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本と育つ、本で育つ input & output

先日、「こどもを野に放て!AⅠ時代に生きる知性の育て方」(集英社)を読んでいて、養老孟司さんの書かれた文章にハッとした。
「脳には、入力と出力の両方が必要で、入力だけだと水を吸い込むだけのスポンジと同じですし、出力だけでは、ただ動き回っているだけの壊れたロボットになってしまいます。まだ小さいときに、その入出力を繰り返していくことで、脳の中にひとりでに、あるルールができてくる。それが学習のはじまりです。小さいときから、このようなことを地道に、繰り返し繰り返しやっていくことで、自然に脳がルールを発見するのです。」
本を読む醍醐味の一つは、自分が日ごろ考えていることと同じようなことを述べている、または、「もしやこうなのではないか?」と思っていたことを裏付けてくれるような文章と出合うことだ。まさにこれであった。
幼いころから読書好きだった私は、小学校三年生頃から自分でもお話を書き始めた。三年生は私にとって大きな転換期で急に記憶が鮮明になるのだが、初めて夢中になるシリーズ本と出合い、没頭した年でもあった。それは江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズ。あっという間に全巻読破し、読み終えると特に好きなものを中心に再読、再々読した。その後、ルパンやホームズへと食指を動かしてゆくのだが、同時に始めたのが自分でもお話を書くこと。探偵、謎めいた館、怪文書、無人島、宝探し・・・少年探偵団・ルパン・ホームズでお馴染みの素材が満載、多すぎる奇遇のおまけ付き(これはオリジナル!)、そんなお話を次々と書いていった(殺人は出て来ない。怪人二十面相を真似たのではなく、怖がりだったからだ)。五年生の終わりごろまで三年ほどの間、私はひたすら読んでは書く、を繰り返した。書き付けたのは前の年度に学校で使っていたノートの残り。それが無くなると大切に取ってあった可愛いノート(友達の誕生会やイベントのお土産でよく貰った)を仕方なく下ろした。貴重なので表紙の裏から罫線外の余白まで、びっしりと小さな字で書き付けた。今でもそうだが文章がどんどん湧いてくるのに手が追い付かず、いつももどかしい思いをしていた。宝の在り処や無人島の地図、家の見取り図といったものを描くのも好きで、時には贅沢にスペースを使って念入りに描いた。使い終えたノートは家族の目に触れぬよう、学習机の下に作り付けてあった本を置くスペースに順番に並べ、縦置きで入らなくなると、横置きにして高く積み上げた。
六年生になるとこの執筆熱は急速に冷めていった。中学進学について意識させられるようになり、気持ちが自由で無くなったのだろう。ただ、書くことは好きで、その後も日記や手紙などを記すことは多かった。
面白いのは当時の文章が、その時に読んでいる本の文体に酷似することであった。作者や訳者の文体や言葉遣いの特徴的な部分を、私は無意識に借りて書いていた。大学生あたりからは自分でそれが分かり、「今日は○○さん風だな」と、書き終えて苦笑いしてしまうくらい似ていた。
今思うと、私はそうやって多くの書き手の文を真似ることで、文章修行をさせてもらっていたのだ。各々の特徴を認識して再現することで、その良さや味わいを吸収していたと思う。それらを統合して、大人になった今の自分の、いつ書いてもだいたい同じと言える私の文体に落ち着いたのだろう。このことに気付いたのは20年ほど前だが、「(読んで書くという)inputとoutputって大事なんだな」と実感した。文章に限らず、何かで上達したいと思ったら、まず真似することが近道なのではないかと。二十年を経て、養老さんの文章が、このような私の思考にぴったりと重なった。自分を放ったのは「野」ではなく「本」の世界だったが、自由に伸び伸びとこころ遊ばせて得たものは大きかった。
さて、大学では国文学を専攻した私。卒業論文にはかなり苦労したのだが、なんとかまとめたそれを読んだ指導教員からは「君の文章には力がありますね。勢いがいい。」との言葉。内容についてはついに褒められぬまま終わった卒業論文についての、明るい、貴重な思い出である!

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