
小説『澄んだ地獄で笑いなよ』冒頭部「さよなら」全文試し読み
こんにちは。大滝のぐれです。
この度制作しました新作小説『澄んだ地獄で笑いなよ』の冒頭部「さよなら」全文をこちらに掲載させていただきます。
川でおぼれかけた男ふたりが付き合い始めたことからはじまる、長い語りと過去の風景、いちゃいちゃしたり髪を染めたりお兄さんと海に行ったり好きだった子の結婚式に行ったりいちゃいちゃしたりする生活を切り取った、幸せと絶望と快楽と怒り、そして失敗のBL小説です。

こちらの本編は同人誌形態での販売となります。
B6 182ページ 700円(直接頒布価格)となります。
・直近で入手可能な同人誌即売会、イベント一覧(電子書籍も配信中!)
Amazon Kindleにて電子書籍好評配信中!!!
Kindle Unlimitedなら無料で読めます。電子版の購入も可能です。
・9/23(月祝) J.GARDEN56(創作JUNE(BL)系同人誌即売会)
@東京ビッグサイト
西4ホール ね05a ウユニのツチブタ
あらすじ
この世界はおれたちをことあるごとに透明化する。
会社のバーベキュー。おれとカナタは川でおぼれて死にました。そういうことにしておいてください。勝手に帰ったし会社も辞めたし。でも実際はどっこい生きている。地獄は継続されている。
服を着たり脱いだりしながら、いちゃいちゃしたり髪を染めたりカナタのお兄さんと三人で海に行ったり昔好きだったやつの結婚式に行ったりいちゃいちゃしたりする日々。おれたちはふたりで楽しいし気持ちいい。どろどろのぐちゃぐちゃ、べちゃべちゃのずぶずぶになるのがいい。
幻滅した? こんなの聞いてないと思った? でも忘れてないか。おれたちは『特別』でも『括り』でもない。皆と同じ『ひとり』だよ。
死にかけた男ふたりが、笑い合って送る生活。そのしあわせと怒り、悶々とした日々の日常系。
・澄んだ地獄で笑いなよ 冒頭部「さよなら」全文
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さよなら
●
休日のバーベキュー場は白飛びしそうなほどの強烈な日差しに包まれている。ここ数日は終電まで仕事を、いや一日だけ徹夜があったか、先週のことだったか、いや、やっぱり昨日のこと? うまく考えがまとまらない。その状態でおれは笑みを作る。周りには、肉を頬張り酒をひたすら流し込む会社の同僚や上司たちがいる。車を降りてこの河原にたどり着いたときから、いや、数時間前に会社前へ集合したときからずっと、その顔は笑顔に固定され続けている。
「おら、樫野も飲めって」
そばにいた同僚が、手に持った缶ビールをおれが持っている別の缶にかちん、と打ちつけてくる。乾杯。杯を枯らすということ。気がつくと体が動いていた。喉を滑るぬるい苦味。肉のやけるにおい。アルコールによって熱を持った顔。その上に重ねられる日差し。同僚や上司たちの笑い声。それらすべてが、おれの全身を抱きとめていく。
「あー! 須藤さんそんなの向けないでえー! 打たないで!」
「うはは、くらえ俺のビッグマグナム! ビシャー!」
「いやー! 見てよみんな、びしょびしょー! すどうさぁーん、やめてくださいよぉ」
「ふぅ。気持ちよかった。なあ、だろ」
「あっちょっとやだ触らないで、あ、や、やだー、なんかきもぉーい」
おれたちがいるコンロの近くで、どぎついアロハを着た須藤という大柄の上司と、おれと同期入社の女性社員がはしゃいでいる。そのさまを眺める他の社員のように笑い声をあげようとしてみる。が、唇の端がくいっと持ち上がるだけで、どうがんばっても声を発するまでにはいたらない。空っぽになった缶をかたわらのごみ袋の中へ捨て、クーラーボックスを開ける。氷水で満たされたそこから、すこし迷ってオレンジジュースの缶を取り出す。プルタブを起こして一気にあおると、きんと冷えた甘味が胃へ落ちていくのがわかった。
「隙あり! あっ、あっ、いくぅ」
須藤さんが叫ぶ。股間あたりにすえられた水鉄砲から、水がふたたび同期めがけて放出される。が、そこにはもう誰もいなかった。彼女は駆け足で近くのテントへ移動している最中だった。
さえぎるものなく直進した水が、鋭い線を描いて飛んでいく。その先には別のグループが使う大きなコンロがあった。降り注ぐ水が、そのうえの肉や魚やピザをじっとりと濡らしていく。こちらに負けないぐらいの大声ではしゃいでいた彼らが、文字通り水を打ったように静かになった。ごついチェーンのネックレスをした男と、蜘蛛やカラスのタトゥーが肩に入った金髪の女が、こちらをじっとにらむ。やがて、その体がゆっくりと、こちらへ向かって動き出した。
その瞬間、おれの周りにいた社員たちはあんなにべらべらと動かしていた口や舌をきゅっとしまい、早足でどこか別の場所へ散り散りになっていってしまった。水鉄砲を放り捨てた須藤さんが、ずりずりと後ずさる。先ほどまであたりに放出していた気力や楽しさは、もうどこにもない。あんなに大きかった体も、なんだかすっかりしぼんでしまったように見える。
まだ冷たさの残るジュースの缶を握りながら、おれはその場に立ち尽くす。すこし迷ったが、周りにいた大多数の同僚の動きにならうことにした。背に腹は変えられない。おれが出ていったところでどうにかなるとも思えない。
今いた場所よりも川から近いところに置かれたコンロへ逃げ込むと、そこには直属の高倉さんという上司とその同僚の一団がいた。肉は焼いておらず、彼らは網の上に置いた大きなアルミトレイの中で焼きそばを作っていた。そのさまを眺めていた数名が、ぞろぞろとやってきたおれたちに気づいて顔をあげる。瞳だけが動き、視線がくっと後ろにずれる。強固な笑みは崩れない。むしろ、さらに頑強に作り直されていく。
「パパー、まだなのー。ナユ、おなかすいたよぉ」
「ちょっと待ってなあ」
フライ返しを握った手の甲で高倉さんが額をぬぐう。かたわらには彼の腰よりもすこし高いくらいの背をした女の子と、膝へ座らせたその子をなだめる女性がいる。社内行事には家族や恋人なら連れてきてもいい、というきまりがこの会社にはあった。あたりを見渡すと、他にも見慣れない顔ぶれがいくつか確認できた。
「おお、樫野」
「お疲れ様です」
高倉さんの隣に陣取ると、流れるようにフライ返しを渡された。そのまま焼きそばの調理を交代する。麺の中に入った大ぶりのほたてやバラ肉、にんじんや玉ねぎなどがホイルの上でごとごと揺れる。
「助かった。ちゃちゃっと頼むわ、娘が待ってるから」
缶ビールをあおりつつ、彼はそばにあった椅子にどっかりと腰かけた。派手な水着から突き出るがっしりとした足が折りたたまれ、肉が盛り上がった太ももがおれの視界に広がる。その隣の椅子に座っていた奥さんはすでに立ち上がっており、次に焼く予定と思しき冷凍ピザや肉の準備をしている。その足元では、娘さんもクーラーボックスを開けてチーズを取り出していた。
「お前バーベキュー何回目だっけ」
「あー、覚えてないですね。てか高倉さんも覚えてないですよね」
「まあね」
「あ、多分ゲロのときが最初ですよ」
「ああーあれね、勘弁してほしかった」
入社して最初に参加したバーベキューで、おれは高倉さんに異常な量のビールを飲まされ、彼の体に嘔吐していた。太ももまで川につかった状態で向かい合いながら飲んでいたため、顔をそらすのが間に合わなかったのだ。あーあ、なにやってるんだよ、しょうがねえな。そう言いながら、彼は着ていたTシャツをためらいなく脱ぎ捨て、腰ぐらいの深さの場所に移動してそれをすすぎ始めた。
「あの、本当にすみません」
その背中へおれは声をかけた。皮膚の下についた筋肉と、そのまわりにわずかにまとわりついた脂肪。なんとなくこの光景、アングルに見覚えがある気がして別の意味でとまどう。用水路から届く泥のにおい。尻に伝わる自転車の荷台の固さ。その前に広がる、大きな背中。どこからか引っ張り出されてきた記憶が、目の前の光景に重なる。
「気にすんなって」
その瞬間、おれの頭は大きな手のひらでわしわしとなでられていた。大丈夫だって、飲み会なんざ粗相してなんぼなんだから。高倉さんはそう言ってにいっと笑った。まただ。またか。心の端にあるおれの冷静な部分が、小石のような言葉を吐く。が、止めることはできなかった。バーベキュー場があたたかな光に包まれていく。下半身を包む川の水だけが、そこに集まり始めた熱を収めるよう主張してきている。
その日以降、高倉さんは色濃い影となっておれの枕元に立つようになった。仕事で理不尽にどなられたり突き放されたり体を小突かれたりしても、一転してお前のためを思ってやってるんだぜと言われたり、お前以上にできた後輩いないよいつもごめんななどと優しい言葉をかけてもらったりしても、それは変わらなかった。むしろ『厚み』が増したことで、扱いやすさのようなものを感じてすらいた。要素が多くなればそのぶんさまざまなことを、都合のいい妄想のバリエーションを考えることができるようになる。樫野、俺、実はさ。そんな感じの枕詞で始まるようなこと、開示される事実。それを付加することができるようになる。それは昔からのむなしい特技だった。だから、おれはそうして夜な夜なティッシュを丸めてはごみ箱に叩きつけるように捨てるはめになった。
「にしても暑すぎる、まだ七月始めでしょ」
そう言って高倉さんはうーん、と伸びをした。着ているタンクトップがそのぶんめくりあがり、わずかに肉のついた腹があらわれる。腹筋の輪郭と、まばらに生えたへそ周りの体毛。軽い咳払いをして、焼きそばをフライ返しで混ぜ返す。視界の端で彼はストレッチも始める。がっしりとした体のあちこちが、様々な角度に曲げられたり伸ばされたりしていく。筋肉もそんなになければ体つきもいいわけではないおれとは、まったく違うつくりの肉体。こんなものに力ずくで組み伏せられたら、ぜったいに逃げられない。
そう思った瞬間、雲の塊が頭上の太陽を覆い隠した。あたりに広がる景色や食べものや人に、薄い暗がりが膜のようにはりつく。やっぱあちーな。高倉さんがタンクトップの肩紐に手をかける。そうですね。おれもTシャツの首元をつまむ。
そうしておれと高倉さんは全裸になる。立ちつくすおれの横から、高倉さんの汗のにおいが押し寄せる。太い腕を肩に回し厚い胸板を押しつけ、彼はおれのことをぎゅっと抱きしめてきた。
地面に映ったふたりぶんの影が、あいまいなひとつの塊になっていく。後退気味のセンター分けの髪、笑うと目元と口の端によるしわ、剃り残しのあるひげと大きな唇。首をよじって向き合ったその顔を見るたびに体温が上がる。たまらなくなり、おれはそこに近づいていこうとした。汗のにおいと放り出してしまった焼きそばのにおいが、一緒くたになって鼻をかすめる。口を引き結んだ高倉さんの顔が、徐々に大写しになっていく。
が、そこで急に視界がぶれた。突き飛ばされた。そう思う間もなく、後頭部と背中に衝撃を感じた。河原の石の上で起き上がろうと身をよじるが、馬乗りになってきた高倉さんの体が重しとなりそれは叶わない。筋肉で膨らんだ右腕が、ゆっくりと振り上げられる。高倉さんがにいっと笑う。昔、おたがいに足を水にひたしながら向けてきたものと、同じように。
その瞬間、痛みと破裂音が勢いよく体を突き抜けた。てのひらの形をしたひりつきを胸に感じながら、おれは食いしばった歯の間から息を漏らす。それに構わず、高倉さんは同じ場所を何度も執拗に平手打ちしてきた。別に我慢はできた。でもあえておれは声をあげた。魚のようにびくびくと体をよじった。楽しいと思っているのでそうした。待ち望んでいたのでそうした。
「うわ、勃ってんじゃん。おい、なあ、聞いてんの。もっと強くしてほしいか。え? 言ってみろよ。ほら。なあ」
弾んだ声におれは答えられない。限られた視界の中であたりを見回すと、他の社員やグループはもちろん、高倉さんの奥さんや娘さんまでもが、何事もないようにバーベキューへ興じているのが見えた。とつぜん裸になったおれたちはあまりに異質なのに、誰もそれに気づいていない。透明。今のおれたちは水や空気と同じだった。奥さんが、娘さんが。それでもおれは言ってみた。もっともらしいことを口にしてみた。が、あえなくそれは無視される。
ぱしんと太ももが叩かれる。おれの体から足や尻をどけ、彼は膝立ちの状態になった。言葉はなくともやるべきことはわかっていた。すばやく起き上がり、おれは体をひっくり返して四つん這いの姿勢を取る。犬みてえ。背後で高倉さんがけらけらと笑う。わんっ。冗談めかして吠えると、突き出した尻をひっぱたかれた。わんっ。おれは犬になった。
四つん這いになったおれの下半身に、高倉さんが熱くて固いものを押しつける。目をつむると、それは頭の中ではっきりとした輪郭を持ち始めた。太くて長いもの。荒い息。こすりつけられるなにか。おれは先ほどよりも大きな声で吠えた。すると、なんの前触れもなく尻の肉をわしづかみにされた。普段は外気に触れていない部分が広げられ、そこに指が浅く出入りする。きゃいん。おれは想像上の尻尾を垂れ下げる。
「なあ、樫野、いいか」
高倉さんの動きが止まり、汗ばんだ体がおれの背中へしなだれかかっていく。尻から離れたてのひらが、おれの体を優しくなでさする。首をめいいっぱいひねり、今度こそおれは高倉さんの顔へ近づいていく。
「本当に、いいんですか」
答えを予想しながらおれはたずねる。眼前に広がった彼の目元や口元に、しわがきゅっと寄っていく。仕事で怒鳴られ殴られ責められ、最後に飲みの席などで向けられる、その笑顔が目の前に広がる。
「いいよ」
酒臭い息が顔の上を転がる。その言葉におれはうなずく。うなずくしかなかった。考える間もなくうなずかざるを得なかった。てのひらが体から離れたかと思うと、それは股下へ潜っておれのちんぽを握り込んだ。あいたもう片方の手で、尻の穴が広げられる。応えるように息を長く吐く。その先を、予感する。
その瞬間、唐突に彼の笑顔と、ちんぽを包んでいた感覚が消え失せた。きた、と思う間もなく、ずどんという衝撃が尻に走った。四つん這いが維持できなくなり、地面へうつぶせに倒れ込む。歯を食いしばってうなりながら、ちんぽのあたりに広がる鈍痛に耐える。足によって尻がぐりぐりと押さえつけられているため、それが弱まっていくことはない。
「たかくらさん、いたいです、たかくらさ」
「ははは、嘘だよ」
お前だって、わかってただろ。サッカーのパスのような要領で足蹴にされ、体が自然と仰向けになる。服従の姿勢。わんと鳴いた瞬間にちんぽを踏まれ、おれは声にならない叫びをあげる。悲鳴なのか喘ぎ声なのか自分でもわからない。嫌だ逃げたいという気持ちと、やめないでずっとこのままでという気持ちがないまぜになる。混乱したあそこは固くなることを選んだ。弧を描いた唇を高倉さんは指でなぞった。これがいいのかよ、へえー。博物館のキャプションを読むような調子の声がする。やっぱり、こうなってしまったら逃げられないんだ。ふと頭に浮かんだ言葉に、身じろぎをとめる。が、遅れて快感がやってきてたまらず腰をよじった。彼の湿った足の裏で、おれのちんぽはまったく硬さを失わない。
竿そのものやらその根元にぶらさがったものをいじられながら、終点がすぐそこにあるのを感じる。湿った息とあえぎをそのままにして、はいのぼってくる気持ちよさに身を預けようとする。が、計ったようなタイミングで高倉さんはそこから足を離してしまう。光量を取り戻しつつある太陽光に照らされ、汗と体液にまみれたあそこはぬらぬらと輝いていた。
「なんで、なんでなんでなんで」
「まだだめ。俺がいいって言うまでだめ」
「むり、もうむりぃ、おねがい、おねがいします」
もう、我慢できない。でも、だめなのだ。それは許されない。高倉さんに許可をもらわないといけない。すべては彼にかかっている。もし飽きられてしまったら、永遠に快感は得られない。が、他ならぬおれもそのラインを想像しながらぎりぎりのところで反復横跳びをしている。いきたいいきたい、おねがいおねがい、と振る舞って楽しんでいる。織り込み済みの関係。いったい、いつから結ばれているものなのか。
視線の先で、ちんぽがぴくりと下へ動くのを見た。が、それは力を増した高倉さんの足に踏まれたり潰されたりすることで元気を取り戻した。頭の中が白く染まっていく。河原に広がる景色に、遠ざかっていた鮮やかさが戻ってくる。雲から太陽が顔を出す。屹立した塔が、音を立てて崩れ落ちていく。
「高倉さん、焼きそばできましたよ」
「おっ、サンキューな」
なんでもないような顔をしてアルミホイルの上の焼きそばを盛り、目の前の高倉さんへ渡す。それを皮切りに自然と配膳係になってしまったおれは、焼きそばの完成を聞きつけやってきた社員やその同行者の対応に追われた。それが一段落するころには、アルミホイルの中にこんもりとあった焼きそばはほぼなくなっていた。端の方に残っていた麺や野菜のかけらを拾い集め、自分の皿に乗せる。ひそかに狙っていたほたては、とうぜんどこにもない。切れ端すらも見つからなかった。
先ほどビールを飲んでいた場所で、高倉さんは家族と楽しそうに焼きそばを囲んでいた。もちろん全裸ではなく、きちんと服を着ている。脱いだ形跡はない。ゆっくりと下を向くと、わずかに輪郭を際立たせた自分の股間と目があった。あれは幻じゃない、本当にあったことなんだ。そう主張しているように見えた。
マシュマロでも焼くかと思い立ち、かたわらにあったそれを竹串にさして火にかける。焦げないようにくるくるとそれを回していると、高校生のころにやっていたモンスターを狩るゲームのことを思い出した。自分の分身たるハンターは、普通にしているとお腹が減っていってスタミナがなくなってしまう。そのため、ときおり草食モンスターの肉をこんなふうに回して焼いて食料調達をする必要があった。そのときに流れる曲やシステムボイスを、おれと当時いちばん仲の良かった友人はよくふたりで真似していた。彼に至っては、ギターで耳コピしてそれを弾いてもみせていた。部活の後。昼休み。休日の彼の家。あらゆるところで耳にしていたはずのそれは、もうどこからも聞こえてこない。焦げたマシュマロの端に火が灯る。あたりにただよう甘い香りに、不快な、つんとしたにおいが混じる。
「あっちー! 泳ぐぜー!」
その瞬間、おれの横を誰かがすばやく走り抜けた。風圧で消火はされたが、その代償としてマシュマロのほうは地面にぼとりと落ちてしまった。ああ、というおれの声と自身の軽快な叫びの余韻を置き去りにして、彼は川に勢いよく足を突っ込んだ。日焼けした高倉さんとは対照的な白い足、サイドに三本のラインが入った青色の水着、足と同じ色をした背中、シュノーケルで押さえつけられて髪がもこっと盛り上がった頭。それらが、深い緑に染まった水に順繰りに飲み込まれていく。
「あいつはほんとに元気だな」
「え、ええ、そうですね」
いつのまにか隣にいた高倉さんがそう言った。あいまいな笑みを浮かべつつ、かたわらのキッチンペーパーを一枚引き出し身をかがめる。落としたマシュマロを片付けながら記憶を探るが、やはり彼に見覚えはない。この会社ではよくあることだった。知らない顔がいつの間にか社内を闊歩していたかと思うと、毎日顔を合わせていたはずの人の姿が急に見えなくなってしまうのだ。
そんな彼は水の中でぷかぷかと浮かんだり泳いだり、急にどぷんと体を沈めたりして遊んでいた。水しぶきが、そのたびにばしゃばしゃと舞い上がる。おれや高倉さんがいる河原の石の上とは違い、山側の奥まったところにある川は容赦のない日差しと無縁の場所になっている。きっと、冷たくて気持ちいいことだろう。
おでこの汗を手の甲で拭い、Tシャツの裾をつまんで体をあおぐ。履いている水陸両用のナイロンパンツの右側、膨らんだポケットの中身が太ももとこすれる。そこから目線を下に向けると、素足を包むマリンシューズとも目があった。隣の高倉さんはオレンジ色のビーチサンダルを履いている。
「なあ、だから肉。どうすんだよこれ、なあ」
「え、えっと」
怒号が響き、おれと高倉さんは顔を見合わせた。そうだ、須藤さん。彼が危機的状況にあることを、こっちも若干巻き込まれそうにあることを、すっかり忘れてしまっていた。
無視だ、無視。高倉さんのささやきを聞きながらそれでも声のほうを見ると、彼が後退しながらこちらへ近づいてきているのがわかった。子犬のような目が、ちらちらとおれたちへ向けられる。が、その視線は誰ともかち合わない。河原の石。落ち葉。誰かが放置したゴミ。サンダル。靴。足。川面。おれたちの視線はどこにも繋がらない。せわしく動き、そこに映る世界から須藤さんの姿を切り離していく。
その途中で、彼といっしょに水鉄砲ではしゃいでいた同僚の姿を見つける。てのひらで顔をあおぎながら、テントの中にいる彼女はお酒を片手に社長や他の社員と談笑していた。ゆるくて楽しいバーベキューは続いている。今いる場所に誰もがぴったりと固定され、明るくフレンドリーな空気を放つ役割をまっとうしている。
暑い。急にその気持ちが強くなった。絶え間なく体をつたう汗のしずく。まとわりついてくる湿気。それらが、とにかく耐えがたいものに思えてきた。高倉さんの酒臭い息を感じながら、おれはその場で足踏みをする。涼やかな空気をまとって流れる川は目の前にある。が、高倉さんや須藤さんのことを意識するたび、それはすこしずつおれのもとから離れていってしまう。が、対照的に妄想はこちらへ急速に近づいてきた。ふたたび日が陰り、組み伏せられたおれの中へ高倉さんがずぶずぶと分け入ってくる。それは指ではない。ふくれたあそこだ。感情の一端を、場合によっては言葉よりも如実にあらわしてしまうそれが、おれの中のいたるところへ牙を立てていく。そのたびに濡れた皮膚同士が打ちつけられ、奇妙な音を立てた。
もう、嫌だった。なにも言わない真面目な顔の裏でこんな想像をしてしまう自分自身も、こういったものを人生のところどころで幾度も差しはさまれ見せつけられ、でもそれ以上のことは現実ではぜったいに起こり得ない、こんな世界も。
尻の奥でうごめく快感に荒い息をつきながら、遠くで流れる川へ目を向ける。そこには心底楽しそうにしている男がいる。足をぴんと水面に出して川底へ潜ったり、くじらのようにシュノーケルから水を噴き出して浮上したりしながら、彼は魚よりもはるかにぶかっこうな、でも人間にしかできない動きで軽やかに泳ぎ回っていた。
あーやっべ、きもちいい。高倉さんの声が吐いた息に溶ける。それを想像の中で聞く。ほら、もっと飲もうぜ。現実の彼が水滴のついた缶ビールを差し出してくる。ゆっくりと缶を手に取ると、汗ばんだてのひらがすっと冷たくなった。
おれは足踏みを止めてしまう。目線だけは川面に注ぐが、それもビールを飲むうちに逸れがちになっていく。おれはきれいにごまかしてしまえる。今までの人生でも、幾度となくそうしてきた。この会社に入ったときも、学生時代を過ごしていたときも、もう細部を思い出せないできごとが起きたときも、危機的状況にある須藤さんをながめている、このときだってそうだ。下からは妄想で突っ込まれているちんぽ、上からは飲んでいるビールに体を埋められながら、おれは高倉さんとなにかを話す。内容はあまり頭に入ってこない。それでも意識だけは、川を泳ぐあの男に置いていた。
だから、おれはすぐに気づくことができた。小さな違和感だったそれは、ほどなくして確信に変わる。先ほどまであんなに軽やかだった彼の泳ぎが、精彩を欠き始めていた。シュノーケルからぴょろぴょろと水が噴き出すことが増え、水面からたびたび出ていた頭が、目元以外を残してまったく見えなくなる。視線も、川底ではなく岸のほうに向き続けているようだった。いつかネットの記事で見た、おぼれている人の特徴が頭をよぎる。文章といっしょに掲載されていたイラストと、目の前の彼の姿が、ぴったりと重なる。
いやいや、そうはいってもふざけているだけかもしれないだろ。頭の中で声がする。マリンシューズを履いた足にぐっと力が入る。でも、もし本当におぼれているとしたら。頭の中で響く悲鳴のようなおれのあえぎと、須藤さんの叫び声が重なる。血管の浮いたごつい手に胸倉をつかまれ、ぷらぷらと揺れる彼のつま先は河原の石をひっかいていた。
「おい、てめえら一緒のグループなんだろ、こいつがやったことどう落とし前つけてくれんだよ。なあ」
怒号が河原に響き渡るも、笑顔と幸福にまみれたバーベキューは揺らがない。さすがに社員の家族や恋人がどぎまぎとし始めたが、それはそうなったそばから肉の入った皿や飲みものの入ったプラコップを手渡されたり、会話に引き入れられたりビーチボールを差し出されたりすることで鎮静化がはかられていく。須藤さんを持ち上げたまま、男や金髪の女たちが白けたような表情であたりを見回す。唇がひくつき始めるのを感じた。胸元のTシャツを引き寄せ、顔面の汗をぬぐう。
「やあ、みんな楽しんでるかな」
やけに大回りをして、社長がテントから出てこちらへ近づいてくる。頭頂部でお団子にした髪、派手なバンダナとタイダイ染めのTシャツ、耳にはまったぶっといイヤリング。丸っこい体をどすどす揺らしながら、彼女は須藤さんのほうをいっさい見ることなく社員やその家族と乾杯をしていく。お疲れ様です! 最高です! 楽しいです! ありがとうございます! いずまいを正し、その場にいる全員が深く礼をする。おれもそこに混じる。
「よかったよかった。でも、そんなにわたしにばかり感謝することはないんだよ。この場は、ここにいるみんなが力を合わせて『創った』ものなんだから。いやあ、それにしてもね。みんな。これが平和なんだよ。こうして酒やおいしいものを囲んで語らえば、おのずとそれは実現するんだよ。わたしは、世の中にその事実を知らしめるような仕事をしていきたいんだ。だからみんな、ここにいる自分以外の全員に、感謝するようにね。『PEACE,LOVE,ACTION.世界は私たちがよくしていく』だよ」
社訓の一節をまじえつつ、うっとりと彼女は語った。言葉は粒子のようにぱっと散って広がり、それを吸い込んだ社員たちは、喜び勇んで感謝の言葉を口にし始めた。
「樫野、いつも本当にありがとう!」
高倉さんがおれの肩をぐっと抱く。あー、いくいく、出すぞ、中に出すぞ。彼の腰の動きが早まり、おれの中に詰まったものの輪郭がいっそうはっきりしていく。たかくらさん。あえぎの隙間で、彼の名前を呼ぶ。応答はない。がんがんという衝撃と、尻の肉をぎゅっとわしづかみにされる感触だけが手元にある。ちかちかし始めた視界の中、地面に手をついたおれはひたすら川面へ目を向ける。そこにはまだあの男がいた。が、その体はぷかぷかとうつぶせで浮いているばかりだった。濡れそぼった髪。動くことのない手足。色を失った肌。水も空気も吹き出さないシュノーケル。妄想のくせに、それはやけにリアルに感じられた。
高倉さんの腕が肩から離れ、彼は社長の元へ駆け寄っていく。折りたたみテーブルに須藤さんが突き飛ばされ、酒のびんが割れる音と悲鳴が響く。その中でも、おれは水に沈みかけている男の姿を見つづけた。妄想と違い、彼はまだかろうじてもがいている。気づいているのは、本当におれだけなのか。でも。いや。だって。おれの声色をしたなにかが、頭の中で絶えずわめく。ぎゃり、と足元で石がこすれる。愛と平和が。楽しいね。てめえふざけんなよ。謝れ。殺すぞ。周りで発せられる声も加わり、外と内とで生じた言葉たちはやがて大きなうねりとなった。おれはポケットに手を突っ込む。その中のものをぎゅっと握る。舌打ちが、響く。
それが自分の口から出たものだと気づいたのは、川のほうに大股で歩きだしてからだった。あらゆる狂騒と高倉さんの裸とちんぽが遠ざかり、体が強烈な日差しから逃れていく。手を入れていた水陸両用パンツの右ポケットから、握りしめていた真っ黒なゴーグルを取り出す。バーベキューが始まったときから、その用意をしていたときから、ずっとそこにしまっていたものだ。それを装着し、Tシャツを脱ぎ捨て後ろに放る。振り返ることなく、おれは眼前の深い緑へ体を滑り込ませた。
瞬間、体へ張りつく汗やじっとりとした暑さ、食べものや煙のにおいが溶けるように消え去った。黒みがかった視界の中に、透き通った水と流れる枯れ葉や枝、川底を滑る小魚の群れだけが広がる。それ以外のものはきれいさっぱりなくなる。
冷たい。気持ちいい。本当はもっとはやくこうしたかった。川に飛び込んでいく彼を見て、ずっとうらやましいと思っていたのだ。飛び込めるほどの深さがあるのはわかっていたが、こうしていざ入ってみると思ったより深く、流れも強い。気を抜くとこちらもおぼれてしまいそうだった。
平泳ぎで彼のすぐそばまで近づき、おれはいったん水面に顔を出す。思い切り息を吸い込んで潜り、脇の下から手を差し込むようにして彼を持ち上げようとこころみる。まずは息を吸わせるつもりだった。が、そこでようやく、おれは自分がどれだけ浅はかな行動をしてしまったかに思い至った。
あ、やばい。そう思う間もなく、男がものすごい力でおれにしがみついてきた。体がぶくっと沈み込み、水面が遠ざかる。足先がきんと冷えた水に触れた。あわてて男を弾き飛ばすが、そのたびに彼は死にものぐるいでこちらにしがみついてきた。マスクの中は大粒の水滴に満たされており、表情は伺えない。渾身の力でもがいてみるが、体はまったく思うように動いてくれない。頭上に広がる水面とその向こうの太陽が、ひとごとのようにゆらゆらと揺れている。やめっ、はなっ。なんとか口元あたりまでは水面に出すことができたが、なにか言おうとするたびにまた川に引き込まれてしまってそれはかなわない。しかたなくがぼがぼと同じことを水中で語りかけてみるが、それはもちろん無駄だった。そもそも聞ける状態にないのだろう。彼の指の爪がぐにんと背中にめり込む。痛みは感じない。感じたかもしれない。わからない。
おぼれている人を飛び込んで助けようとしてはいけません。いつか見たその言葉が頭の中を回る。おぼれる。息。水。死ぬ。死ぬ。だんだんとそのことしか考えられなくなり、どっちが川面でどっちが川底かわからなくなる。そうしているうちに、日が差し込む水の中に、さまざまなものが見え始めていく。会社の事務室。ひとりで住んでいる高円寺の1K。大学の大教室。高校や中学のときの教室や部室。よく通った友人の家。後ろから見上げる大きな背中。下着に描かれたでかい犬。ぎゅっと握られたてのひら。ぶく、と口から泡が漏れる。銀色をしたそれは、小さくふるえながらその走馬灯じみた光景をすり抜けながら上へとのぼっていく。手足が重い。もがくのがだんだんと億劫になる。まあ、もう、どうでもいいか。苦しいはずなのに、毛布にくるまれているかのようなあたたかな気持ちを感じる。水の冷たさが増幅させていた不安感が、最初からなかったかのようにすこしずつ消えていく。
その中で、はっきりと人の声のようなものがし始めたのにおれは気づく。なにかをくわえたままで喋っているような、うめきとも言葉ともつかないくぐもった声。おれはそれになにも返すことができない。ごぼっ、ごぼっ。体が勝手に痙攣し、手でふさいだ口の隙間から泡の塊が漏れる。真っ黒で冷たい、すぐそこまで迫っているなにかが、わかっているはずなのにまったくぴんとこない。目の前の男が、ようやくシュノーケルから口を離す。そこから小さな泡がいくつかあらわれる。が、それだけだった。もうその口は動かない。なにかを言ってくることもない。あたりは静かになった。冷え切った水に手足を掴まれる。意識が、すこしずつ遠ざかっていく。
その瞬間、足先がなにか固いものに触れ、ずぶずぶとその中に沈み込んだ。と思うと感覚は消え、またあらわれた。それが何度か繰り返され、徐々に足がうずもれる面積が増えていく。走馬灯を映していた透明な水に、茶色いもやが混じる。足元から舞い上がるその砂粒ひとつひとつが、肌や腕の毛に跳ね返っては落ちていく。
そこでおれは我に帰る。ごぼりと泡の塊を吐き出し、かたわらの男の肩を抱く。どうやら、浅瀬へ向かう流れに体がひっかかったらしい。彼を引っ張りながら、渾身の力で水をかく。普通ならそんなことはぜったいに無理だが、幸か不幸か彼の体はすっかり脱力してぐったりとしてしまっており、なけなしの体力と無様な泳ぎでもなんとか運ぶことができた。
ややあって、両足が砂利をしっかりと捉える。そのまま立ち上がると、水から上がった体が久方ぶりの日の光に包まれた。鼻になだれ込む草と水のにおいを、何度も吸い込んでは吐き出す。ゴーグルを外した視界がぼやけて震え始める。助かった、助かったんだ。そう思うと涙で視界がうるんみ、今さらのように水の中でもうどうでもいいか、と思っていたことがおそろしく思えてきた。
ごぼごぼと咳き込みながら足を動かし、深みから離れていく。完全に両足が水から出た瞬間、限界がきた。受け身も取れないまま、おれはその場にいきおいよく倒れ込む。支えを失った男も、とうぜんいっしょにおれの隣に倒れてしまう。急いで立ち上がろうとするが、体がまったくいうことを聞かなかった。どんなに頑張っても、手足にすこしも力が入らない。
なんとか動かすことのできる首をかたむけ、かたわらに倒れた男の顔を見る。シュノーケルは口から外れていたが、あいかわらず顔を覆うくもったマスクはそのままだった。肩や胸が激しく上下しているのを見るに、どうやらちゃんと意識はあるらしい。ときおり、おれよりもさらに水を含んだような重い咳払いもしている。すこしずつ動くようになってきた手で、彼のマスクを外す。焦点のさだまっていない細い目がそこからあらわれ、ゆっくりとこちらをとらえていく。なにか言うかと思ったが、口からは湿った咳が出るばかりだった。無理もないだろう。というか、おれよりも長く沈んでいて意識を保てているのが不思議なくらいだった。
身じろぎくらいはできるようになった体で、大の字にあおむけになる。降り注ぐ日の光を全身で受け止め、彼がしゃべりだすのを待つ。それにしても運が良かった。あのままでは自力の脱出は無理だっただろう。もし、岸へ向かう流れにつかまることがなかったら。そうでなければ、今ごろ。
「俺たち、死んじゃったんすかね」
声のほうへ顔を向ける。真紫になった唇が不吉な言葉を吐いていて、思わず笑いそうになる。が、楽観的だったその気持ちはあたりを見回すたびに不安に埋めつくされていった。草原と石だらけの河原。川を挟んで広がる林と藪。おれたちを取り巻くそこに、肉が焼けるにおいやアルコールの香り、人のざわめきや怒声などはない。気配や残り香すらも感じられない。あたりは不自然なほどの静寂に包まれていた。
「ごめんなさい。俺のこと助けようとしてくれたんすよね。嬉しかったっす。でも、ごほっ、うえっ、すみませ、まだ水が」
「いやいやいや」
たしかに走馬灯っぽいのは見えたけど、そんなことある? 本当に? そう思うが、頭ごなしに可能性を否定できるような材料も見つからない。会話はできているし体の感覚もある。こういう景色の場所がこの川にあることも行きの車から見て知っている。が、死後の世界はそういうものです、と言われてしまえば納得するしかない。ぐっしょりと濡れた頭をおれはかく。どっちだ。どっちなんだ。
「どっちなんでしょうね。天国か、地獄か。地獄は嫌だなー」
「まって、勝手に話を」
「あ、引きましたよねすみません。でも、どうせなら天国がよくないっすか。この世界がもう地獄みたいだし。楽しくないじゃないっすか。つらいこととあらゆることが引き換えでーす、みたいな顔して。狂わないようにえさと漫画だけ与えられて後の時間は殴られながら檻に入れられているみたいな。はーあ、死にたい。いや死んでるのか、死、あ、あははは! だめだなんか、酸素吸いすぎてハイになっちゃってる。ごめんなさいこんな話、ひきますよねすみません」
「い、いや。別に引きはしないけどそうじゃなくて。死んでる前提で話を進めないでって」
「引かないんですか」
「え。あ、うん」
男がのそりと起き上がる。徐々に青白さが消えつつある顔、その中にある彼の目が、すこしだけ見開かれる。
「いや、でもたぶん死んでるっすよねこれ。俺たち以外に誰もいないし」
「いやいや。息吸えてるじゃん話せてるじゃん。それに、腕をつねると痛いし」
「そういう感じなのかもしれないじゃないっすか、本当は」
「まあそうかもしれないけど。そんなこと言い出したら」
そう言い合っている間も、他の人間や生きものの気配を感じることはなかった。体が回復して余裕が出てきたのか、男はへらへらと笑い始める。そっかー、俺死んだのかー、へへ。後ろ手をついて彼は空を見上げた。それを見つめるおれの視線に気づいたのか、今度はあちらがおれのことをじっくりと観察してきた。瞳が一瞬のうちに上から下へ動いたのを感じる。
「てか、初めましてっすよね。あの、一緒の会社の、方……?」
「そう。おれも会うのは初めてだよ。さっききみが川に飛び込んでいくのを上司と眺めてたときに、同僚だって聞いた」
「あ、それはそれは、お恥ずかしいところをお見せしたっす。川でバーベキューするっていうから、どうしても泳ぎたくって。でもみんなぜんぜんいかないから。これでも我慢してたんすよ」
おれもだよ。そう言うと、彼はまたこちらにじっくりと視線を向けてきた。おでこに上げていたゴーグルを外し、手に握る。耳にかかっていた髪が、濡れた重みでぷらんと下へ垂れ下がった。彼の笑みが、ひとまわり大きく花開く。
「え、まじすかまじすか。気が合いますね。じゃあいっしょに泳いだってことになるんすかね。やっぱ川に来たなら泳がないと損っすよね! まあおぼれて死んじゃいましたけど」
「ちょ、まだそうと決まったわけじゃ」
「冗談っすよー、でもごめんなさい」
「おいおい」
河原であぐらをかき、げはげはと笑い合う。あたりはあいかわらず静かなままだ。でも、だからこそおれと彼の放つ言葉や笑い声はよく響いた。
「なんか暑くなってきたな」
「もう一回川入ればいいじゃないっすか」
「さっきしっかりおぼれたのに?」
「大丈夫っすよ、もう死んでますから」
「だからさぁ、はぁ、まあ、もういいか」
「そうっすよ、またいっしょにおぼれましょうよー」
彼は勢いよく立ち上がっておれの手を引っ張る。まだ重さの残る体でそれについていくと、彼は膝下あたりまで川に入り、そこで思い切り前に倒れ込んだ。とうぜん、手をつないでいるおれも巻き添えのような形になる。きもちいー! 楽しーい! 顔をつけた水中でそう叫びながら、おぼれてしまう前に立ちあがる。その後はどちらともなく水をかけ合ったり、足をひっかけて柔道のようなことをしたりして遊んだ。肉を焼くより酒を飲むより、こっちのほうがぜんぜん楽しい。こんなものが死後の世界なんだとしたら、今までいた場所は、いったいなんだったのだろう。
「あ、そういえば。川名カナタっていいます。このまま死んだやつらどうしふたりきりってこともあるでしょうから、まあ、よろしくお願いします」
「え、えっと、樫野カイトです。第二営業部の」
「そういうのやめましょうよ! どうでもいいっすよそんなのー」
川名がてのひらで水を飛ばしてくるのを腕で防ぎ、おれはお返しとしてあいている右足で水を蹴り上げた。
「カナタって呼んでくださいよ」
「おれも、カイトでいいよ」
水音を立てておれたちははしゃぎ合う。コンロの煙も肉のにおいも、おれたちが立てたもの以外のざわめきも、なにもない河原。不自然なまでの静けさは、今や心地よくすらあった。
「そういえばさ、聞きたいことがあるんだよ」
「なんすか」
「なんでおぼれてたの。いや、陸から見てるぶんにはさ、普通に泳げる人なんだーって感じに見えてたし。足とかつっちゃったのかなって」
「ああ、そういうわけじゃないっすよ」
「じゃあどうして」
「いや、あの、その。シュノーケルって、水中で呼吸できるもんだと思ってて」
え。つぶやきがぽろっと水面に落ちる。川のせせらぎに混じり、蝉がシャワシャワと鳴き始めるのが聞こえた。
「ほら、よくテレビとか動画とかでシュノーケルくわえたまま潜ってるじゃないっすか。それにほら、口のところにもういっこ息が抜けるところがあるタイプのシュノーケルあるじゃないすか、俺がつけてたやつみたいに。なんか、そこでうまい具合に潜水してても一呼吸ぶんくらいは息が吸えるのかなって思ってて」
「あ、あれは管にすこし水が入ったときに排水するためのやつだよ」
「はい。そうですよね」
よくわかりました。初めて彼は笑顔を引っ込め、しゅんとした顔をしてみせた。おれは顔がにやついていくのをとめられなかった。そんなことで道連れにされたかもしれないのに、わかっているのに、おかしくてたまらなかった。
「ぎ、疑問には思わなかったの。ちゃんと調べたりとか、そんなわけないとか思いとどまったりとか」
「いやいやさすがに思いましたよ。本当にそうなの、って。でも、思いついたのがああやって川に突撃する直前で。部署の人とピザ食べてたらああそういえば、って思い出して。だったらちょっと試してみるかって。そういうとき止められないんすよ、疑問に思っててもたしかめたくなっちゃう」
「で、しっかり水を飲んでおぼれたと」
「予想はしてたんですけどパニックになっちゃって」
にやつきは、今や完全な笑みへと変わってしまっている。それが自分でもわかった。なおも鳴り続けている蝉の声に、リズムの違う別の蝉のものが重なっていく。目の前で肩を落とす彼から、目が離せなくなる。死んでしまったかもしれない、ということにまつわるあれそれは、もはやあまり気にしていなかった。どちらかというと、最後の最後にまでこんなことをしてくるのか、見せてくるのか、この世界は、という気持ちのほうを強く感じていた。
そんなアホみたいな理由で巻き込んで、ほんとすみません。ますますうなだれるカナタへ、おれは勢いよく水をかける。顔をかばった腕をのけ、彼は目を丸くする。そこへ、さらに水を飛ばしてやる。さらに目は見開かれ、やがて引っ込んでいた笑顔が戻ってきた。今おれがしているだろう表情と、それはよく似ているはずだ。
冷えた水がおたがいの肌をすべる。それは妄想でもなんでもない。もしも今際の際に見た幻だったしても、そう呼ばせたくない。今このときだけは、この気持ちだけはおれのものだ。
「せっかくふたりきりだし、もっとちゃんと遊ぶか」
「そうっすね」
しっかりと地に足をつけながら、おれたちはおのおのゴーグルやシュノーケルを装着する。そこでもう一度目が合い、またけらけらと笑い合った。蝉の鳴き声が強くなる。見つめる先の川面も深い緑でうねっている。ふくらはぎに当たって砕けるその流れが気持ちいい。川を越え向こうに広がるやぶも、せわしなくがさがさと揺れている。
ん? 今は風などまったく吹いていない。
「あれ、人がおるでよ」
熊かなにかかと身構えたが、草をかきわけ出てきたのはサングラスをした男性だった。ポケットがたくさんついたベストや長袖のラッシュガード、大きな長靴などを装着し、持っているかばんの横には立派な竿が差し込まれている。どうやら釣り人のようだ。しかもひとりではなく、後から三人ほど似た服装をした人がやってきた。一瞬の間の後、彼らはぎこちなくおじぎをしてきた。おれたちもそれにならって会釈をする。鬼、だろうか。地獄の鬼が休暇を楽しみにやってきたのだろうか。
「こ、こんにちは。川遊びの人はあんまここらへんこないのにね、珍しいな」
「ね、けっこうバーベキュー場から離れてるしね」
「あ、あの」
バーベキュー場、あるんですか。カナタがシュノーケルを外しながら質問すると、彼らはよりいっそう怪訝そうな表情を浮かべた。
「え、きみらそこからきたんじゃねえの」
「いや、あの、ええと」
「ちょっと歩きづらいかもだけど、その後ろの草っぱらまっすぐ進んでけば五分くらいでつくよ」
「そ、そうですか。ありがとうございます。あ、あの」
「どしたの」
「その。ここは死後の世界だったり」
「はい?」
「あっすいませんなんでもないっすとにかく行ってみまっす」
ぺこぺことおじぎをし、さっさと歩き出してしまったカナタの後を追う。長く伸びた草の先端がふくらはぎをなぞる。そのたびに、安堵の気持ちとおかしさがこみあげてくるのを感じる。シュノーケルを外したカナタの耳は真っ赤になっている。おれたち、死んじゃったんすかねえ。声色を真似してそう言うと、彼は無言のまま歩調を早めた。あんなに重かったおれの体はほぼ回復しており、その速度にも難なくついていくことができる。
「ここはぁ、死後の世界だったりぃ」
「うるさいっすね」
「死んだものどうしふたりきり、って」
「忘れてください。あ、戻ってきちゃいましたよ」
ほどなくしてバーベキュー場が目の前に姿をあらわす。おたがいにため息をつきながら、社員が集まっている場所へ向かう。
が、そこにはおぞましい光景が広がっていた。散乱した食材や机、キャンプチェア。めちゃくちゃになったコンロ。泣き叫ぶ子供と気まずそうに微笑むその親。歯を食いしばったり怯えたりまあまあーとへらへら笑ったりしているうちの社員。烈火のごとく怒っている柄の悪い見た目のグループ。遠巻きにそれを眺める他の利用客たち。うつぶせに倒れ、ぴくりとも動かない須藤さん。それらすべてを、ただじっと見ているだけの高倉さん。
「うわみんなどしたの、なんすかいったいど」
慌ててカナタの口を手でふさぐ。川で泳いでいたから、いきさつがよくわかっていないのだろう。こんなの、先ほど須藤さんが絡まれだしたときよりもどうにもならない。解決可能なタイミングは、とっくに過ぎ去ってしまっている。仲裁に入ったり前に出ていったりできないことへの罪悪感。そういった考えは、残念ながらもう浮かばない。だって、おれはもう知ってしまっていた。同僚や上司や社長、高倉さんと過ごした日々と、カナタと一緒におぼれて助かり、遊んでここに戻ってくるまでの数十分が、交互に頭へ浮かぶ。
「あのさ、提案があるんだけど」
「奇遇すね、俺もたぶん同じこと考えてます」
どちらを選ぶかは明白だった。だって、おれたちはもう『地獄』にいるのだから。
「荷物回収して、帰っちゃお」
「そうっすね。あ、道の駅寄りましょうよ」
「その前に病院が先だろ。おぼれてんだから」
酒やおいしいものを交え、語らうことで生まれた、平和な場所。そこに背を向け歩き出す。てめえらマジで殺すからな。須藤さんの胸倉をつかんでいた男の声がする。が、それは吹き抜ける風にさらわれ、おれたちのもとには届かない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
試し読みは以上となります。
ぜひ、本編をお楽しみいただけると幸いです。
イベント以外の入手経路
大滝のぐれの通販、渋谷ヒカリエ八階「渋谷〇〇書店」内の棚「ウユニのツチブタ書店」、Kindle Unlimitedにも、イベント終了後少し時間をいただきまして、販売、配信を開始する予定です。

