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天皇即位の決め手は実家の太さ(大河ドラマ「光る君へ」を100倍楽しむために)【第3話/4話】

時の流れは恐ろしいものだ。
ちょっと前まで、年も明けて新しい大河ドラマが始まると思っていたのに、いつのまにか二月も終わろうとしている。俺が今この記事を書いている時点で光る君へは七話まで放送されているが、俺はようやく四話を見終えたところだ。そして四話も相変わらず面白かった。

四話のメインは五節ごせちの舞だった。ドラマ内でも語られているが、五節の舞は朝廷の年中行事の一つである豊明節会とよあかりのせちえの中で行われるメインイベントだ。当時の貴族の日記である権記などを読んでいると毎年その記事が出てきたり、古今和歌集などで歌に詠われたりしている重要な行事だが、それを文字として読むだけでは正直想像しがたかった。なのでこうして映像になって見られると、その華やかさは圧巻だ。宮中の一大イベントとされるのも納得だ。

五節の舞は夜に行われるが、映像になるとよく映える

今回もそんな平安時代の世界を見ていきたい。やはりこのドラマをより楽しむためには、ぜひ知っておきたい知識が沢山ある。それを少しでもあなた方と共有できれば幸いだ。


天皇と皇位継承

さて、ドラマ四話ではついに円融天皇が退位し、春宮とうぐう(皇太子のこと)の師貞親王が即位した。花山天皇だ。円融天皇退位までの経緯は、ドラマ一話の時点から少しずつ語られていた。道長の父・藤原兼家は娘の詮子を円融天皇のもとに入内させ、詮子は待望の円融の子である懐仁親王やすひとしんのうを産んだ。自分の孫を皇位につけたい兼家は陰に陽に円融に退位を迫り、自分の子供を皇位につけたい円融もついに妥協し、退位して師貞親王に皇位を譲る代わりに、懐仁親王を新たに春宮とした。

退位に追い込まれる円融

この話を見ていて、疑問を持った方もいるかもしれない。円融は自分の子を皇位につけるために退位したということだが、天皇の子が次の皇位を継ぐなんてあたりまえじゃないのか?なぜわざわざ円融は自分の皇位を捨ててまで、懐仁を皇太子にしたかったのか。これを理解するためにも、平安時代の皇位継承事情を見ていきたい。

”万世一系“の幻想

万世一系ばんせいいっけいという言葉を聞いたことはあるだろうか。戦前、日本は天皇を頂点とする国家体制であり、天皇の権威と正当性を宣伝するために盛んに利用されたフレーズだ。天皇の正統性の源泉は、神話の神々から現代にまで続く途切れない血統にある。それを端的に表す言葉として万世一系という単語が活用された。

ところで、「万世一系」という言葉から受ける印象とはどういうものだろうか。初代天皇から現在の天皇まで、一本の糸でずっと繋がっている、というイメージが一番近いのかもしれない。だが、実際の天皇家の歴史はそうではない。天皇の血脈が初代天皇から続いている事は間違いないが、初代から現代までの皇位が一続きにつながっているわけではない。日本の歴史の中で、王朝の交代は起こらなかったが、皇統の交代という血脈の廃絶は何度も起こっている。

皇統交代の一例
現在の皇室は、奈良の大仏で有名な聖武天皇の血は受け継がれていないという事になる

日本における天皇の正統性の根源は、初代天皇の血を受け継いでいるというただ一点にある。神からこの国を任された初代天皇の子孫だけが、天皇の位につけるという事だ。しかし、これは裏を返せば天皇の血を引くものなら誰でも天皇の位につくことができるという事でもある。天皇の血族というと数少ない印象を受けるかもしれないが、すでに百代も続いている天皇の子孫たちなど実際は無数に存在する。極言すれば彼ら全員に継承権が存在するという事だ。

極論は置いておいても、実際のところ皇位継承権を持つものは沢山いたのだから、不都合な天皇がいた場合、さっさと退位させて自分に都合のいい者を次の皇位につけることが可能だった。天皇の権威の源は血統なのだから、その血統さえクリアーしていれば強引に天皇を入れ替えられる。実際にそんな例は無数に存在しているのだ。

「万世一系」という考えを最初に広めたのが、このドラマから約300年後の人物である北畠親房きたばたけちかふさだ。北畠親房が生きた時代、すでに政治の実権は武士のもとに渡っており、しかも朝廷は二つの皇統に分裂し争っていた。分裂した皇統の一つ、後醍醐天皇に仕えた公卿であった親房は、幼少の皇太子のために神皇正統記じんのうしょうとうきという歴史書を書いた。

万世一系はこの神皇正統記の中で展開される理論だ。親房は幼い皇太子の教育のためにこれを書いた。天皇の正統性を訴えるのがその主目的だが、一方で皇統が分裂している現実を踏まえ、天皇にふさわしい人格を備えていない人物は皇統交代という形で排除されるということを、次代の天皇に教えようとしていたとも言われる。至尊の存在と思われがちな天皇位だが、その権威はかくのごとく脆いものだったのだ。

皇統のピンチヒッター、円融天皇

天皇という位が思いのほか揺るぎやすいという事を理解したところで、この時代の皇族関係を見ていきたい。ドラマ四話で即位した花山天皇だが、彼は先代の円融天皇と直接の血のつながりはない。その系統は下の図の通りだ。

当時皇統の主流とみられていたのは冷泉天皇の系譜だった

花山天皇の父親は先々代の天皇で、円融の兄にあたる冷泉天皇だった。普通に考えれば、冷泉天皇から花山天皇へという風に父から子へと皇位を受け継ぐはずだが、冷泉天皇という人は精神に問題があり、即位後して二年ほどで位を降りざるを得なかった。しかし跡継ぎたる冷泉の子どもたちはまだ幼く、到底皇位を継ぐことはできなかった。そのため、一旦冷泉の弟である円融を皇位につけ、その春宮を師貞親王(のちの花山天皇)にすることで、時間を稼ぐことにした。

つまり円融天皇は、師貞親王が成長するまでの代役として皇位についていたにすぎなかった。師貞親王が成長してしまえば、円融はお払い箱となってしまう。このままでは即位した花山天皇の子どもがそのまま春宮となり、円融の血統は皇位継承者の中から排除されていってしまう。

円融天皇が自分の子を皇位につけるため、わざわざ位を譲ったのはこういう理由があったのだ。時間が経って花山が成長すればするほど、花山の血統の優位は確実になる。だが花山に跡継ぎがいない状況で早くに譲位すれば、次の東宮の位に自分の子である懐仁親王をねじ込むことができる。

幸いにも懐仁親王の祖父は時流に乗った実力者、藤原兼家だ。後見の面でも何の不足ない人物だ。むしろ恐れるべきは、懐仁親王が即位する前に兼家が亡くなってしまう事だ。強力な後見を失った春宮は、最悪の場合は廃位にされることもありうる。円融としては、何とか兼家が存在するうちに皇位を懐仁親王まで回す必要があった。

即位の決め手は実家の太さ

沢山いる親王たちが皇位につけるかどうかは、強力な後見人がいるかどうかにかかっていた。先に天皇の血を引いてさえいれば誰もが皇位継承権があると言ったが、これはあくまでその権利があると言うだけで、実際に皇位に上ることができるのは、強力な後見人の有無、つまりは母親の実家の力が強いか弱いかに依っていた。

例えば、冷泉や円融の父は村上天皇といった。のちに模範的な天皇として「聖帝」とまで讃えられた村上天皇であるが、その子どもは数多く、誰が皇位を継ぐかは定かではなかった。そんななかで有力だったのが村上の第一子である広平親王と、のちに冷泉天皇として即位する憲平親王の二人だった。

普通なら長子の広平親王が後を継ぐのが順当だが、広平親王の母親は藤原元方の娘で、この元方は藤原氏と言えど勢いが無い藤原南家という一族の出だった。一方の憲平親王の母親は、藤原師輔の娘、つまり道長たちの叔母にあたる人物。前回の記事でも書いたが、藤原師輔は藤原氏の中でも九条家と呼ばれる一番勢いがある一族の祖だ。二人の親王の実家の太さには雲泥の違いがあった。

結局、後継争いの軍配は実家の太い憲貞親王の方に上がった。皇位を逃した広平親王と藤原元方の憤怨は収まらず、死後に怨霊となって冷泉の血統に祟った噂される程だった。歴史物語の「大鏡」にはこの皇位継承争いに関して一つのエピソードを伝えている。

ある時、貴族たちがサイコロで賭け事をしていたが、そこに藤原元方と藤原師輔の姿もあった。ちょうど師輔の娘が村上天皇の子を懐妊した折で、周囲が二人の成り行きを見守りつつそわそわする中、師輔は「生まれてくる子が男子なら、六のゾロ目を出せ」と言ってサイコロを振ると、見事一発で六のゾロ目を引いた。得意満面の師輔に対し、元方は血の気を失い、周囲は「これは次の天皇は師輔の方だ」と噂したという。

師輔の豪運を物語る面白いエピソードだ。もっともこの手の話は似たようなものがいくらでもあり、後の道長も兄の道隆一家に似たようなことをしている。こういう説話は面白いだけに作り話のことが多く、実際に起こったこととは言い難いが、いかに天皇の即位に外祖父の力が影響していたかを示す話ではある。

ちなみに村上天皇の皇子たちの後継争いはこれだけで終わらない。冷泉天皇が即位すると、次代の春宮も定めなければならないが、冷泉の子どもはまた幼く、冷泉の弟たちがその候補になった。有力だったのは為平親王守平親王の二人だったが、兄である為平親王を差し置いて弟の守平親王が春宮となった。

この守平親王がのちの円融天皇なのだが、為平親王も守平親王も母は冷泉と同じ師輔の娘だ。しかし為平親王の妻は皇族の有力者である源高明の娘で、藤原氏以外から皇子が生まれることを恐れた師輔一族の策略によって、為平親王は排されたとも言われている。

皇族と藤原氏の関係図
複雑だがこの関係を理解しているとドラマの面白さも段違いだろう


常識外れの人、花山天皇

さて、皇位を巡る政治争いは以上に述べた通りだ。天皇になるためには、強力なバックが必要不可欠。実家が弱いものは、例え長男であろうと天皇の位にはつけなかった。ではドラマ四話で天皇に即位した、花山天皇はどうだったのか。

花山天皇の母親は、藤原伊尹ふじわらのこれただの娘だ。上の図を見ると分かるが、藤原伊尹は藤原師輔の長子で、冷泉天皇・円融天皇の伯父にあたる。父・師輔亡き後その跡を継ぎ、摂政・太政大臣と人臣の位を極めた伊尹は花山の後見人として申し分ない存在だった。ただ一つの問題は、その伊尹がすでに亡いという事だ。伊尹が亡くなっているだけならまだ良いが、その跡を継ぐべき子どもたちも病によって次々亡くなり、伊尹の一族は一気に衰えてしまった。

ドラマの中で花山天皇の側近として登場した藤原義懐ふじわらのよしちかは、伊尹の子であり花山の叔父に当たるが、兼家たちから「義懐ごときが」と言われる程、伊尹一族の権勢は衰えていた。そんな状況で即位した花山天皇は、最初からすでに危うい立場にいたという事だ。有力なバックを持たない花山天皇は、周囲の公卿から見ると長く続かないことが明らかだった。ドラマの中で周りから距離を置かれているのはその表れと言える。

花山の頼みとなるのは義懐一人だった

冷泉血統の物狂い伝承

花山天皇の父である冷泉天皇は、精神に異常があったとされている。そしてその子である花山も、同じく物狂いの気があったと、当時の歴史物語は伝えている。そしてその原因は、先にも述べた冷泉に皇位を奪われた藤原元方の怨霊が冷泉の血統に祟ったからだ、というのがこうした歴史物語が語る結論だ。

花山天皇の気狂いの描写は、すでにドラマの中でも描かれている。まひろの父・為時が教育係として手を焼く姿がその表れだ。藤原実資を蔵人頭に任じる際に暴れ散らす様子も、精神異常者・花山天皇というイメージにぴったりの振舞いだ。だがその一方で、意欲的に政治に参画しようとする一面も見せている。狂気の人・花山天皇。意欲的な為政者・花山天皇。果たしてどちらの姿が正しいのだろうか。

俺が花山天皇の狂行と呼ばれるものを見ていて思うのは、果たしてこれは怨霊のせいと言われる程のものなのかということだ。確かにこの天皇は女好きだったようだし、派手好きで周りに怪しい人物を集めたりしたし、当時の伝統作法を破ることに何の躊躇いもなかったように見える。だがそれらは人間ならありうる範疇の振舞いに留まっている。突然周囲に乱暴するとか、いきなり感情を爆発させるとか、そういう話は見たことが無い。

先の展開のネタバレになるが、冷泉天皇の血統は花山天皇・三条天皇という二人で絶え、円融天皇の血統が現在まで続く皇統となる。その立役者となるのが藤原道長なのだが、本来正嫡であるはずの冷泉血統を排して円融血統が正当であるとする理由付けとして、冷泉血統の狂気という物語が作り出され、藤原元方という怨霊が生み出された。

冷泉天皇は本来、藤原師輔に始まる九条家の興隆のきっかけを作った天皇だった。しかしその冷泉の血統は、九条家の繁栄の中で闇に葬られていった。その歪みを解消するストーリーとして作られたのが、元方の怨霊と花山天皇の狂気という訳だ。

型破りな男、花山天皇

花山天皇物狂い説は作られたものだったとしても、花山天皇が相当破天荒な人物だったことは確かだ。幼少期の織田信長がうつけとよばれたかの如く、当時の伝統的な作法を無視する花山天皇は、周囲から相当ヤバい奴と思われたことだろう。そんな花山天皇の型破りな一面をこれから見ていきたい。

花山天皇の在位は二年ばかりとかなり短い。そのためこの話は花山が退位した後のことになるが、当時朝廷で威を誇っていたのは藤原隆家という若者だった。この隆家に対して、花山上皇は「いくらお前でも俺の家の前を素通りはできないだろう」とちょっかいをかけると、隆家は売り言葉に買い言葉、「なんでできないことがありましょう」と喧嘩を買ってしまう。あれよあれよという間に賭け事にまで発展し、両者は期日を約束して分かれることになった。

そして当日、壊されないように強化した牛車に乗る隆家は、威勢のいい手勢を引き連れて、花山上皇の屋敷の通りを進む。対する花山の側は、普段の素行の悪さの賜物か、どういう繋がりかもわからなぬ荒くれものたちを屋敷の前に集めて、道隆一行を待ち受けていた。このままいけば一触即発、すわ京の中で刃傷沙汰かというところで、さすがに上皇と揉めるのはまずいと思った隆家が車を返し、勝敗は花山の方に軍配が上がった。

「余計な事を言ってしまった」と反省する隆家だが、一方でこんなくだらない争いを賭け事にまで発展させて勝負を仕掛ける花山の方も、軽率の誹りを免れない。まあ正直この争い自体は一種イベントごとのような楽しさがあるが、それを上皇という身分でやってしまうのが花山という男なのだ。

故事談という本に花山の女性関係の話が載るが、
故事談は猥雑でゴシップ的な記事も多く信用に欠けるので今回はスルーする

花山天皇はイベントごとが好きだったようだ。花山が在位中にこんな出来事があった。とある梅雨の日の夜。ざあざあと雨が降り続く中、花山天皇は殿上人たちを集めて暇をつぶしていた。花山が「今日は雨が降っていていつもより一段と気味の悪い夜だ。これだけ集まっていても不気味なのに、人気のないところまでひとりで行けるやつはいるだろうか」と問うと、若い道長が「私ならどこへでも行けます」と答えたものだから、花山のイベント魂に火がついてしまう。

急遽肝試しが行われることになり、道隆・道兼・道長の三兄弟がそれぞれ夜の宮中を歩かされることになる。結局この肝試しは兄二人は逃げ帰ってくるのに対し、道長はしっかり指定の場所まで行ってきたという、道長の豪胆さを物語るエピソードになるのだが、殿上人たちを巻き込んで肝試しというイベントを即席で始めてしまう花山の行動力とお祭り気質の両面が見て取れる。

上の二つのエピソードを見ても、花山天皇のフットワークの軽さはよく伝わるだろう。多分花山は、通りで喧嘩があると聞けば、真っ先に飛んでいって見物するタイプだ。そんな江戸っ子気質な人物は、身近にいれば愉快なヤツかもしれないが、国のトップである天皇がそんなんでは誰もが国の将来に不安を持つだろう。

頭の王冠を投げ捨てた、なんてエピソードもあるがホントかどうかは不明

とどまることを知らない花山の行動力

花山天皇なら何をしでかしてもおかしくないというのが、当時の貴族たちの共通認識だったのだろう。のちのち、花山は修験道の聖地・熊野に籠って修行し、ジャパニーズ・マジカルパワーたる法力を操る花山法王となった、という伝説が作られたほどだ。

もちろん作り話なのだから花山が熊野で修業したという事実はないが、花山自身は熊野詣をすることが長年の夢だったらしい。天皇退位後に何度か熊野に行こうとするが、一条天皇や道長ら公卿たちから全力で引き止められ、ついに花山の熊野詣は実現しなかった。花山を都の外に出したらどんな悪さをしでかすかわかったもんじゃないとでも思っていたのかもしれない。

花山の破天荒エピソードはこれだけに留まらない。ガラの悪い輩とつるんで藤原公任・藤原斉信の車に乱暴する、奇抜な恰好で外を出歩くなどなど、花山の悪童っぷりは枚挙にいとまがない。その一方、花山は優れた美的センスを持っていたようで、屋敷の設計から調度品のこだわり、果ては造園からちょっとした絵描きまで、芸術関係にはあらゆる才能を発揮する天才っぷりを見せつけている。

よくある話だが、天才と呼ばれるような人は世間に受け入れられ難い、と言われたりする。平安時代の貴族社会は、先例と伝統が重んじられる極めて保守的な世界だ。何事も縛られず行動的すぎる花山天皇が、貴族たちから冷たい目で見られるのは無理もなかった。

頭を悩ます大人たち

確かに花山天皇は当時の規範から逸脱するような行為を平気で行ったし、奇矯と見られて仕方ない振る舞いをすることもあった。しかし、花山天皇が何も考えず意味の分からないことをする馬鹿ではないという事は、今まで見てきたエピソードからも伝わるだろう。

狂気の血統という烙印

道長の側近だった源俊賢という人物が、冗談交じりに花山の事を評し、「冷泉院の狂いぶりより、花山院の狂いぶりの方が始末が悪い」と言った。それを聞いた道長は、不敬なことを言うなと俊賢をたしなめつつも大笑いしたという。この話をそのままの意味で受け取れば、「冷泉より花山の方が手に負えない狂いぶりだ」という事になる。

しかしこういう風にも考えられるのではないか。「冷泉のような狂いぶりなら良かったものを、なまじ正気なだけに花山の方が手に負えない」という事だ。花山は精神に異常があったのではなく、正常な判断力は持ちつつそれを飛び越えて行動する男だったのだから、相手をするのも一苦労だっただろう。

そんな花山天皇だから、彼を積極的に支えようとする公卿たちはいなかった。藤原実資が蔵人頭を辞退しようとするシーンがあるが、先例に通じていて儀礼の権威だった実資からすれば、作法を顧みない花山の事は苦々しく思っていた事だろう。そうでなくても、この先が知れている花山に近づくメリットは感じられなかったに違いない。

花山の後見だった藤原伊尹はすでに亡い。側近として支えている藤原義懐に父・伊尹ほどの権勢は無く、今朝廷でもっとも勢いがある藤原兼家は自分の孫の懐仁親王を皇位につけようと策謀を企てている。こんな状況では、花山の天下が長く続くはずがない。花山は貴族社会から見限られていた。

続くことは無かった花山政権

結局、花山天皇の在位は二年ほどで終わる。皇位を追われ、正統から外れていった花山天皇は狂気の人という烙印を押され、歴史の中に埋もれていった。そして熾烈な皇位継承をめぐる争いは、次代の一条天皇にも引き継がれていく。



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