【図解】『関係性の構造』で考える人類史 ~EP3「脳の進化と<神>の発明」~
我考える、ゆえに我なし!?
「即今・当処・自己」という禅語をご存知だろうか?簡単に言えば「いま・ここ・じぶん」。つまり「いまこの瞬間に、他ならぬこの場所で、自分が為していることに目(思考)を向けよ」という教えだ(と私は解釈している)が、逆に言えばそれだけ人間は「いつかの、どこかの、誰かとの、ことについて考えてばかりいる」ということだ。
もちろん、自分に関係する出来事が中心ではあるのだが、それにしてももう過ぎ去ってどうしようもないことを悔いたり、あるいは思い出し笑いしたり、まだ起きてもないことに怯えたり、期待したりする。そしてその出来事にはたいてい"どこかの誰かさん"が一枚噛んでいるのだ。
禅で厳しい修行を積まないと(おそらくは積んでも)、私たち人間はすぐにこのような思考に浸ってしまう生き物である。しかし、そのような思考のクセ(機能)がいまもなお我々のなかにインストールされているということは、それ相応の(進化環境に即した)「合理性」があったということだ。それでは、いったい人類の思考の特徴とは何なのだろう?
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霊長類学者の松沢哲郎は、類人猿のチンパンジーと人間の思考の違いを「記憶力」の観点から比較している。トランプゲームの「神経衰弱」のように、一瞬に大量の数字を見せた直後に、どれぐらい的確に「数字」を当てられるかというテストをしてみたところ、脳容量では人間より小さいチンパンジーの方がはるかに「短期的な記憶力」があることが分かった。
つまり、チンパンジーは「場面の違い」を一瞬で見分ける力を持っている。松沢によれば、おそらくチンパンジーにとって「いまこの瞬間の状況の変化を見極める力」が森のような生息環境を生き抜いていくうえで必要とされたからではないかと推論している。
また、チンパンジーと人間の思考の違いの特徴として、チンパンジーには「過去と現在を比較する」様子がないことも指摘している。非常に悲惨な事故により身体に損傷を負ったチンパンジーでも、まるで健康であったときのことを覚えていないかのように、現状を悲観する素振りを見せない。人間なら過去を思い出し、悲嘆に暮れそうな状況にあっても、チンパンジーは「即今・当処・自己」に振る舞えるのだ。
松沢はそのうえで、人間の思考の最大の特徴を"いま、ここにはない"ことを「想像するちから」に見出している。言い換えれば、"いまではない、いつか"、"ここではない、どこか"という「仮定の出来事」や「不在の物事」を思考できてしまうことこそが、人間の思考にとって他には真似できない最大の"強み"でもあるのだ(禅のお師匠からすれば"弱み"に他ならないのかもしれないが…)。
シェアリング・サイコロジー
認知科学者のトーマス・ズデンドルフは、チンパンジーと人間の思考能力を比較したうえで、人間の思考に特徴的な傾向のひとつに「心の共有志向」を挙げている。人間は類人猿よりも「自分(相手)の想いや考えを知ってほしい(知りたい)」という欲求を強く持っている。たしかに、言語を駆使する能力は圧倒的に人間が上なのだが、そもそも相手にどうしても伝えたいという願望がないと「表現力」や「表現方法」を高めようとしないはずである。なぜ、互いの心の内を重ね合わせようとすることが、人間にとってそれほど重要なのだろうか?
前回、集団内でのコミュニケーションを高めたことが、人類の脳の発達や思考力の飛躍をもたらしたのではないかという「社会脳仮説」について取り上げたことを思い出そう。たしかに、集団のなかで互いの協力行為に基づいた狩猟採集生活を過ごすには、コミュニケーションを取り合って「協調性」を高めることが重要になってくる。
しかし、集団規模が大きくなると、それだけ大勢の人間の性格やそれぞれがもつ人間関係、やり取りの記憶を覚え、考慮する必要がでてくる。当然、互いの思いを共有し、了解し合わないと協調性は高められないからだ。表情やしぐさ、身ぶりから相手の意図や心中も読み取らなければならない。しかも、複数の人間のあいだで了解されている「暗黙の前提」に気づくには、相当の認知能力がないと「KY」("空気"が読めないひと)扱いされてしまう。
互いの信念を「ああかもしれない」「こうかもしれない」と仮定に基づいて類推することは、複数の相手と「共通の了解」を持つために必要な思考力だったに違いない。それはまた「こうすれば、ああなるだろう」「ああだから、こうなのだ」という因果的な推論にも発展する。現在との繋がりから「過去」や「未来」へと意識が向かうことも可能になるだろう。
長期的な人間関係を前提とする集団生活では、むしろ人間にとってそちらを考えることの方が重要だったのかもしれない。相手との共通体験を想起し、相手の出方を想像することが良好な人間関係を築くうえで役に立ったはずだ。逆に言えば、それだけ心を合わせて「協調性」を保つことが個人にとっても、集団にとっても死活問題だったのだろう。
また、過去の失敗や成功を振り返り、未来についての先見性を持てるようになったことが、不透明な生存環境を生き抜くうえで、人類に有利にはたらいたことも間違いない。迫りくる災難を避け、先々の好機を捉えるために、過去の経験を熟慮し、計画を立て、未来を見通そうとする力は人間の生存可能性を大いに高めたはずだ(ズデンドルフは「"いま・ここ"にとらわれずに想像力をはたらかせること」を「心の時間旅行」と呼んでいる)。
その力は、"いま・ここ"にはいない「不在の他者」へと思いを至らすことも可能にした。人類が直立二足歩行により手を使えたことで、"いま・ここ"にはいない仲間のためを思って食物を持ち帰り、「共食」を可能にしたことは前回ご紹介した通りだ。
くわえて、集団の和を乱す人間に対する仲間内での「噂話」が、協調性や公平性を維持するための規制になったことも取り上げた。「あいつは…」という「不在の他者」に対する愚痴やゴシップはいつの時代も人間にとって「密の味」なのだ。
「ことば」によるシナジー効果
噂話のように「ことば」を用いたことも、目の前の状況にとらわれない思考をより可能にしたに違いない。いつ頃から人類が「ことば」を使いだしたのかは諸説あるが、脳の拡大が「ことば」の出現よりも早いことは分かっている。おそらく、脳の拡大による思考や想像力の発達が「ことば」を生み出し、「ことば」の使用がより高度で複雑な推論や表現を可能にしていく、というように両方が相乗効果をもって発展していったのだろう。
いずれにせよ「ことば」による意思伝達は、「心の共有志向」をもつ人間にとって格好のコミュニケーション手段となった。しかもよりいっそう重要なのは、「ことば」によって互いの心に浮かぶ「信念」や「観念」をカタチにして表現し、それを相手に伝達し、共有することが可能となったことである。
もちろん、何かしらのカタチでコミュニケーションを行うのは人間だけに限らない。たとえば、類人猿も顔と顔を突き合わせた「対面交渉」や「毛づくろい」などの身体的接触によるコミュニケーションを積極的に行う。しかし、先ほども書いた通り、類人猿は自分の意思が相手に理解されていることを前提として行動することはない。それぞれが自分の思い思いに行動しているだけだ。
しかしながら、人間は互いの意思を読み取り合うだけでなく、相手が自分に対してどう認識しているのかと考えて行動する。つまり、「相手が理解していること」を「自分も理解している」と相手が了解していると、自分も了解して行動するのだ。理解(了解)していない場合も含めると複雑性はさらに増す。ズデンドルフによれば、このような「入れ子構造」となった再帰的な思考は、人間だけがもつ高度な認知能力だ。
この「入れ子構造」をもった再帰的な思考は、「自分が意識していることについての意識」や「考えている自分について考える」など、内省的な自己認識(自分自身を見つめる目)をも可能にする。頭のなかで「ことば」を駆使するようになり、その洞察をさらに明確に深めることもできるようになっただろう。
さらに、類人猿が行う身体的なコミュニケーションはおもに「一対一」であるのに対して、人間の「ことば」によるコミュニケーションは「多対多」でも起こる。互いの認知はもちろん、(その場にいない人も含めた)複数人からなる「場」全体についての認知を得るには、何層にもなる高次元の「再帰的な思考=メタ認知」が要求される。また、複雑で多岐にわたる「文脈」を全体的に把握する構想力も必要だろう。
こうして人類は、目の前の相手が何を考えているかが気にかかるだけでなく、目の前にいない人のことまで思いやり、さらにそのような自分のことを他の人がどう思うかについて考えをめぐらして行動することができるようになった。そしてまた「ことばの使用」によって、仮定に過ぎないアイデアや考え(あるいは幻想)でさえも、長く記憶し、深く理解し、皆で共有し、複雑に計画することが可能になったのだ。
我考える、ゆえに神あり!?
おそらくどこかの段階で、人間の認知能力や想像力が「臨界点」のようなものを超えたのだろう。それは、人間が具体的な日々の問答を超えて、「形而上的な問い」(いったいなぜ世界はこうなっているのか?自分たちはどこから生まれ来て、死んだらどこへ行くのか?)を発することにつながったはずである。
また、高度に発達した認知的推論能力は、目の前のさまざまな現象を「擬人化」し、背後に何かしらの"意図"を過剰なまでに読み取ろうとする思考癖を人類にもたらした。実際には強風が木々を揺らしているのに過ぎなくても、(あたかも他人のふるまいに対してその人の"心うち"を読み解くように)そこには何か特別な"意志"が表明されているのではないかと思わず類推してしまうのだ。
幸であれ不幸であれ、何かしら自分たちの生活に関わる大きな出来事が生じたときに、この世界の現象は「目に見えない何か特別な存在」の思惑によってもたらされているのではないかという考えが、いつしか人類の脳裏に浮かぶようになったことは想像に難くない(もしかしたら、人類最初の「陰謀論」かもしれない)。
また、他人の目からどう映るのかをつねに気にする「メタ認知」は、そのような見えない存在(の目)に「自分たちのあらゆる行いや、心うちが見られているのではないか」という感覚や考えを抱くことも可能にしただろう。自然現象はもはや「それそのもの」ではなくなり、自分たちのふるまいや心掛けに対する「懲罰」や「ご褒美」として「与えられるもの」となったのだ。
そしてまた逆に人間たちの方にとっても、いわば「世界」のさまざまな現象(「しぐさ」や「身ぶり」)から、それを生み出すものの「心」を読み、コミュニケーションすることが課題となったのではないだろうか。次回以降説明することになると思うが、人類はシャーマンなどを通じて「目に見えない特別な(霊的な)存在」と交信を試み、その力への「畏怖」や「感謝」を示すような儀式を始めていく(それは当初、おもに「死んだ祖先」や「動物」の霊に対する崇拝として表された)。
それは、それまで人間どうしで保たれてきた対等な関係性のなかに、特別な(霊的な)存在との間の「序列」に基づいた関係性を持ち込む可能性を孕んでいた。人間は「罰」を避けるため、また「豊漁」の見返りとして祈りや供物を捧げるようになったのである。
そのような特別な存在は、やがて人類が保っていた集団の規模が大きく拡大するときに、この世界を統御する超越的な力を宿した「高き神々」として出現することになる。それはいわば、不特定多数の人員を抱えた人間社会にとって最初の「正統性原理」(社会を秩序化するために用いられる権力の源泉)となるのだ。
そしてその意味で、この「世界全体を見通す目」を持った特別な存在に対する信仰は、それぞれの人間の勝手なふるまいを抑制し、集団を団結させるうえでも非常に効果的だっただろう。
「他人の目」による抑止効果には物理的な限界があるが、いつでも、どこでも見られている(可能性がある)と人びとが考える場合にその制限はない。そしてまた、脳の進化で獲得した高度な認知能力により、「仮定で不在の(目に見えない)観念や幻想」ですら、人間は集団で共有することができるようになっていたのだ。
主な参考・関連書籍