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『漫才過剰考察』読書感想文

①はじめに

正しく「過剰」考察だった。

「漫才」について、ここまで論理的且つ系統的に説明されたのは初めてだ。

勿論、塙さんの著作など、漫才やお笑いそのものについて語った媒体には、今までも触れてきた。

だが、本書は余りにも深くて鋭い考察がなされており、数少ないお笑いについて語られた本の中でも、随一で読み応えがあった。

まず私は、井口さんに揶揄される様な、痛いタイプのお笑いファンだと自覚している。

何故なら、お笑いが好きになればなるほど、裏側も好む様になってしまったから。

M-1は、アナザーストリー含めて大好きだし、配信コンテンツの制作秘話とかも、大喜びしながら見てしまう。

更には、お笑いのテクニックや定石などが分かってくると「考察」の様な楽しみ方が始まり、どこが賞レースの決勝に行きそうか予測して楽しんだりするようになった。

「言語化すんなよ、頭空っぽで笑えよ」という言い分は、大いに分かる。
お笑いなんて「理論が透けて見えると冷める」なんてことも、分かってる。

でも、好きになったコンテンツのことは、どんどん知りたくなってしまうのだ。
知識が溜まれば、その知識を使って、予測をしたりしたくなってしまうのだ。
それは気質なので、もう止められない。

だから、せめて違う価値観の方々を不快にしないよう、なるべく批判的な考察はしないように気をつけている。

良かった点を、何故良かったか、考察する。
それだけにとどめているつもりだ。
(これはお笑いに限った話じゃないが。)

だが、こういう楽しみ方をしている人は、きっと沢山いると思う。

自分の身の回りにもお笑い好きが増えたし、ネットでも、日々増え続けるお笑いコンテンツを楽しみにしている方々が、溢れかえっているから。

本書は、そういう層にブッ刺さったと思う。

吉本の舞台で最前線に立ち、色んな劇場で様々な実験を繰り返してきた経験則と、天性の論理的思考と、お笑いに対する異常な愛の深さ。

これらが全て備わった、くるまさんにしか書くことが不可能な文章だった。

以下、それぞれの章の感想。

②M-1グランプリ

M-1グランプリ2023で令和ロマンが優勝した瞬間、ファンとして鼻息荒く「ほらな?」と高揚する自分と、もっと"M-1戦士"として勝ち方を模索するくるまさんも見ていたかったなぁ…という自分がいて、複雑な感情になってしまった。

M-1の優勝者が決まった際、今までは手放しで喜べていたので、こんな感覚は初めてだった。

そして何より、くるまさんが優勝を心の底から喜んでる様に見えなかったのも不安だった。

彼は優勝した瞬間、どんな胸中だったのだろうか。
それがずっと気になっていた。

その答えが、本書で示されていた様に思う。

恐らく、彼の望みは、「2019を超える、過去最高のM-1"出場者"になりたい」なのだと思った。

M-1の、あの爆発を、1番近くで目撃したい。
そのためには、出場者として決勝戦に出ている必要があるのだと思った。

つまり、彼にとって優勝等の順位は二の次であり、自分が出たM-1が過去最高の盛り上がりになることでしか、彼は報われないし、成仏できないのだと思った。

普通は、Mおじの様に、「優勝できなかったから」M-1の亡霊になるのだ。

だが、優勝することによって亡霊になってしまうパターンなんか、前代未聞すぎる。

前代未聞すぎるので、当たり前の様に誰からも理解されないのだと思った。

そして、皆の「優勝したい」と同じ様に、「最高のM-1に出場したい」という願いを叶えるために出場し続けているだけなのに、出場するたび"大義名分"や"理由づけ"が必要になってしまった彼は、まさに悲しきモンスターだと思った。

彼はきっと、目的を叶えるまで出続けるのだと思う。

ただ、彼の願いを叶えることは、優勝するよりキツいかもしれないと思ってしまった。

何故なら、自分がどれだけ漫才が上手くなって客を笑かせるようになろうとも、観客のコンディション・出場者のコンディション・笑神籤の順番など、全ての不確定要素が良い方向に進まないと叶わないからだ。

それらを「運」と片付けるのは簡単である。
だが、彼は運の要素も承知した上で、それ以外の要素を考察し尽くし、穴をなくすことで、M-1という興行の成功確率を上げようとしているのだ。

こんなの、応援したくなるに決まっている。

彼は今、意図的にヒールのムーブをとっているシーンがよく見受けられる。
その方が、連覇に向けての大義名分が分かりやすいからだと思う。

でも、本書を読めば分かる通り、漫才への強くて深い愛が色んな媒体で溢れ出てしまっている。
そして、それが隠し切れないからこそ、お笑いファンの多くは、彼らの連続出場に好意的なのだと思った。

改めて、今年の令和ロマンを、より応援したくなった。

もし決勝に勝ち上がったら、今度は一体何をしてくれるのだろうという想像で、めちゃくちゃワクワクしてしまった。

③「寄席」

芸人雑誌のインタビューでくるまさんが「様々なコンテンツが学問化されて統計的に整理されていくのに、お笑いだけはそれが起こらない。だから、自分が感覚と理論を繋ぐ架け橋になりたい」という趣旨の発言をされていたけど、この発言は純度100%の本気なのだと思った。

この章は、論文だった。

命題に対して仮説を立てて実験し、その際に湧き出た新たな疑問を仮説・検証で解き明かし、最終的に自分なりの理論を構築するなんて、もはや学術文書だと思ったからだ。

まず記されていたのは、"客層"について。
年齢の「縦軸」と地域性の「横軸」で区分けし、それぞれの客層に対するアプローチが事細かに書かれていた。

「私語をする小学生には積極的に話しかけ、悪目立ちさせることで黙らせる」とか、「地方に行く時は放送されているテレビ局を調べ、放送されていない番組のパロディは避ける」など、非常に興味深かった。

そこから、話題は日本の漫才師を東西南北の特徴ごとに区分けするフェーズに入る。

「西」は大阪弁のスピードが速いから、情報量を多く入れられる。その分、文化的に「フリ」→「オチ」の順番を守らないと心地よくないので、コント漫才だと遅くなる。

逆に、「東」の標準語は情報量が少なく会話としてのスピードは出せないけど、ギャップの大きさ故にボケ1発のパワーがあるし、ボケが先でも違和感が少ない。

「南」は宴会お笑いの風潮があり、「本日の主役」であるボケが前に出てきて、ツッコミが「すみませんこういうやつなんですよ」と嗜める。その芸を、ボケが1人で完結できる場合は、独特なピン芸人が出来上がる。

「北」お笑いはボケツッコミ2人の世界。めちゃくちゃ仲良い同級生のノリを覗き見ている様な感じ。だから、コロナ禍に始まるYouTubeやラジオブームとの親和性が高く、トレンドになっている。

この様な東西南北の区分けが終わった後、彼は世界にも目を向けていた。

日本の映画やアニメなどのエンタメが海外に進出し、「あるある」が世界に伝わることで、裏切りの余白が沢山生まれていく。

また、ゴッドタレントの様にルールを説明した上で同じことを繰り返す天丼が受けやすい文化なので、「漫才」のルール説明を提示しながら、それ自体を漫才に落とし込めば、海外でもウケるのではないかと説いていた。

「あり得そう」というか、「この人なら実現してくれそう」という期待が、彼には有る。

日本の漫才が一方的で雑な消費をされるのではなく、文化の需要として海を渡ったら、すごい事だ。

彼の未来に、期待しかない。
本当に楽しみすぎる。

④対談 粗品×くるま

この章は、全文字が垂涎ものだった。
今1番アツいお笑いスター2人の対談なんか、見たいに決まっている。

全体として、粗品さんの考え方に関しては「粗品のロケ」で語られていた通りではあったし、くるまさんのスタンスも本書で語られていた通りではあったけど、改めて2人のことが好きになった。

対談で1番素晴らしかったのは、くるまさんによる「粗品評」。

粗品さんは、音楽・YouTube・舞台・テレビと、全てのフィールドで結果を出しているにも関わらず、全てを「メインではない」と言い切っていた。

普通の人間は、何か強い1本の軸があって、その安心感を持ちながらでしか、他のことを頑張れない。

だが、粗品さんはどれがメインでもない、言い換えれば、全てをメインとして、純度100%を届けている。

それが恐ろしい。

そんな無理難題を実現可能にしているのは、彼の軸が「自分」だから。

「自分」という自らの内側に強い軸があるからこそ、彼から生み出される全てのエンタメに魂がこもっているのだ。

…と言う粗品評に、首がもげるほど頷いてしまった。

この前、彼の音楽活動に喰らってしまい、「なんで全ての活動に対して、こんな熱量でパフォーマンスできるんだろう?」と疑問を持っていたところだったので、その一つの答えが示された様な感覚になって清々しかった。

これからの2人が楽しみで仕方ない。
まずは今年の令和ロマンのM-1を見届けるし、粗品さんの活動もずっと見続けていきたい。

純粋にそう思えた、素敵な対談だった。

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