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オールナイトニッポー0805

水木しげるにちなんで、水・木(曜日)はお休みにしてます。そして、休(み)はQ(uestion)について考えたい日でもあります。

「人は困ったときにこそ本を手に取る」

みたいなことを言ったお偉いさんがいる、と水木しげるが教えてくれたが、それはたぶん事実なんだろうと思う。

水木しげる当の本人も、戦争の雰囲気が漂い、さらには何度も学校でしくじる中、ゲーテの著書に出会った。水木しげるを語るうえでゲーテは欠かせないもの、らしく、やはり困ったときの救いの手となる言葉は心にしぶとくこびりつくのだろう。

自分自身を振り返っても、たしかに何か迷いがある(その迷いが何なのか言語化すらできてない)とき、不思議と本屋さんに吸い寄せられていた。よく足を運んだのは、新宿ビックロ前にあったジュンク堂、それと紀伊国屋新宿本店と紀伊国屋新宿南店だった。店内とうろついていると、そのときの心象にハマる言葉を棚から見つける。

「ああ、自分はこれでモヤモヤしてたんだなぁ、じゃあこうするといいのか」

と一つの指南がめくるページには載っており、本とはいいな、と基本ぼくが思うのはこの「困り果てた」ときだけである。それに似て、「本」に限らず、「映画」も同じよう状態でつい観てしまっているなぁという感覚がある。

何か自分の中で煮詰まらない何かがあるとき、知らず知らずのうちに、そのヒントを作品に求めているのだろう。で、最近なんかはこの状態が続いている。毎日とは言わずとも、週に数本観てしまうような流れができている。まだ推理中ではあるが、自分の中に「答えが出せない何か」がある。

その答えはさておかせてもらって、今日は『おいしい家族』を観た。ここでやっとQ。「家族とは何か?」である。

ひさしぶりに実家に戻ると、「父さんが母さんになっていた」という物語を描くのが『おいしい家族』。弟は国際結婚をし、父は「母になる」と宣言し再婚するという。その再婚相手は血のつながらぬ高校生の連れ子がいる年下の男性。主人公の松本穂香演じる橙花は、その局面に最初困惑するが、小さないざこざや対話を通じて、少しずつ理解を示していく。

あえてこの言葉は使うのであれば、”普通”ではない家族のかたちである。がぼくはむしろこういう家族のかたちを望んでるな、と思った。こういう共存・共生がいいな、と。

言うても、自分は(今のところ)ストレートであるけど、だれと暮らすか、ということに対して、その性別・性的趣向などはあまり関係がないなとつねづね考えている。

仕事よりも何よりも大事なもの、というかそれも包括するのが「暮らし」としてるわけだけど、いっしょに暮らしをつくっていける人というのはおそらく愛おしいのだろう。

小さい頃からなぜか『フルハウス』に心奪われていたが、この作品をきっかけに培ってきた価値観としては、やはり「血がつながってるかどうか」とか「(契約上)結婚してるかどうか」とかいうことは、わりとどうでもいいことになってしまっている。

そのうえで、今住んでいる家で、家族で、暮らせたらいい。

6月に福岡で足を運んだ「Qross」は、自分が求めるかたちに近い場所だったように思う。

その前に知った「拡張家族」という概念に通ずるような(Qross運営の坂田さんは過去Cift住人でもあったはず)。

もう4年目になる。今の家に住み始めてから。最初は3人で住んでて、今は1人と5匹暮らしになって、当初考えてた仮説/プランからも少しずつズレてきた...いやズラしていかないといけないかもな、と思うようになった。

ここから軌道修正をしていく。つまりは、な〇を「な〇家」にかたちを変えていければ...ということである。ただまあ人と家というのは縁でしかないから、「空きがあるから住んでいいよ、はいどうぞ!」というわけにもいかない。いっしょに暮らす以上は、人としてどんなに違いはあれど、何か根っこの部分でで共鳴するものがないとつらい。

その共鳴軸を探っていく意味でも、「大見謝はこんなことを考えてる人間だ」というのはちゃんと伝えなくちゃだし、「書く」ことはその助けの一つになってるなと感じるわけですよ。先は長いぜよ。

先は長いからこんなところでへばりたくもないので適度に休みつつ、ということで、とりあえず今晩はこのへんでドロンさせてもらいます。

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