断片集、つぶやき集03 小林秀雄の「全集を読め」、河上徹太郎を読むこと、吃音の人は歌なら歌える
断片集、つぶやき集03 小林秀雄の「全集を読め」、河上徹太郎を読むこと、吃音の人は歌なら歌える
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iPhoneなどにペアリングできるBluetooth接続のキーボードを何かしら入手できたらいいな、と言うことを思っている。
結構いろいろな文字入力や編集を行うけれど、おそらく同じ作業をするのでも、キーボードを使って操作ができると、ある種類の操作は効率がものすごくアップするんじゃないかと言うことを思っている。
Bluetooth接続ができるキーボードが欲しい。
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小林秀雄が、「これだと思う作家を見つけたら、必ずその人の全集を読め」 ということを話している。
全集がない作家もいるように思うが、その場合、著作集とか、集成とかといったものが代わりになる。
著作集や集成は、網羅性では全集に劣るけれども、ボリュームが充実していて、非常に小さな断片的な書き付けもは収録されていることがあるので、全集がない場合はそちらに頼る。
「その人の全集を読め」と言う、学習者へのアドバイスとしての小林のコメントは、今まで自分に大いに恩恵を与えてくれた。
小林秀雄の全集に触れていると、1ページだけで終わる文章とか、2〜4ページ程度で終わるごく短い文章というものが結構ある。
円地文子さんについて触れた文章とか、スタンダールが書いたモーツァルト伝についてとか、挙げていくとキリがないが、とにかく1ページだけとか2ページだけで終わるごくごく短い文章というものが小林秀雄には結構ある。
分量は小さいけれど、そうした小さい作品の持つエネルギー量が小さいとは限らない。
スタンダールが書いたモーツァルト伝についての感想などは全集の中のたった1ページに収まる分量だが、小林秀雄と言う作家に親しみや愛着を持った、その文章に慣れ親しんでいる愛読者が、まじまじそのページを見ると、驚くようなエネルギー量を持ったものに感じられる、と自分は思っている。
こうした小さい作品は、書店に並べられて入手しやすいような文庫本などに収録されるものもあるが、それらに収録されておらず、おそらく全集でしか閲覧する機会が得られないと言うものも結構多いのではないかと思っている。
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小林秀雄と河上徹太郎は友人同士である。
二人とも批評家である。
小林も河上も、ドストエフスキーを愛読していて、二人ともドストエフスキーについて感想や批評をずいぶん多くの分量書いている。
二人の対談では、ドストエフスキーについて触れているところが記録されている。
二人のドストエフスキー観は、いろいろと差異はあるとは思うが、大筋や根底において一致した性質があると自分としては感じている。
自分は小林秀雄も河上徹太郎もそれぞれの文章を好いている。
小林のドストエフスキー論を読むと非常に面白く感じる。
ある時まで自分は河上徹太郎の書いたドストエフスキー論は読んだことがなかった。
ある時から河上徹太郎の書いたドストエフスキー論を読むようになって、自分は小林のドストエフスキー論が前よりも感じがわかるような気がしてきた。
自分にとって、小林秀雄と河上徹太郎は、その作品を両方読むと、目玉が二つになって、ものが立体的に安定して、より見えやすくなる、と言う感じの印象を受ける。
小林秀雄を愛読していて、河上徹太郎ほとんど読んだことがないと言う人には、小林に併せて河上徹太郎も読むと得るものが多いのではないか、ということを自分は今思っている。
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吃音の人は、不思議と歌だと吃音の症状が出ない、ということがあるようである。
日本人の吃音の人がラジオで、歌だと吃音の症状が出ないと話しているのを聞いた。
ドキュランドにようこそ、という、世界の名作ドキュメンタリー番組を集めた番組で、おそらくアメリカの吃音の若い女性が、「歌だと吃音の症状が出ない」ということを話しているのを聞いた。
同じ声を出すということでも、しゃべるということと、歌うということは、思っている以上に何か大きな違いがあるのではないか、と言うことを、こうした話から最近考えている。
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ジョジョの奇妙な冒険の第5部で、ブチャラティが、こんな意味のことを言っている。
「ゲス野郎は何をしてもしくじるものだ。」
こういうことを自分は実感として結構よく感じるのである。
ゲス野郎と言うと辛辣だし、大げさかもしれないけれども、何か自分の調子が大きく狂っていると感じるときに、何かしら普段とは違う、自分にとって大胆で、チャレンジングと言えるようなことをすると、大抵しくじる気がしている。
それに、不思議とそういう状況だと、その結果が出る前から、「なんだかうまくいかないんじゃないか」ということが事前に自分自身に確信めいた形でよく感じられるのである。
パソコンやスマートフォンで言う、OSみたいなものが人間にも備わっていて、そのOSが機能不全な、欠陥をはらんだ状態になっていると、何をするのでも何となくとんちんかんな、調子が外れた結果ばかりを呼び寄せてしまう、と言うような感じを自分は時々抱く。
そういう時は、エラーや不具合が何かにつけて起こりやすい。
こうした状態を改善できる、定まった、すべてのケースに対応できる万能薬はおそらく見つけ難いものだと感じる。
暗闇で物を探すと言うような、暗中模索の努力を地道にするうちに、何かの折に自分の中のOSがアップデートされて、不具合・エラーが減り、事態が不思議と収束していき、調和した状態になっていく、という道筋が世の中にはある、と自分は経験から感じている。
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