【読了】デス・ゾーン ー栗城史多のエベレスト劇場ー
栗城史多。
失礼を承知で言えば「うさんくさい」登山家。
そんな彼について多くの時間を割き、丁寧に向き合い観察し続けた河野啓さんが書きあげたノンフィクションの感想を。
怖いもの見たさってあるじゃない。
先日の金曜ロードショーで流れていたハウルの動く城でも、主人公のハウルが荒れ地の魔女に関してこう言っていた。
「面白そうな人だと思って、僕から近づいたんだ。恐ろしい人だった…」
誰しも好奇心には勝てないのだ。
私の好奇心も、栗城史多には勝てなかった。
実はこの本を読むのは3回目なのだが、読むたびに自分の中の栗城像が変化して面白い。
1回目は「登山家」の本として
2回目は「セールスマン」の本として
そして今回は「喜劇役者」の本として読んだ。
結果的に彼は滑落死してしまったので「悲劇」となってしまったのだが。
ところで、私自身の登山経験はほぼ無い。
高尾山、陣馬山、奥日光らへんの山々を良いシーズンに学校行事で登ったくらいなので、彼が登ってきたような8,000メートル級の山がどんなに険しく厳しいか、私は到底知る由もない。
近年だと「世界の果てまでいってQ」という番組内でイモトアヤコさんがエベレスト登頂に挑戦していたが、見ているこっちまでしんどくなってくるような映像だった。
特にあまりの極限状態に錯乱し始める場面は、八甲田山遭難事件を連想して身震いした。
テレビで放送しているくらいだから大事には至らない、大丈夫だ。
とわかっていても、徐々に精神が壊れていく様子は見るに堪えなかった。
栗城史多といえば
【単独無酸素で7大陸最高峰登頂】
というキャッチコピーが有名だ。
ざっくり言えば「世界中の高い山の中で、特に各大陸ですんごい山に無酸素で挑戦したぜ!」ということだろう。
現に私は自分の子供たちに「何の本を読んでいるの?」と聞かれ、上記のように説明した。
しかしこのキャッチコピーは誇大広告であり、虚偽記載なのだ。
7大陸最高峰の中で酸素を使って登山するのは、通常エベレストのみらしい。あとの6峰は別に酸素を使う山では無い、と。
(それにしても登ること自体が凄いのだが・・・)
文中に出てくる他の登山家が彼を表す言葉はどれも辛辣で、誰一人として彼を「登山家」と認めていないことが伝わってくる。
女性として世界で初めて8,000メートル峰に登頂した3人のうちの1人に、森美枝子さんという登山家がいる。
彼女はとあるきっかけから栗城史多に釘を刺すのだが、その際のエピソードが私には強く響いた。
痺れた。
怒るでもなく、嫌味を言うわけでもなく、悲嘆もせず、ただ淡々と告げる。
きっとその言葉を告げた際の彼女の目や、全身を纏う空気はマナスルのような極寒の冷気そのものだったと思う。
栗城史多はマナスルに登ったものの、本物の頂上ではなく手前の「認定ピーク(ここでも頂上カウントにしますよ、という場所)」まで到達したそうだ。認定ピーク、という概念も中々謎だが、危険な箇所なのだろう。
無駄に死者を増やすよりは・・・というネパール政府の配慮かもしれない。
あくまで素人考えだが。
シェルパという登山のアシストをする専門家たちも命を落とす様な山だ、悲しむ人は少ない方が良いに決まっている。
このエピソードは、いつか自分の子どもたちに機会があれば是非話したい。
マナスルの本当の頂上と認定ピークは30メートルほどの距離だそうだ。
自身が「ニセモノ」とわかっていながらも、でも皆がここで良いって言うからもういいや。と思って歩みを止めるのか。
それとも、森美枝子さんのように他者(森さんたちの場合はシェルパ)から「ここでいいよ。あっちに行かなくても一緒だよ、もういいよ」と言われても「ここはニセモノ、来たかったのはここじゃない!」と更に歩を進めるのか。
人としての本物は、どっちだ。
自分はどちらに到達したいのか。
子どもたちの心に迷いが生じた時、絶対話したいエピソードである。
何回読んでもこの場面に差し掛かると、自然と背筋が伸びる。
栗城史多は資金調達のために色々な人脈を持っていた。
その中にはマルチ商法の幹部とのコネクションもあったようで、きっと私が彼に対して抱いている「うさんくささ」は、こういったところが由来なのだと思う。
マルチ商法や新興宗教の勧誘は、異端だ。
やたらとキラキラしていて、繋がりの大事さを声高に叫ぶ。私もアラフォーなのでそれなりに誘われた経験はある。
今どきはSNS、例えばXなんかでも「この経営者、会社役員、やたらとキラキラしていてうさんくさいな・・・」とセンサーが働くようなアカウントは、大抵自己紹介欄に
「輝く笑顔がエネルギー!」だとか
「御縁ありきの人生」とか
「商品を売るのではない、価値を売る」
みたいな文言が並んでいる。
新興宗教に誘ってきた元友人の眼の奥にチラっと見えた、私ではない何かを見つめる熱が怖くて縁を切ってしまったことを未だに思い出す。
栗城史多からは、そういった仄暗い熱を感じるのだ。
栗城史多は、最期はスポットライトに焼き尽くされた。
まるで太陽に近づきすぎて翼がもげたイカロスのように、余りある光量と熱量に耐え切れなかったのではないか。
マルチ商法のコミュニティや様々な人脈から当てられる「光」や「熱狂」。
始めは彼が御しきれる量だったと思う。むしろ光が当たることに快感すら覚えていたはずだ。
人間、誰だってそういう時はある。
ところが、どんどん夢が大きくなるにつれて光量や熱量を御しきれなくなったのだろう。
彼の心は、もしかしたら蝋で出来ているような脆いものだったのかもしれない。
3回読んで、私は栗城史多という人間に対してそんな考えを持った。
酷い凍傷で両手指を失ったことは大きなニュースとなって連日報道されたし、当時経過が気になって携帯電話でブログを検索した記憶もある。
よくわからない草の汁に指を漬けて、これが凍傷にとても効く保存療法です!と笑顔の写真が載っていたような気がするのだが、記憶違いだったら申し訳ない。
笑顔だけど、笑っていなかった。
そんな記憶だけは確かにあるのだ。
本のタイトルにもなっている「デス・ゾーン」は標高8,000メートル以上のことを指す。
酸素量は地上の1/3で、長時間滞在すると命を落とす。筆者は本書の最終章で、
デス・ゾーンは彼の中にあった。
と書いている。
きっと、誰しもデス・ゾーンを自分自身の中に持っている。時には足を踏み入れて、彷徨うこともあるかもしれない。
彼は帰っては来られなかった。
私は山に登る機会は今後の人生であるかどうかはわからない。
が、自分の内側から湧き上がる光…それが何のジャンルでどんなカテゴリのものかは不明だが、それを得るために一歩一歩足場を固めながら残りの命を登っていきたい。
そんな風に思う一冊だった。
他者からの勝手な期待や評価に身を焦がされず、きちんと自分の中での「頂上」を踏破したい。