映画『傲慢と善良』感想文
最近、好きな小説の映画化がイマイチなことが続いていたから、この映画を見に行くのも怖かった。
何故なら、原作小説がメチャクチャ好きなので、世界観やメッセージが破壊されていたら、許せないと思ってしまうから。
しかし、そうやって二の足を踏んでいると、公開が残り数日になってしまっていた。
その事実に気づき、仕事帰りに慌ててチケットを買い、スクリーンへ向かった。
結果、本当に見て良かった。
以下、3点に絞って感想を書いていく。
①キャスト
映画を見終わって最初の感想は、「出演者全員が小説を読みながら想像していた通りで嬉しかった〜」だった。
まず、メインキャストのお二人がハマり役すぎる。
「社長」「外車持ち」「ロレックスの時計」など、分かりやすく強いステータスに相応しい顔面と雰囲気。そして、それを本人も自覚しながら生きている傲慢な感じが、藤ヶ谷さんにぴったりすぎた。
そして、菜緒さんの「相手から"善良"と思われることこそ、人間関係の正解だと思っている女の子」の感じも完璧だった。
含みを持って「良い子だよね笑」と言いたくなる人物像の演技が、余りにもうますぎた。
そしてお二人とも演技が頗る上手だったので、後半にかけて"傲慢"と"善良"の見え方が逆転していく様も完璧だった。
藤ヶ谷さんの、久しぶりの再会で唐突に"やり直したい"と言い出した時の真剣な表情は、駆け引きの下手さを全く自覚していない鈍感さを上手に表していた。
菜緒さんからの告白を受けて「うんうん」とバカっぽく相槌を打っている感じも、当に「善良さ」が滲み出ていた。
菜緒さんは、ストーカーに纏わる嘘をつくシーンが凄まじかった。
「躊躇いもあるが、感情が先走って止められない」という雰囲気が、痛いほど伝わってきた。
そして、ボランティアの経験を通し、自分の弱みを他人に話したり、誰かの役に立っている実感を得たり、更には教える側に回ったりと、1人で生きていく自信がついていく様も痛快だった。
漲っていく生命力や逞しさみたいなものが、顔つきに現れていた感じがする。
だから、最後の「言いたいことを言う」シーンの傲慢さが、上辺だけの善良さなんかよりも、何倍も魅力的に映ったのだと思う。
そして、宮崎美子さんも上手すぎた。
原作小説の時から、過保護すぎる自分の両親と重ねて「ウッ…」となってしまったキャラクターなのだが、映画でも同じように嫌な気持ちにさせられた。
恋愛とはまた違う、「我が子を自分の支配下に置きたい」という親の傲慢が、短いシーンの間に過剰供給されていて、エグみがあった。
それでいて、娘の人生に口を出すことが「娘のためになっている」と信じ切っている"善良さ"もよく表現されていた。
でも、何よりも、結婚相談所の所長を演じた前田美波里さんが凄すぎた。
正直言って、他がどんなに良かったところで、結婚相談所のシーンがダメだったら、この映画は褒められない。
何故なら、この作品の根幹のメッセージが初めて顔を覗かせるシーンだから。
だから、感動した。
完璧すぎて。
和やかに微笑みながら、示唆的かつ暴力的なほどの正論をブッ刺す様に、余りにも迫力があった。
演じる本人も、役も、幾多の修羅場を潜り抜けてきたような人生の深みがないと、あり得ない説得力だった。
小説を読んだ時と同じくらい刺さったので、本当に完璧だったと思う。
結婚相談所のシーンだけでも、映画を見に行ってよかったと思えた。
②脚本について
この映画は、脚本も完璧だと思った。
何故なら、原作と違う部分も多少見受けられたのに、見た後に物凄い納得感があったから。
それは、枝葉のエピソードを上手にテコ入れすることで映画の尺に収まるよう時短しつつ、肝心のメッセージは根幹を変えずに伝えることができていたからこそだと思う。
まず目についた改変が、「汚れてしまった写真を洗って復元する作業に従事する中で、偶々神社と縁があり、そこで架と結婚式を挙げる」というシーンが、まるまるカットされていたこと。
だが個人的に、ここは原作でも+αの要素でしかないと思うので、映像化において必須とまでは思わない。
寧ろ、「2人が言いたいことを言い合って、傲慢さも善良さも曝け出した上で、また結ばれる」という部分での幕切れは、メッセージが1番伝わる終わり方だと思った。
そして「真実の滞在先の名産品である蜜柑と、架のビール事業が関わることがきっかけで再会する」という、原作とは全く違うストーリー展開にも、全く破綻や違和感を感じなかった。
理由は、クライマックスのシーンで「何を伝えたいか」が非常に明快だったため、そこに時間を使うため、周りのエピソードが調節されたんだなとよくわかったから。
更には、架の「ビール会社社長」の属性をうまく使っていたことで、寧ろ原作よりもスッキリ見れるとさえ思った。
このような枝葉のエピソードの改変は、好意的に受けるとことができた。
そして、もう1つ印象的な変更点を挙げるとするならば、ミステリとしての見応えがごっそりカットされていた点。
というのも、原作小説において、真実の行方は第二章に入るまで明かされない。
更に、第一章での"傲慢"と"善良"の関係性が逆転していく読み応えに相まって、真実視点の種明かしは、ミステリ的な読み応えに大きく寄与していた。
だが、映画では架視点と真実視点が、ほぼ交互に描かれていた。そのため、映画を見ながら、真実の行方に想像を飛ばすことは殆どなかった。
でも、それで良いと思った。
何故なら、この映画で伝えたいのは、エンタメ要素の強い"ミステリ"ではなく、"ヒューマンドラマ"としてのメッセージ性だと思うから。
それを表現するためには、真実視点での時間経過を感じさせることが、必要不可欠だと思う。
原作のように先に架視点を終わらせ、種明かしのように真実編を後ろに持ってくる脚本では、真実の成長がぶつ切りで場面転換されるだけで、退屈な映像になってしまうし、主題もブレる。
時同じくして、架がもがき苦しんでいるからこそ、真実の心理的成長に意味がある。
だから、この改変も好意的に受け取れた。
以上のように、原作と乖離したポイント全てに納得感があり、見ていて本当に違和感がなかった。
繰り返しにはなるが、ミステリに主眼を置かず、ちゃんとヒューマンドラマを中心に描き切っていたことが、大成功の秘訣だと思った。
③物語のメッセージについて
映画を見終わり、発売直後に原作小説を読んだ頃の感想文を見返した。
結果、自分の恋愛観や人生観も、時間経過によって少し変化していることを感じ、何だかむず痒くなってしまった。
小説を読んだ頃は、真美に自分を重ねることが多かった。同じように、過保護な親に色々と決めつけられてきた人生だったから。
幼少から親に決定権を奪われ続けると、知らず知らずのうちに「自分はなんて善良なんだろう、こんなにも親の言いつけを守り続けるなんて」と言い聞かせるようになる。
でも、親以外と社会生活をしていく中で、他人に決定権を全て委ねることは、ズルだ。
だって、責任を背負わないってことだから。
傍から見たら「傷つきたくない」っていう甘えにしか見えない。
でも、本人からしたら、それは甘えなどではなく、「ただ単に意思決定をしたことがなくて、やり方がわからないだけ」という無知さでしかないのだ。
しかし、社会はそんな事情を汲んではくれない。
「善良」しか知らないズルい人間は、「傲慢」だから、社会に受け入れられない。
この善良さと傲慢さのすり替えに、心をぶん殴られた。
善良さは幼稚さに似ている。
傲慢さは生き抜くための生命力に似ている。
以上が、原作小説を読んだ時の感想文の一部である。
映画で改めてこの物語触れ、以前にも増して2人の恋愛模様を俯瞰で見れている感覚があった。
それには、以前より、多少なりとも恋愛経験を積めたことが寄与している気がする。
これは「恋愛経験豊富です」と自慢がしたいとかそういうことではない。
恋愛をしたことで、「他人に自己開示をする」という途轍もなく大事な経験を積むことができ、それが人生に大きな影響を及ぼした、ということである。
人と深い関係性を築こうとしたら、自分を知ってもらわなければ、何も始まらない。
でも、自己開示は怖い。
表現を間違えたら、相手を傷つけてしまうかもしれない。
曝け出した自分を受け入れてもらえず、傷つくかもしれない。
それでも近づくためには、踏み出すしかない。
それが分かってるのに、何かと言い訳を垂れ、踏み出さないから、人間関係がうまくいかない。
踏み出さなかったのは他でもない自分自身のくせに、傲慢が故にその事実を認められないから、責任転嫁で自我を保つ意地汚い人間が生まれる。
自覚を持ちながらの傲慢さと、善良だと信じて疑わないという傲慢さには、天と地ほどの差がある。
「傲慢」と「善良」。
その両方のバランスを、相手や場面に合わせて考えられることが、社交性の正体である。
そして、その扱いが上手になっていくことが、大人になることの一部分なのだと思う。
結婚相談所のシーンで「傲慢さと善良さが、どちらも矛盾なく同じ人間に存在する」というセリフがあったが、そんなの当り前だ。
人は誰しも二面性を持っているのだから。
だからこそ、その二面性をさらけ出したうえで、架と真実がヨリをもどせたことに、この物語の意味がある。
人間の二面性のダサさに絶望させられることもあるけど、それすら愛することができたなら、そこに本物の関係性が生まれるのだ、という希望にもなっているから。
本当に素敵な物語だ。
映画を見て、原作を読んだ時の感想に、あらためて今の自分の感情を乗っけて見ることができた。
それは、メッセージの根幹を変えず、リアルに映像化がされていたからだと思う。
本当に感動した。
制作にかかわったすべての人に、ありがとうと言いたい。素晴らしい映画でした。