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『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』読書感想文

きっとこの本を、周りに馴染むのに必死だった大学1年の頃とか、新卒で入った会社に絶望した社会人1年目の頃とかに読んでいたら、立ち直れないくらいダメージを食らっていたのだろうな。

読み終わった後、そう思った。

何故なら、今の私は当時に比べてかなり精神的に余裕がある筈なのに、それでもズタズタになるくらい痛手を負わされたから。

麻布競馬場さん。
名前だけは聞いたことがあったが、今まで彼の書く文章に触れたことがなかった。

だが、偶々タイムラインに流れてきたこのツイートをきっかけに、明確に本を読んでみたいと思った。

このおじさんは私だ、と思った。
これは、私のあり得たかもしれない未来の話だと思った。

私は、大学入学まで18年もあったのに、それまで出会った誰とも深い関係性を築くことができなかった。

そのコンプレックスは、ある程度の人間関係を築くことができるようになった今でも、私の心の奥底に根強く燻っており、ふとした瞬間に胸を刺してくる。

私は高校まで、「友達ができないのは環境のせいだ」とずっと思っていた。
何故なら、自分は周りに合わせる努力をしているつもりだったから。
それでも合わないのは、「周りと自分の相性が悪いからだ」と全てを他責思考で捉え、身を守っていた。

大学に入り、やっと胸を張って友人と言えるような存在ができた。
私は、やっとできた貴重な関係性を維持するため、徐々に自分の悪いところを見つめることができるようになってきた。

そのおかげで「高校までで友達ができなかったのは紛れもなく自分のせい」という事実に気づき、自責思考が始まった。

自責思考を覚えた私は、昔の自分の行いが夜中に突然フラッシュバックし、無限の後悔に襲われたりするようになった。今更嘆いたってどうにもならないのに。

自責思考は、一旦始まるとドツボにハマり、抜け出せなくなる。

そんな自責思考のループの中で延々と考え続けた結果、自責思考から抜け出す鍵は、他責思考であることにも気づいた。

私は、全てを自責で引き受けると押しつぶされてしまう弱い人間である。
だから、ある程度は責任転嫁をすることで、心のバランスを保つしかない。

思考を堂々巡りさせるだけでは何も解決はしないことなど分かっているが、誰にも迷惑かけなければそれでいい。

これが、今の私の結論だった。

だが、このツイートを見た時、その結論をぶった斬られたような気がした。

ああ、環境とか関係なくて、シンプルに私は性格が悪いから友達ができなかっただけか。

そして、この考えを文章にしていること自体が、彼の出会ったゴールデン街のおじさんと同じなのか。

この作品は、そんなツイートを見た後に、偶々入った書店で出逢った。

文庫化された直後だったので、小説コーナーの中でも目立つ位置に置いてあったのだ。

この本を見つけた瞬間、私は、誘われるように手を伸ばしていた。

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本作は、22編のストーリーからなる短編集である。

この作品に登場する全ての物語の主人公達は、「東京」という街で自分の身の丈を思い知り、傷ついていく。

読みながら、無垢なまま入学してしまった自分の大学1年生の頃を思い出して、終始反吐が出そうになった。

入学前のオリエンテーションで、あまりの内部進学組の多さに驚いた。
そして、外部進学組も既にSNSなどでコミュニティを形成しており、それに乗り遅れていることに焦りを覚えた。
人気サークルにはセレクションという名の顔面選抜が存在し、門戸を叩くことすら憚られた。
サークルに入った後も、暗黙の学内序列みたいなものの存在に、辟易したりした。

大学は情報戦だ。
楽な単位も、定期試験の勉強法も、飲み会開催の有無も、ゼミの就活実績も、高時給バイトも、全部。
分かっているヤツだけ楽しめて、分かってないヤツは楽しめない。

敷かれたレールを走っていただけの私にとって大学は、入学当初、途轍もなくしんどい環境だった。

そんな若者の絶妙な文脈への解像度が、あまりにも高かった。

その解像度を何よりも上げているのは、間違いなく固有名詞の多用である。

「女子学院から4点足りずに東大に落ちて慶應」と「一橋を目指していたけどセンター試験でコケて慶應商学部」

「P&Gでマーケがやりたいと言っていたが、秒速で落ち、何故かメガバンクに入るも、パワハラ上司に当たって退職」と「電通に入りセクハラにもパワハラにも耐えて働いている」

「流山おおたかの森の、ニトリの家具だらけのファミリーマンション」と「倍の家賃がかかる清澄白河のマンションに、バルミューダの加湿器や白金高輪で買った長い名前の観葉植物を置くような生活」

上記のように、作品にはありとあらゆる固有名詞が多用され、効果的な対比を生み出している。

他にも、親の教養レベル、間取り、駅からの距離、付き合う人の容姿、ステータス、プレゼントのセンス、経験人数、着る服のブランド、年収、SNSののフォロワー数………。

文章でダラダラ描写しなくても、持ち物やステータスを比較すれば、何が言いたいのかが一発で分かってしまうのだ。

そしてそれは、色んな肩書きが自動的に張り付いてしまう大人になればなるほど、奥まで刺さってしまう気がした。

記号的価値観に囚われないで自分軸で生きることが幸せになる秘訣であることなんか、皆んな分かっている。

分かっているはずなのに、人は比較を辞められない。

何故なら、見下されたら辛いけど、見下したら気持ちいいから。

特に東京という街は、そういう薄気味の悪い空気が、最も顕著に蔓延していると思う。

だからこそ、その薄気味悪い空気の煮凝りみたいなこの作品のタイトルが、「この部屋から東京タワーは永遠に見えない」なのが、あまりにもしっくり来すぎて、本当に舌を巻いてしまった。

作者の麻布競馬場さんは、どれだけ性格が悪く人のことを観察しているのだろう。読みながら畏怖の念すら感じた。

ただ、最後の自伝的短編で、誰かを刺すような小説を書くため、同じくらい自分のことも刺していると分かった。

だから、単純に文学に対する熱量が凄まじいのだと、畏怖が尊敬に変わった。

更にいくつかの短編では、身の程を知った主人公達が、背伸びしない自らの幸せを明確にしていく様も見えたので、少なくともムカつく誰かを空想の中で破滅させたいだけの人ではないと分かった。

何なら、人間のことがめちゃくちゃ好きなんだとも思った。

人間愛に満ち溢れてるからこそ、観察眼が鋭くなり、結果として圧倒的に生々しい描写が可能になって急所を抉ってくるのだ。

読む前から彼のツイートに散々打ちのめされていた私は、ある意味自傷行為のような気持ちでこの本を読み始めたので、読了後は最早清々しい気持ちになった。

もう一度読むのは怖いのに、きっとまた読んでしまうだろう。そんな魔力のある本だった。

とても面白かったので、麻布競馬場さんの直木賞候補になった作品も、読んでみたいと思った。

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