【#散文】~を生きるということ
前置き
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「~を結果として選んだ」
「~を結果として選ばざるを得なかった」
私は圧倒的に後者に属することの方が多かった。人と違う感覚を持つこと、大多数と迎合できない痛みは、疎外感は、経験した者にしか本当の意味では分からない。
だからこそ、私には前者や大多数が用いる感覚・思考が分からない部分が多くある。
これは、ともすれば結果的に「輪や規律を乱す厄介者」にもなりうる可能性も孕んでいるのかもしれない。当人からすればその思念は1ミリも保有していないのだが。
むしろ、分からないからこそ歩み寄りたい。仮に痛みを伴うことになろうとも、「分からない」を私は分かりたい/学びたい。
(それに多少エゴイスティックだが、マイノリティーとマジョリティーを完全に分断したくない、という個人的な願いも私にはある)。
姿かたちを偽装して見えない誰かになりすまし、感情のままに誹謗中傷したり非難するのではなく。
そしてあわよくば、互いの"良い部分は継ぎ、悪しき部分は絶って"ゆけたら素晴らしい視界が開けてくるのではなかろうか。
結果として分かり合えなかったとしても、異なる視点に触れ、"何か"を得ることができるのはお互いにとって良いことなのでは、と感じるから。
社会という大きな集団、家庭や個人間等小さな集団、「人と人」との関わり合いはどうしてこうも難しいのか。
嘆くことはあれど、それでも私は他者と、異なる価値観を持つ"ひとりの人間"と向き合うことを諦めずに生きてゆく。
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