「論理的に先行する」という言い回しが便利
最近公刊されたマルクスガブリエルの「倫理資本主義の時代」という本を読んだ。
正確にはまだ途中だけど。
この前、この本の第1章、第2章についてだけプチ読書会みたいなものがあった。
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斎藤幸平さんが、監修をしていたそうだ。
マルクス・ガブリエルさんと斎藤幸平さんって考え方が違うイメージがあったんだけど、監修することなんてあるんだと思った。
そう思ったら、斎藤幸平さんがこの本をあとがきを書いたんだけど、その内容がマルクス・ガブリエルさんの考えに対する批判で、ガブリエル側から掲載拒否を食らったらしい。そんなこともあるのか。
この「幻」のあとがきには、「倫理資本主義」ではだめで、に真っ向から対立する「脱成長コミュニズム」が必要と説かれている。
また、本書にはあまり書いていないマルクス・ガブリエル自身の哲学についても、斎藤さんはあとがきのなかでけっこう批判的に書いている。本書には書いていないことをあとがきで批判されるのはたぶんガブリエル側も本意ではないだろう。
どっちが正しいのか、というのはわからないが、まあ、「倫理資本主義」を啓発する本を書いているのに、あとがきにそれを全否定する内容が書いてあったら、嫌だろうなという気持ちはわかるなあという感じである。
ただ、こういう掲載禁止まで含めてプロレスの可能性もある。
本当に喧嘩別れしたのか、プロレスなのかはわからないが、どちらも書き手は、国際的にも話題になっている第一線の学者さんである。そういう人が真っ向から対立しているのだから、ニワカ読者はそういうのを含めて楽しんだらいいんじゃないかと思う。
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もっとも、今日触れたいのは、このけっこう壮大な対立とは別の話。
この本は、「倫理」資本主義を説いている。
今回の問いは、「倫理」と「資本主義」のどちらが論理的に先行するのか。
という疑問である。
この「論理的に先行する」という言い回しが結構便利だと思っている。
違いが分かりにくいけど実は決定的に違うことを説明するときに便利である。
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この概念(?)について初めて触れたのは、大学の時の刑法の授業だった(大学は法学部だった)。ほとんど内容は忘れたけど以下の話は興味深くて覚えている。
刑法で、「減縮的(制限的)正犯概念」と「拡張的(統一的)正犯概念」の二つの対立する概念があった。
刑法には「正犯」と「共犯」というものがある。
「共犯」のほうがなんとなく意味がイメージできると思う。イメージは「共犯者」って感じである。
一方「正犯」ってなに?
というのを説明しようとしたのが、「減縮的(制限的)正犯概念」と「拡張的(統一的)正犯概念」であった。
AIに聞いてみた。
「減縮的正犯概念」と「拡張的正犯概念」の違いについて教えてください。
なんかムズイ。
これに対して、刑法の先生はこんな風に説明した。
減縮的正犯概念は、正犯が共犯に論理的に先行する。
拡張的正犯概念は、共犯が正犯に論理的に先行する。
違いが分かりにくいけど決定的に違うことを一言で、説明していてすごいと思った。やっぱり学者の先生はべらぼうに頭がいい。
それ以来、刑法のことは全く覚えていないが「論理的に先行する」という言い回しだけはちょいちょい使うようになった。
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そして、先ほどの問い。
「倫理」と「資本主義」はどちらが論理的に先行するのか。
もう少し敷衍してみる。
資本主義社会活動というか、経済活動を永続的に続けていくに当たって、倫理的な側面は大事である。倫理観を全く失った金儲けだけに走る会社は早期につぶれると思う。
私的に気になっているのは、ほんとうに資本主義の目的を「倫理資本主義」として、「道徳的に正しい利潤の追求」にしたほうがいいのかどうか、という点である。
つまり、「倫理資本主義」か「ただの資本主義のなかで倫理的にふるまうか」のどっちがいいのか。
これは「倫理」と「資本主義」のどちらを論理的に先行させたらいいのかといっていいんじゃないかと思う。
この言い回しで、違いが分かりにくいようにみえて、実は決定的に違うということがわかるんじゃなかろうか。
「倫理」が論理的に先行したら、資本主義そのもののが倫理的かどうかの問題になるし、「資本主義」が論理的に先行したら、資本主義そのものは別に倫理的ではなくて、プレーヤーが倫理的かどうかの問題になる。
ということで「論理的に先行する」の言い回しは結構便利。
ガブリエルのいう「倫理資本主義」は、「倫理」が「資本主義」に論理的に先行しているということだと思う。
そして、これについては、「『倫理』って人によってちがくない?」という疑問がある。
したがって、この問題を検討するときは、特に最初に『倫理』をどう定義するかがすごく重要だと思う。この点、ガブリエルは最初に『倫理』の定義を普遍的っぽい定義に画定していて、あたかもすべての人に共通する倫理があるかのように言っている。
これは、すくなくとも本書の内容を論じるスタンスとしてはちょっとズルい印象がある。
というのも、この問題を検討するにあたっては、人によって意見が異なりうるような微妙な「倫理的問題」をどう捌くのかというのが個人的には見てみたい。
しかし、最初の定義が「普遍的な倫理があるのだ!」になってしまうと、「『倫理』って人によってちがくない?」問題はそもそも生じ得ないことになりかねない。
さっきの「倫理資本主義」か「ただの資本主義のなかで倫理的にふるまうか」のどっちがいいのかというときに「倫理的に微妙な問題をどう捌くか」の検討はたぶん避けられないと思う。
まだ、最後まで読んでいないので、そのあたりのことで「おお!」と思えるような記述があるといいけど、書いてないとちょっと肩すかしな気もする。
でも、書いてなかったとしても「倫理資本主義」か「ただの資本主義のなかで倫理的にふるまうか」のどっちがいいのかという問題は、個人的に興味がある。
良い社会経済が回っていくにはどっちの発想がいいんだろう。
どちらにもメリットデメリットがありそうな気がする。
そんなわけで、なんか難しくなってしまったような気がするけど、たまにこういうことを考えるのも面白いなあと思ったりもします。
ということで、難しいこともあるかもしれないけど、まずは今日楽しく生きることを論理的に先行させて「今日一日を最高の一日に」