「推し」とは…
2021上半期の芥川賞候補作が出揃ったこの時期に、ようやく前回2020下半期の芥川賞受賞作品の「推し、燃ゆ」を読んでみた。
装丁のようなポップな感じの作品では無いだろうとは予想していたけど、やはり中身は鳩尾あたりにグーって来るような重さの作品でした。
本人にしかわからない、その時の環境やタイミングから突如衝撃的に現れる「推し」という存在。
その時の自分でもよく分かってない足りなさを補えるんじゃないかとか、なにか希望みたいな物をそこに見出す事の良くも悪くも興奮する感じ…
この本の主人公のあかりみたいにアイドルとか「推し」というような強さではないけど、あかりの推しに対する「取り込みたい」という気持ちにさせる人物が自分にも居るので、その「推し」と本人との歪(なのかな?)な関係性が詳細に表現されていた。
なんとなく今の世の中で上手く生きれてない主人公の推しが、本人にとっての生きる糧、「背骨」と表現されてるあたり、後半につれ中々重い言葉となって読んでる方にものしかかってくるのも身につまされた。
背骨って…人が人間として存在する要なんですよね。
「推し」とされるだけに、相手は芸能人だったり何か線を引いた向こう側に居る存在で、メディアやSNSを通じて同じ時間を生きている人間ではあるけど、そこは住んでる世界がどうしても違う訳で。
けど、同じ人間だからいずれ何かしらの終わりは必ず来てしまう事は誰しも分かっていて、具体的には書かれて無かったけど、推しが現れた時点からずっとその意識は並行して読者にも持たせるような文章に、作者の達観した感覚も見えた。
向こう側に居る「推し」の存在が消えてしまった時、「推し」が主人公と同じ世界線であるこちら側の、その他大勢のうちのひとりの人間になった時、背骨を失った本人はどう生きて行くのか、自分に置き換えてもどうなるのか少し怖くもなった。
漠然と背骨だと信じて生きてきた存在を失った本人にとって、背骨の残骸だけはこちら側のリアルとして残ってしまう。
それらを拾って、こちら側で何とか折り合いを付けて生きて行くのか、背骨だった頃の存在を自分の中で持ち続けて、変わらず糧として生きて行くのか…
どうなるかは本人にしかわからないけど、「推し」という存在が居る全ての人にとって、中々重いというか、ともすれば光り輝いている生きる希望としての「推し」の存在に絶望すら感じました。
「推し」で自分を保とうとする行為って本人にとっては至って真剣だけど、興味のない側から見れば、やっぱり歪に映るんでしょうかね。
この時代、SNSが発達して憧れの存在が身近に感じたりコミュニケーションすら取れるようになってきたので、より入れ込んでしまう事もあるのかもしれないけど、冷静に考えると個人的にはやはりその「推し」でいる間は別の世界の住人である気がする。
「推し」ている間は忘れがちな「その時の終わり」は、ほぼ間違いなく来る事、その時の覚悟やその後の自分の生き方や保ち方をどうするか、それは同時に今を生きていく自分の意識をもう一回再確認させられるような作品でした。