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「許せない」という事実を許せ

大学4年の秋だったか、大学生活の余生を食らい尽くすように友人とカラオケで騒いでいた夜中、兄から電話があった。

たまたま私は喫煙所に行く道すがら1人だったので、電話に出た。




「もしもし?」

「あ、ごめん今大丈夫?」

「カラオケだけど話せるよ」

「ああ、ごめん」

はは、と笑いながら、兄は少しぎこちなく話し出した。

「最近はどう?誰かにいじめられたりしてない?」

何それ、と私も笑った。

「いや、なんか今NHKでいじめのドラマ観ててさ、それでさ、なんか心配になって」

「なんでよ、大丈夫だよ」

「そっか、大丈夫ならいいんだけど」

カラオケの階段に腰掛けた私は、1階の喧騒と2階の喧騒の狭間で、突拍子もない兄の話題に怪訝に耳を傾けていた。

兄の声は酔っているのか、よく分からなかった。




「俺さ、お前のこといじめすぎたかなって思って。たくさん非道いこと言ってごめんな。」


唐突に本題だった。



たしかに私は、兄に非道い言葉をたくさん投げられた。

あまり事細かに思い出したくないので羅列はしないが、6つ上の兄が、幼い私、つまりはまだ世界や言葉を知らなくて、触れた物受け取った物全てから「自分」の形成に大きく波紋を及ぼされるような私、固まる前の柔らかいコンクリートのような私、そんな私に投げかける言葉たちは、私の生涯に及ぶ自己肯定感の低さと劣等感の強さを形取るには十分すぎるほどのものだった。

そしてその言葉の応酬は、私が高校を卒業するまでは、その頻度や内容に濃淡はあれど続いていた。いや、大学に入ってからもだな。ひとつ鮮明に覚えているのは、大学1年の夏休み、地元の友達に会うために化粧をしていた私をまじまじ見て兄は、「そこそこマシになったとか思ってるの?」と半笑いで言った。そういう奴なのだ。

兄がそうして私に非道い言葉を投げかけたとて、家族もそれを悪いこととはしなかった。「からかってるだけなんだから間に受けるな」が鉄板のフォローだった。(よく考えたらフォローにはなっていない)(家族ってそんなもんよね)

そのため、まあそれだけが原因というわけでもないが、わりと私は自分を肯定しづらく、また劣等感・コンプレックスも強い女にすくすくと育った。




そんな兄が、私に謝っている。

今までの蟠りが、心の中の燻りと苦しみが、暗く重く肩の上にのしかかって凝り固まっていた劣等感が、ゆっくりとあたたかく、解けていく────

なんてことにはならなかった。

気恥ずかしげに、それでいてどこか清々しげに謝られたとて、私の考え方の癖は変わらないし、傷ついた過去は癒えないし、自分にも兄にも優しくはなれなかった。




兄妹仲は、悪くない方だと思う。それは非道いことを言われる分諍いもしたけれど、今も笑いながら会話はするし、昔だって2人でゲームをしたり、曽祖母のいる施設に2人で行ったりもしていた。私の大学時代には、終電を逃した兄が千葉の私の家に転がり込んできたりもした。

(私以外には)人当たりがよく、誠実な兄を尊敬もしている。非道いことを言われさえしなければ、兄と話す時間を楽しいとも思っている。好きか嫌いかと言われたら即答できるくらいには好きだ。



それゆえに、兄を許せない自分にも歯がゆい思いをした。

「私の痛みを思うと同時に、お兄ちゃんも痛みを感じていたのね…!気づけなくてごめんね…勇気を出して言ってくれてありがとう!もう私、何も怖くないわ!過去に言われたことなんて所詮過去のことよ!へっちゃらだからお兄ちゃんも気にしないでね!」とはなれず、

「私が痛い思いをしているのとは別で兄も痛い思いをしていたんだなあ、まあそれが私を傷つけていい理由にはならないんだけどな それを今更謝って自分ばっかりすっきり清算させようなんて虫のいい話だな」という気持ちになってしまった。

そんな自分が嫌で、電話中に少し泣いてしまった。



だが今は、「兄のことは好きだけど兄を許せない自分」を許してあげることが必要なのだと思っている。

人間誰しも許せないものはあるだろう。許せないことは、喉に何かがつっかえるような、少しの苦しさをもたらす。さらに、その許せない自分を、心が狭いだとか卑屈だとか、そんな言葉で表して、許せない自分を許さないことは、ひどく苦しい。

なので、許せない自分も許す、許せないという事実を許す、という作業を、ちゃんと自分の中で噛み砕きながら行っていきたい。対象をしっかりと噛み砕いて噛み砕いて、いろんな角度から吟味してみて、それでもその対象を許せないという事実は、そのまま大事に許す。それでいいんじゃないかな!

何かを許せなくても、あなたは何も悪くないです。



今月、兄が入籍する。
さんざっぱら前文でネガキャンをしてしまったが、兄はいい奴だ。

優しくて、愛情深くて、情けないほどに脆くて、頼もしい彼に、そしてその彼を選んでくれた奥さんに、あふれんばかりの幸せが降り注ぐことを心より祈っている。



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