたヒュームの一節と関わってくると思う。
今年だいぶ売れたこの本は、働いている人が本が読めなくなったメカニズムを、労働をしていると読書に含まれる「ノイズ」を受け入れる余裕がなくなることと整理している。労働する人(特にエリート)は成功するために、「ノイズ」を排除した「知」を効率的に取り入れなければならない。
だから、労働しかできなくなってしまった人は、めっちゃ周りと比較をしてしまう状態に陥ってしまいがちなのではないかと思う。そこには偏りが生まれてしまう。比較に先立つ価値を受け入れる余裕がなくなってしまう。だから、こう思う。「ああ、羨ましい」。
ということで、「嫉妬論」は、意外なところとつながっていく。本が読めなくなった働いている人、ノイズを受け入れる余裕がなくなってしまった人、周りと比較せずにはいられなくなってしまった人……
さらにここで、もう一本、補助線を引いておこうと思います。
それは、「資本主義」との関係です。
「働いていると本が読めなくなる」→「ノイズを受け入れる余裕がない」→「他人と比較する」→「羨ましい」のサイクルに、「資本主義」は非常に親和性が強いとのこと。
実は、似たようなことが、「嫉妬論」には書いてある。
ここあたりからは、なんとなくですが、経済学にはあまり詳しくないけれども、落ち着いて本を読みたい人が資本主義に対し、抱いている問題意識の本質が読み取れるような気がしている。
どういうことかというと、経済に疎い人が見ている資本主義の問題意識は、実は経済的な格差の問題というよりは、むしろ「絶えまない差異化のゲーム」に強制的に絡めとられ、「働いていると本が読めなくなる」→「ノイズを受け入れる余裕がない」→「他人と比較する」→「羨ましい」のサイクルに巻き込まれること、そして実は資本主義自体が、この「嫉妬」や「誇示」を利用して駆動しているのではないかという問題意識なのではないかと思う。
要は、経済に疎いけどなんとなく資本主義に息苦しさを感じている人の本音って、資本主義のイヤなところは、お金持ちか貧乏かの格差が広がっていることというよりはむしろ、その比較のゲームに巻き込まれて「嫉妬」や「誇示」に巻き込まれるのが嫌だ、ということなのではないかということ。でも、資本主義社会では、そのゲームに強制的に巻き込まれてしまう、じゃないと最低限生きていくことすらできないのだから、という面倒くささです。
そんなわけで、「嫉妬」と「誇示」に「なぜ働いていると本を読めなくなるのか」と「資本主義」からみた補助線を引いてみました。
冒頭のぐちゃぐちゃのイメージは、実は、「労働」と「資本主義」による強制的な差異化のゲームによって、増幅されてしまっているのではないか?
本書に書いてあるわけではないけれど、そんなことも考えたくなってきます。
ということでいい感じにぐちゃぐちゃになったところで、最後に「民主主義」のことに触れてみたいと思います。
嫉妬と民主主義
この本で、個人的に抜群に面白かったのがロールズの『正義論』からの「嫉妬」は排除したい願望。そして、それが簡単にうまくいかないアワワワワ感(笑)でした。
ロールズの『正義論』には、2セクションくらいにわたって「嫉妬」のことが書いてあるそうです。
「嫉妬」は、彼の『正義論』を台無しにしてしまうというのが本書のスタンスです。
ロールズは『正義論』の中で「嫉妬」をどう論じたのか。
ロールズは、ざっくりいうと、「人々はたとえ社会的に不利な立場に陥ったとしても、ほどほどの生活水準が保障されるような社会が望ましい」と考えるはずだという仮説を立てています。まあ、実際はとても精緻な理論で、正確なことは正直分からないのですが、ざっくりいうとそういうことみたいです。
要は、「正義にかなった公正な状態を合理的に考えるにはどうしたらいいか」という構想。
正義にかなった公正な状態を感情抜きで合理的に考えてみると、対等に尊厳を持ち、最低限のレベルが全員に分配されて、社会内の序列が正義にかなっているのが望ましいという感じ。
「自由と平等が正義に適って実現された理想的な社会の状態」のイメージ、直感的にはなんとなくわかるような気がします。
この状態を考えたとき、「嫉妬」という感情は、どうか。
はっきりいって、邪魔でしかない。
他人の幸福に我慢できない。むしろ、隣人の不幸のためなら、すすんで自分の利益を差し出たい。そんな不合理な嫉妬心は、たとえ自分に最低限のレベルが保障されていたとしても、消えるわけではない…
それは、理屈で考えたら意味のわからない行動であって、ロールズが論理的に考えて導き出した理想とする社会を台無しにしてしまいかねません。
ヒュームは妬みについてこう言っている。
優劣が接近していて、手が届きそうなところにあるのに、優劣が生じているから、妬ましい。「なんで私ではなく、あいつなんだ」。
公正な社会を実現するための合理的とも思える発想に、非合理的とも思える「嫉妬心」が邪魔をする。
ロールズは、自身が理想とする正義にかなった「公正な社会」に対して、「嫉妬」を避けるべきものと考え、どうやってその情念を抑え込もうか考えています。
しかし、そんなに甘くない。いい感じに手懐けるのは実は難しい。
このジレンマが本書の後半ではぐちゃぐちゃと描き出されています。
二つの性質を挙げてみます。
① 「公正な社会」だとすると、自分とある人の差は、運とかたまたまとかではなく、正義に適った「差」だ、というお墨付きが与えられるようになる。これは逆に言うと「差」があることについて言い訳ができなくなる。だから、余計につらい。
② 「格差が少ない」「平等」だとすると、自分とある人の差は、格差が大きかった時より小さくなる。実は、より差が少なくなると「嫉妬心」は増幅する。手が届きそうなあの人が自分より有利になっていると「なんで私ではなくあいつが…」という気持ちになりやすくなるのである。
*
民主的な社会において「嫉妬」を完全になくすことはできない。
わたしたちをぐちゃぐちゃにしかねない「嫉妬」。
しかし、それを完全になくすことが不可能。なかなかしんどい状況です。
そうであれば、どうやってお付き合いをしていったらいいのかを考えていくしかありません。
絶えず向き合わざるをえない嫉妬
嫉妬の感情を完全に消すことはおそらく不可能である。嫉妬がないということは、比較が全くないということ。それは、差異のない完全に同質的な社会か、強大な権力に完全に意志を抑圧された世界でしかない。
どう対処したらいいのか?
それはまずこの「嫉妬」の性質そのものをよく知っておくことが大事ではないかと思う。嫉妬そのものは、わたし一人のものであり、言ってみれば個性です。多様性を尊重するならば、「嫉妬」することも個性の表れという見方もできる。
このことを一瞬でも冷静にメタ認知できるとだいぶ違うのではないかと思う。
しかし、「嫉妬」を全肯定することはあまりにも自身や社会を狂わせてしまいかねない。社会に生きている以上は、自分が嫉妬していることを理解したうえで、冷静に対処する必要はある。
つまり、「嫉妬」は他者との比較から生じる。そうであれば、わたしは何を比較してしまっているのかを、もっと冷静に捉えられると良いのではないか。そうすることで、その比較はいいのか悪いのか、比較に先立って見出すべき価値はないのか、その比較から生じる嫉妬や羨望をうまくプラスの方向に転化できないかといった発想に進むことができそうです。
こういう意味でいうと、先ほどの「ノイズ」がポイントになってくるのではないかと思う。すぐに役に立つとは思えないノイズ、これを受け入れる余裕があることって案外大事なのかなと思う。だからこそ、働いていて本が読めなくなった社会はつらい。
ちなみにnoteの世界にも嫉妬はあると思うけど、意外と少ない感じがする。XやInstagramほどピリピリとした殺伐とした感じは少ない。
それは、長い文章を読むことがそこまで苦ではない人が比較的多いからかもしれない。各々の個性を際立たせるのが重視されていて、比較の基準があるようでないような、複雑で多種多様な状況になっているからではないだろうか。
比較の基準が複雑化すると、誰が有利で誰が不利かがわかりにくい。そうすると、「なんで私ではなくあいつが…」という発想にそもそもなりにくいのではないかと思う。
ある意味「ノイズ」だらけの状態とも言える。
裏を返すと、稼ぐという単一で分かりやすい評価の基準が圧倒的に支配しているわけではないので、大量にお金が稼ぎにくいということがいえるのかもしれない。
ということで、「嫉妬」というやっかいな感情は、完全に無くすことはできないのから、なるべく冷静に捉えて、うまくお付き合いしていこう、そのためには、「ノイズ込みの知」を得ることが実は大事なのではないだろうか、そんな感じです。
でも、ほかの人の傑作な記事とか読んでしまうと思わず嫉妬してしまうわ~(笑)
そんなやっかいな感情とお付き合いをしながら、「今日一日を最高の一日に」。
あんまりうまく書けなかった気がするので、スタエフでも話してみました。