NHK よるドラ『ここは今から倫理です。』(6)|ことばについて
NHK よるドラ『ここは今から倫理です。』(6)を見ました。
§ ドラマのシーンから|引用
長くなりますが、引用から。
入学以来2年半、一言も口を利いたことのない生徒の隣に座って、彼に語りかける高柳先生の言葉です。
「私たちは言葉の力を信じすぎているのかもしれません。
どんなに言葉を尽くして語り合っても、お互いの想いすべてを、とらえられるとは限らない。
理解しあえたという幻想のもとに、お互いの無理解が加速していくこともある。
――曽我くんは、言葉の力というのに、とても慎重で、だからこそ言葉を発しないという決断によって、この世界と誠実に、向き合おうとしてるんじゃないか――なんて、こんな風に、言葉であなたを語る行為自体が、ナンセンスかもしれませんね。――すみません。私の癖なんです」
「我々は、他人と同じになるために、厳しい自己放棄によって、自身の3/4を捨てねばならないとショーペンハウアーは言いました(以下略)」
§ "ことば"こそが、その残された"1/4"
理解しあうために、思いをことばに変換した瞬間に、3/4を捨て去っているのかもしれない――と思うのです。
たとえば、外国語で気持ちを伝えるとき、語彙力のなさに愕然としつつ、似た言葉でなぞらえるしかないように。
母国語であっても、自分とことばの間には深い溝があって、完全に想いを表現することはできない――それがわかっているからこそ、私たちはことばを重ねたくなるのかもしれません。
§ 3/4の自己放棄〜詩人の場合
今日はお昼に、アルチュール・ランボオ『イリュミナシオン』から「夜明け」を読んでいました。フランス語併記なのでそちらも少し参考にしつつ。寓意的なのに象徴的で、ゆえに難解でもありました。
ドラマの中でも曽我くんについて「(自己放棄が)1/4かもですね」と語られていたように、ランボオも(多くの象徴詩人も)自己の1/4しか放棄していないのかもしれません。それゆえに、共通項としてのことばの明晰さからは、離れてしまう。
けれど、放棄されなかった3/4から伝わる熱や湿度のようなものが、詩のたゆたいの合間に立ちこめているようでした。曰く言いがたい"実体"の、少し生々しくくすぶるさま。
§ ハイデッガー〜ことばの花びら〜終わりに
ハイデッガーは『言葉についての対話』の中で、日本語の「言葉」を「こと(事)から由来する花びら」と定義していると言います。
(私にとってとても大切な"ことば"の定義を、ハイデッガーから引くのは、やや背徳的な感じもしますが...。でも、私にとっても、ことばは"葉"というより"花びら"なのです...なんだか悔しいけれど。)
『ここ倫』を見るといつも思うのが、私も高柳先生みたいに、静かな声で真摯に、そして何より慎重に、語り続けていたい、ということ。
だれかに伝えたいのか、秘めておきたいのか――伝わると信じているのか、無力さのうちにあるのか、自分自身でもわからない――
その狭間で人は、声高にではなくひそやかに、桜の花びらが散るように――寡黙に、雄弁に、語り続けるより他に、ないのかもしれません。
もうじきドラマも終盤ですね。
第6話は穏やかで、ケルティックハープかクラヴサンを聞いているかのようでした。